26話 無情な策略
陽が高く昇り始めた頃、隼人は自転車で霧丘農業高校に向かった。
4回目の取引では、『ホースやポンプを渡して教科書をもらう』と見せかけて、自分用のシャンプーを混ぜて、結依と女性教師陣との妥協を図ろうと考えている。
「怖いんだよなぁ」
力であれば、ヒグマは人間には負けない。
だが人間には知恵があり、結果を得るために最も有効な手段を採れる。
女性教師陣は、その知力を以て隼人に迫ってくるだろう。
頭脳戦を繰り広げるくらいなら、最初からシャンプーなどを数本持っていき、「民家を漁りましたが、これしか見つかりませんでした」と言ったほうが早い。
それなら女性教師陣も引き下がるし、大森や小林も仲裁してくれる。
「俺の分なら、問題ないだろう」
そう結論付けた隼人の視界に、霧丘農業高校を囲むバリケードが映った。
グルリと回り、隼人が最初に屋根に登って校舎を観察した民家のほうに向かう。
すると今日は、正面門前に車の姿があった。
それは第二次世界大戦で連合軍に広く使われた、オフロード性能が高く、頑丈なフレームを持つ四輪駆動車の新型車だった。
隼人も欲したが、見つからなくて、ある程度は妥協している。
車は正面門前に停車しており、4人の男達が車外に降りている。
目を見張って凝視した後、隼人は民家の影に隠れた。
幸い、見つけたのは隼人のほうが先で、相手には気付かれていない。
――おかしいな。
ゾンビがはびこる世界で、外に出ているのはおかしい。
訝しんだ隼人は、自転車を収納して足音を消しながら近付き、民家の影に隠れて聞き耳を立てた。
人間は、10メートル先の会話を聞き取れる。
隼人の身体能力はヒグマ並で、クマの聴力は人間の2000倍もある。
音の減衰はあるが、クマは人間の20倍ほど先の音が、聞こえるのではないか。少なくとも隼人は、聞き取れる。
隼人が集中すると、男達の会話が聞こえてきた。
「逸平、どれくらいで終わりそうだ」
「男子寮に半分以上、車に付いてきた残り半分弱が、女子寮のほうに流れました。生徒は終わったと思いますが、離れた教員寮がしぶといかもしれません」
「女子寮には流れる数は、もっと少ない予定だったがな」
「すみません。成り立てに付いてくる奴が、少し多かったです」
ハキハキとした青年の問いに、隼人よりも若そうな男の返答が続いた。
「教師は何人だ?」
「はい、小倉さん。黒原からは、16人だと聞きました」
「男と女の数は?」
「半々ですね」
中年の男が低い声で問い、先ほどの若そうな男が答えた。
「俺と逸平は、ここの連中とは面識がある。教師が俺らを見つけて逃げてきたら、助ける振りをして引っ張り出す。小倉と山下は、裏で教師を始末していけ」
「分かりました」
「そこに民家の塀がある。死体は内側に捨てて隠せ」
「はい」
壮年の男の声がして、中年が短く答えた。
要点を聞き終えた隼人は、民家に身体を隠したまま、意識の集中を解いた。
男達のうち2人は、3回目の取引の帰り際に菜月が教えてくれた、「物資を取引してくれる人達」だった。
彼らは、トラックで敷地内に入っていた。
方法は分からないが、トラックにゾンビでも入れてきたのかもしれない。
彼らの目的は、食料生産地の獲得だと、容易に思い付く。
――取引するよりも、直接制圧したほうが早いからな。
現在、市内の物資が減ってきた。
そして霧丘農業高校は、水田には稲が育ち、畑には農作物が育ち、果物も実る。200人が豊かに食べていける環境が、完成しているのだ。
戦力も200人だが、生徒が大半で男女半々。
武装も、農具や鈍器程度。
襲う側にとっては、なんとも魅力的な場所である。
彼らのグループが何人居るのか定かではないが、200人よりは少ないだろう。
徹底的な悪徳に走るならば、反抗の可能性がある教師と男子生徒は、排除する。そして生き残った女子生徒だけを組み込む。
農高生が数人残れば、農業高校内で育てていた作物の説明は出来る。
霧農を制圧して、生き残りを組み込んだ組織の下っ端に農作物を育てさせれば、以降の食料供給は安泰だ。
食料生産力が200人分から50人分に落ちても、50人分の食料は得られる。足りる分だけ人数を増やせるし、足りなければ他所から手に入れれば良い。
彼らにとっては、それで充分すぎる成果となる。
――4回目の取引、無くなったな。
隼人は担いできたリュックに触れて、それを収納した。
食料自体や生産力の価値に比べて、自衛力が低すぎるのが、襲われる原因だ。
