23話 嵐の前
「霧農が、農業の教科書を交換してくれると言ってきたんだが」
「それで?」
隼人が切り出すと、結依はピクリと眉を動かし、表情をわずかに歪めた。
眉はハの字を描き、口角は皮肉めいて微かに上がる。
駄目な亭主が今日も稼げなかった、賭け事で散財した、あるいは喧嘩をして帰ってきた。
そんな江戸や昭和期の惨憺たる家庭風景を彷彿とさせる演技めいた仕草だった。
――教科書を交換することが、散財になるのか?
薬局の収集品を熊倉家の財産とした場合、教科書を買うために使うことは、散財にあたるのだろうか。
考え込んだ隼人は、やがて散財にあたらないという主張を試みることにした。
教科書は、ヘアケア・ボディケア・スキンケア用品各種よりも価値が高く、交換は損にならない。そのように控訴を行った。
「農作物の種は、全部もらってきた。うるち米、もち米、トマト……」
隼人はリストを挙げ始めた。
そしてキュウリ、ナス、ピーマン、キャベツ、レタス、ほうれん草、ジャガイモ、大根と、野菜の名前を挙げていく。
瑞々しい野菜の数々が列挙された後、甘い果実が挙げられた。
「果物の種は、イチゴ、メロン、オレンジ、リンゴ、ブドウ。農業高校で栽培している品種だから、かなり美味いんじゃないか?」
女子には、美容のほかにも追い求めるものがある。
それは、甘味だ。
「ドラッグストアの粉末ドリンクは、直ぐに無くなる。だけど果物を育てたら、育てた分だけ食べ放題だ。そして育てるには、教科書が要る!」
「うっ」
駄目な亭主が、痛いところを突いてきた。
そんな困り顔を浮かべた結依は、視線を床に落とした。そして一拍置いてから、やがて答えを見出して再び口を開く。
「うるち米と、もち米は、田植えの1ヵ月から2ヵ月前に水を吸わせて発芽させて、4月頃に植えます。田んぼを使って下さい」
「ぐぬっ」
なんと結依は、自分が教えるから教科書など不要なのだと反証を試みた。
「トマトは、2月に種を畑に埋めれば、後は放っておくだけで大丈夫です」
「本当なのか?」
結依は堂々と断言している。
だが、あまりに簡素で、隼人は釈然としなかった。
「でもお父さんの家庭菜園で、指の第一関節くらいの穴を開けて種を埋めたら、水を撒くだけで育ったんだけど?」
自分には体験談があるのだと、結依は根拠を述べた。
自信に満ちたその声に、隼人はほんの一瞬だけ言葉を失った。
「マジか」
「うん」
結依は確信を以て断言した。
作物を育てたことの無い隼人には、それが正しい主張なのか判断できない。
だがトマトは夏野菜で、成長を逆算すれば、2月くらいの気がしなくもない。
半信半疑の隼人は、次の作物を問う。
「それなら、キュウリは?」
「キュウリも簡単。種を1月に畑に埋めておくだけ」
「ほかの作業は?」
「水をあげれば良いんじゃない。外なら雨が降るから、埋めるだけで良いかも」
あまりに軽い答えに、隼人は思わず目を細めた。
そんな作業で済むのなら、農業高校などいらないのではないだろうか。
そして日本中でキュウリが栽培されて、日本がキュウリ王国になっているのではないだろうか。
隼人は疑いの眼差しを向けたが、結依は力強く断言する。
「人間が育てる前って、自然に育っていたんじゃない?」
「それはそうかもしれないが」
「だったら植えれば、自然に育たなくない?」
それを否定することが、はたして誰に出来るだろうか。
農業高校なら出来そうだと考えて、農業高校の女性教師陣を思い浮かべた。
弁護士として召集すれば、物凄い勢いで容赦なく結依を論破しそうだ。
おそらく結依は、大人しく引き下がるだろう。
だが推定で内弁慶の結依は、隼人に対しては主張した。
あるいは隼人にじゃれて、甘えているのかも知れない。
「ナスは知っているのか」
新たな質問に、結依は少しだけ間を置いて答えた。
「お父さんが3月に植えていたかも……じゃなくて、植えていたから。それに2月とか4月でも誤差じゃない?」
本当だろうかと隼人は疑いを持ったが、抗弁する知識が無い。
やはり自分用の何かを削ってでも、教科書は得ておくべきかもしれない。
だが結依が本当に詳しい可能性も考慮して、念のため次の野菜を質した。
「キャベツはどうなんだ」
隼人の問いかけに、結依は一瞬だけ視線を宙に泳がせる。
そしてスーパーに並んでいる姿を思い出したかのように答えた。
「春キャベツ、夏キャベツ、冬キャベツってあるから、いつでも良いかも」
「どうして秋キャベツは無いんだ?」
「知らない」
植物を育てられると主張できれば良いのか、結依は無関係な部分は知らないと、バッサリ切り捨てた。
だが、そのおかげで結依が実際には詳しくなくて、単に抵抗しているだけだと判明した。
「そんなに嫌か」
隼人の問いかけに、結依は少しだけ黙り込んだ。
顔を逸らす仕草には、どのように答えるべきか悩む様子が窺えた。
だが一筋の光明が差したのか、顔を上げて、新たな論拠を主張した。
「果物って、実った後に種を落とすから、その時が植える時期かも。リンゴだったら秋以降」
「それは、分からないでもない」
新たな結依の主張は、自然の摂理に則っており、隼人にも納得感があった。
だが夏野菜のトマトは、2月に植えろと言っていなかっただろうか。
そんなことが思い浮かび、だが流石に裁判の口論に疲れてきたので、隼人は抗弁を断念した。
「分かった。ヘアケア用品を渡すのは無しで」
隼人が白旗を揚げた後も、結依は黙って隼人を見続けた。
「もちろんボディケアとスキンケア用品も無しだ」
「薬局の商品は、全部無し」
熊倉家の財務大臣である結依は、隼人の想定を遙かに上回る緊縮財政を行った。
緊縮財政とは、政府が支出を削減したり、増税したりして、財政を引き締める政策のことだ。
増税はしないが、無駄な支出は削減しまくっている。
3年前までの日本政府には、ぜひ見習ってほしかった。
――薬局の収集品は、好きにして良いと言ったからなぁ。
薬局の商品を持ち帰った際、「自分達が最優先で、いらないものだけ渡す」や、「結依も、好きなだけ選んで良い」と、隼人自身が伝えている。
結依が薬局の商品を自分で使いたいと言うのなら、それは仕方のない話だ。
「じゃあ、何が良いんだ。異世界品は疑われるから、俺からは渡せないぞ」
隼人が質すと、結依は薬局以外から集めた品々を思い浮かべた。
「余ったホースとポンプ?」
隼人はガソリンを回収すべく、ホームセンターでホースとポンプを回収した。
燃料用ホース、耐圧ホース、耐油プレッシャーホース。
ハンドポンプ、ピストン式ポンプ。
ガソリンの回収に使ったのは耐圧ホースとハンドポンプだったが、いずれも複数を確保しており、余らせている。
もっとも燃料自体が手に入らない状況なので、燃料用ホースを渡したところで、先方には使い道が無さそうに思えた。
「確かに余っているが、燃料用ホースは、需要があるのか分からない」
「ポンプは?」
はたしてポンプは、要るのだろうか。
だが小林は、学校に来られなくなった生徒の教科書が余っていると言っていた。元々はタダでくれようとしていたので、何を持っていっても譲ってくれそうだ。
問題は、目の色を変えていた女性教師陣だけである。
そちらが難題だと、隼人は肩を落とした。


























