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5 愛すひと







「私、自分の気持ちを推測されたりするの、大嫌いなの」


 だからあんた嫌い、話しかけないで、近寄らないで、どっかいって、消えうせて。


 曲がり角の向こう側から、そんな声が聞こえてきて、しかもその声が聞き知ったものであった僕は軽く駆けて、急いで角を曲がった。そこには案の定、彼女がいた。道路に蹲って、持っていたのであろうスーパーの袋は、力なく道に横たわっている。

 そして隣には、心配して彼女に声を掛けてくれたのであろう、立ち尽くす一人のおばさん。推定年齢四十代後半。右手で子どもと手をつないでいた。顔は驚きで固まっている。当たり前だろう、蹲っている女に親切で声を掛けたのに、あんな返事が返ってきたのだから。

 僕はかるく息を吐き出して、三人に駆け寄った。


「ほら、何やってるの、もう」


 横たわるスーパーの袋を持ち上げて、力いっぱい彼女を引き上げて、僕の肩に手をまわして彼女をどうにか立たせた。


「迷惑かけてすみません。もう大丈夫ですので」


 未だに動かないおばさんに適当に挨拶をして、僕は彼女を支えながら歩き出した。後ろでおばさんがどもるように返事をしたのが分かった。少しとげとげしい返事だ。あぁ、やっぱり怒っていた。


「駄目でしょ。心配してくれてる人にああいうこと言ったら」


 ゆっくりと歩を進めながら、僕は幼い子をあやすように彼女に語りかけた。彼女は返事をしない。怒られたときなにも言わなくなるのは、いつものことだ。

 左手に彼女、右手に重たいスーパーの袋を持って、僕は彼女のペースに合わせるように歩いた。一歩一歩ゆっくりと歩くたびに、右手に袋が食い込んで痛い。ちらりと横を向くと、彼女の辛そうな顔が見えた。このまま歩いて行くのは難しいだろうか。今日はすでにずいぶんと疲労しているようだった。


「ちょっと休んでいこう」


 僕は近くにあった公園のベンチに彼女を座らせた。その横に袋を置いて、そのまた横に僕も座る。袋を椅子に置いたときの、ドサッという豪快な音が耳についた。彼女は僕と会話をする気がないようだった。 決してぼくと目を合わせようとせず、公園の時計、ブランコ、滑り台、シーソーと視線を投げかけていく。僕も特にすることもなく、彼女が持っていた袋に目を向ける。描いてあるロゴの、大きく笑った顔は、袋が伸びたせいで苦笑いをしているように見えた。中身は、色とりどりの飲料物。黄色に紫、赤、青色まである。

 共通しているのは、全部野菜ジュースだということ。


「こんな重いもの、よく持てたね」


 返事が返ってくるか分からないから、かろうじて彼女に聞こえるくらいの声で口を開いた。やはり彼女は言葉を返さない。僕が返事に期待をしなくなったとき、彼女はぽそりと小さな声で言った。


「別に、そんなに重くなかった」


 こちらを見ないでそう告げる。強がりなのもいつも通りだ。

 今彼女の興味を引いているのは、ブランコに揺れている二人の少女のようだった。笑い声が響いている。彼女は細い腕を持ち上げ、光を遮ろうと手を目の上にかざして、ずっと少女たちの揺れ合いを眺めている。


「なんでこんなに野菜ジュースばかり買ったのさ?」


 今度のその質問は、返事に先ほどよりも長く時間がかかった。赤と青のペンキで塗られたばかりのブランコはまだ止まることを知らない。少女たちは高さ比べをしているようだった。二十回ちかくブランコが上下したあと、彼女はぽつりと言った。


「栄養とろうと思ったの」


 薬、嫌いだし、ご飯、食べたくないし、これが一番いいと思ったの。僕は少しだけ驚いた。そして嬉しくなり軽く微笑む。彼女は生きたいと思っているのか。


「言ってくれれば、僕が買ってきたのに」

「それじゃ意味ないでしょ」


 僕の彼女を想った提案は、今までにないすばやい返答で却下をされた。

 ごめん、僕は声だけで謝って、彼女の髪の毛に指をすべらせた。彼女は何も言わずに、袋にはいったジュースの上に器用にベタッと上半身をのせていた。

 そのとき突然、静寂を壊す大きな声が耳に聞こえた。




――ママ、おかえりなさあい!



 ブランコに乗っていた少女たちが、母親の姿を見つけ、ブランコから飛び降りて走っていく。公園のエントランスに、綺麗な女のひとが立っていた。二人の少女は勢いをつけて母親にしがみつき、ひとりはおんぶで、一人は手をつないで、そのまま三人で公園から出て行く。それをうつろな目で眺めていた彼女は、いきなり立ち上がった。


「あれ、乗る」

「ブランコ?」


 彼女は僕に返事をせずにブランコに向かって歩いていった。待ってよ、僕は歪んだ笑顔の袋を一度ちらりと見てから、それをそこにおいたまま彼女の後を追った。

 彼女は先に赤いブランコに座って、小さく漕いでいた。僕も横の青いベンチに座って、漕ぎ始める。大きく足を伸ばして、曲げて、空気をゆっくりと身体に受け始める。ブランコはペンキこそ新しいが、骨組みは僕が小さい頃遊んだままで、揺れるたびにジーコジーコと音がした。

 高く、低く、身体が浮くような感覚にとらわれながら僕は少しの間目を瞑って、それに身を任せた。ふと目を開けると、隣のブランコがさほど揺れていないことに気づく。僕は足を大きく地面につけて、砂埃とともに靴をずってブランコを止めた。