部外者を全員断り、教師と生徒で運営したことが、徒となったのかもしれない。
今回助けたところで、今後も霧農は狙われ続ける。
そして隼人は、結依のウイルス感染を知る人間が居る霧丘市には、留まれない。
『生物の目的は生存して子孫を残すこと』
隼人は個人的な思想において、それが自然の摂理だと考えている。
結依を優先しているのは、好感度を上げれば良いと言われたからだ。
現状では、隼人自身の生命に次ぐ保護対象で、霧農よりも遥かに優先される。
それに結依が捕まれば、治療した自分も芋づる式になるので、なおさら霧丘市や近隣には居られない。
隼人の心残りは、連れて行くのかを迷っていた菜月だけだ。
菜月を連れて行けば、結依の好感度は下がる。
だが菜月が付いてくるのなら、菜月もパートナーに成り得る。
隼人は煩悩を捨て去った僧侶ではなく、少なくとも欲求的には、普通の男性だ。
「201号室だったかな」
正面から向かって一番右端で、跳び越えてきても良い。
そう教わった隼人は、正面門に屯する連中から見えない位置のバリケードから、霧丘農業高校の敷地内へと入っていった。
◇◇◇◇◇◇
敷地内に侵入した隼人は、以前見た4階建ての女子寮へと向かった。
ヒグマ並の速度で疾走した隼人は、何体かのゾンビに見られた。
だが時速50キロメートル以上で走る相手が、獲物だと判断できなかったのか、腐り始めた首を傾げて困惑されたまま、見送られた。
「グァァ?」
一応、追ってこようとする個体も居たが、隼人は圧倒的な速度で引き離した。
そしてクリーム色の女子寮を視界に収め、速度を落とさないままに駆け寄って、ジャンプして2階のベランダに跳び乗った。
窓ガラスは割られており、隼人は外から見られないように、靴を履いたまま室内へと飛び込んだ。
最初に目に映ったのは、2人と1体。
噛まれて傷だらけとなり、うつ伏せになっている小柄な少女。
頭を破壊され、床に転がる大柄なゾンビ。
そして部屋の壁にもたれた半座位の菜月。
菜月の顔には疲労が色濃く、血の気は失せていた。隼人が近寄ると、菜月の薄く開いた瞼がゆっくりと動き、ぼんやりと隼人を捉えた。
「……どうしたんですか?」
菜月が先に口を開いた。
口調は冗談めいていたが、気力を使い果たしたような声だった。
「前に言われたから、来てみたところだ」
隼人は室内を見回して、小柄な少女に目を向けた。
隼人が窓から来るかもしれないことを、菜月は同室者に伝えると言っていた。
だが同室者の意識が覚めることは、最早無いだろう。
隼人は、菜月に視線を戻した。
「どこかに連れて行ってくれると思っていたのに、ちょっと遅かったですよ」
言葉に迷っていると、菜月が端的に本音を吐露した。
もう最期だからか、迂遠な言い回しはしていない。
隼人も、正直に伝えることにした。
「俺も連れて行こうかと悩んでいたが、先に同行者が居た。一人だったら、迷っていなかった」
「恋人ですか?」
菜月がわずかに顔を上げて、かすかに笑った。
弱っているせいか、言葉に力を欠いている。
「いや。俺が助けた時、対価が見合わないと言っていたから、肉体労働を想像して身体かと呟いた。そしたら勘違いして、好感度を上げたら良いと言ってきたから、そういうことにした。そんな関係だな」
「なんですかそれ」
隼人が真面目に説明すると、菜月は力なく、ふっと笑った。
「わたしだったら、連れて行ってくれるなら、別に良かったんですけど」
「同行者がいてもか?」
隼人が問い返すと、菜月は静かに頷いた。
「良いですよ。もう遅いんですけどね」
その声には力が無かったが、どこか安堵の色も混じっていた。
隼人は口を閉ざして、しばらく無言で佇んだ。
「隼人さん、早く逃げたほうが良いですよ。未亜ちゃん、もう起きるかも」
「……今、連れて行こうかと真剣に悩んでいる」
隼人が本気で検討している様子に、菜月は不思議そうな表情を浮かべた。
「私も明日くらいには、ゾンビに成っちゃいますよ」
「俺のほかに、さっき言った同行者が1人居ても良いんだな?」
噛まれたことを気にしない隼人に不思議がりながらも、菜月は本心から答えた。
「最期でも、どこかに連れて行ってくれるなら良いですよ」
最期になったが、自分が望んだとおり連れて行ってもらえるなら、それで良い。
そのような菜月の言葉に、隼人は決断した。
「俺が結依に怒られたら、慰めてくれ」
「良いですよ」
菜月の傍に歩み寄った隼人は、両手で身体に触れ、神聖魔法を発動させた。


