「大丈夫?足、動かすのつらい?」

「別に、大丈夫だから」


――なんでそういうこと聞くの。


 小さく揺れたまま彼女は答えた。まっすぐ前を向いて、やっぱり僕の方を見ようとしなかった。ああもう、僕は小さく微笑みのようなため息をついた。鎖を掴んで、彼女のブランコの揺れを止める。

 ちょっと、止めないでよ、そう口を開く彼女を無視して、彼女の座っているブランコの両端に足を乗せて、勢いをつけて立った。


「しっかりつかまってね」


 僕は足を曲げて思いっきり漕ぎ始めた。高く上がっていくにつれて、彼女が鎖を必死に握り閉めているのが分かった。十回ほど漕いで、あとはゆっくりと止まるのを待った。揺れは少しずつ小さくなり、止まった。


「楽しかった?」

「怖かった」


 ブランコを折りながら聞いた僕に、彼女はポツリと答えた。公園のエントランスを見て、それから僕に目を向ける。


「そろそろ、うちに帰ろっか」


 僕は彼女にいった。こくり、彼女は縦にクビを動かす。けれどその場から動こうとしなかった。僕は言葉を飲み込んで、彼女の前に背中を向けてしゃがみこんだ。


「おぶってあげる」


 ほら、乗って、僕が強引にそういうと、彼女は倒れこむように僕の背中にもたれかかった。僕は足に軽く力を入れて立ち上がった。そのままゆっくりとベンチまで歩き、内側が水滴でベタベタとした袋を手首にかけた。




「今日だけ特別に、僕のことママって呼んでもいいけど」


 エントランスまで来たとき、僕は小さく微笑んで言った。彼女は無言だった。僕のいった言葉の意味を、本気と冗談と、どちらにとったのだろうか。それから五分、僕は家までの道をゆっくりと歩いた。閑静な住宅街ですれ違う数人は、いつも僕らのことを奇異の目で見る。けれど僕らはそんなことはもう慣れっこで、気にせずにゆっくりと歩き続けた。


「ねえ、ママ」


 彼女が声をあげた。僕の言葉を本気にとったようだった。


「わたしが死んだら、どうする?」


 彼女がよくするいつもと変わらない質問だった。いつもは僕も変わらず、どうすればいいかわからなくなるよ、と答えていた。けれど、今日は違った。その返事はやめた。


「どうすることもしないよ」


 僕は答えた。彼女が背中で小さく動くのが分かった。きっと僕の言葉に絶望を感じ取ったのだ。すぐに意味を取り違えるのが、彼女の悪い癖。


「そっか」


 彼女は僕の背中で縮こまった。それきり、口を開こうとしない。彼女が話を続けないのを確かめて、僕は口を開いた。


「きっと僕は、どうすることも、できなくなってしまうと思うんだ。話すことも聞くことも見ることも全部やめて、食べることもしなくなる。それで、僕の人間としての機能をすべて止めてしまうんだ」


 後追い自殺ではない。別に死にたいと思うわけではない。けれど、生きるために必要な行為をする気などおきなくなる。そして、後を追うかのように、君の元へ行くよ。

 背中で小さくなっていた彼女が、僕に強くしがみついた。


「野菜ジュース買ってきてよかった」


 彼女は呟く。見えなくても、微笑んでいるのが分かった。


「ママは私がいなくちゃ寂しいよね、つまらないもんね」


 ふふふ、よほど嬉しいのか、笑い声まであげる。


「わたしもママがいてよかった」


 笑い声とともに、そうもいった。僕も嬉しくなる。


「じゃあ今日は、サービスでこのまま走ってあげるよ」


 その言葉を言い終わらないうちに、僕は足に力をこめて走り出した。背中にいる彼女の笑い声が聞こえる。





「走るのは、パパの仕事」


 家の前について僕が彼女を降ろしたとき、僕の耳に、そんな言葉が届いた。ぼくはそうだねという意思をこめて、頷く。そして門を開けて入ろうとしている彼女に向かって言葉を発する。


「僕は君のパパだよ」


 彼女はその動作をピタリととめた。


「それに、おじいちゃんでもあるしおばあちゃんでもあるし、兄弟でもあって、もっと言えば友人、恋人、もしかしたらペットかもね」


 君にとっての僕は、そういうものでしょ、僕が小さく呟いた最後の言葉まで彼女にはしっかりと聞こえたようだった。


「私の気持ちを、勝手に推測しないで」


 彼女は僕に背を向けたままそういった。けれど今はあまり怒っていないようにも見えた。

 僕は彼女に気づかれないように小さく微笑む。違うよ、推測なんかしなくたって、分かってしまうんだからしょうがないんだ、僕はそう言おうとしたのを止めて、彼女の背中を押して家に入るように促しながらわざとらしくため息をついた。


「だったら、言ってくれなきゃ、わかんないよ。生きていくんなら、もっとコミュニケーション能力は必要」


 なにも言い返さない彼女に向かって僕は続ける。


「ほら、今はどうしたいの、言ってみなよ」


 彼女はしばらくの間無言だった。したいことを考えているのだろうか、それとも怒って無言なのだろうか。何分間も無言が続く。僕はじっと彼女を見つめていて、彼女は時々僕をみたり、目を瞑ったりしていた。


「野菜ジュースが飲みたい」


 数分間待った後に出てきた答えはそれだった。僕はよく出来ましたの意味をこめて頭を撫でる。彼女の知らない母親という存在に、限りなく近くなれるように。彼女は照れくさそうに、されるがままになっていた。コップと、それと氷を用意しなくちゃいけないな、そう考えながら僕は彼女の頭に乗せていた手で彼女の手を握って、二人で家の中へ入っていった。こんな生活を、彼女の死まで続けていくんだろうという予感がした。









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