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4 狂うひと








 友人が浮気をされたらしい。そんな噂がどこからか自分の耳に入ってきた。ひとの口に戸は建てられないものである。あの子も可哀想な子、これから浮気をされた女としてずっと惨めな思いに駆られるに違いない。

 そう思いながらも私はその彼女に同情しようとなどこれっぽっちも思わなかった。


 浮気くらい、何だというのだろう。


 私は病院のドアを開けて、ベッドに眠る愛しい人間の顔を見た。目覚めない彼は私が今ここにいることも、私が彼を愛していると言うことだって、わかっちゃくれない。どうして私が浮気された女に同情してやらなきゃいけないのだ。だって浮気されたって、相手は口が聞けるじゃないか。自分が愛しているのだと言うことを、感じ取っては貰えるじゃあないか。


 一時間ほど彼の顔を眺めて、彼に語りかけた後に私はその部屋をでた。途中で彼の母親とすれ違って、どうでもいい世間話を二言三言話した。温かかくなりましたね。仕事はどうですか。私は彼の母とこうしてよく廊下で出会い、廊下で話す。彼の話はしない。まだかろうじて生きているひとに対して、まるでそれがタブーであるように、触れてはいけないものであるかのように、振舞わなくてはやっていられなかった。


 病院にはいろいろな人間がいるものだ。私はすれ違う人間すべてに憎悪の感情を抱く。

 まだ年若いカップルを嫌悪する。パジャマを着て点滴をしながら椅子に座っている少女に何事かを話しかける青年。その顔の明るさが嫌になる。

 老いた老夫婦に悪意を抱く。車いすに座っている老人に穏やかに何事か話しかけるその妻。その表情の柔らかさが気に入らない。



 あの人と私は、もうそんな風にはなれない。彼が植物状態になってからかなりの年月がたっていた。私の愛しい彼があの状態であんなにも長く生きて居られるのは、一重に彼の両親の財力のおかげだ。彼の両親がもしも普通の人だったら。彼はとっくに灰になって私の手の届かないところに行ってしまっていたのだろう。けれど幸か不幸か彼の両親は金持ちであった。一代で大儲けした所詮成金と言われる奴であったが、それでも金は金。


 だからこうして諦めもつかないまま宙ぶらりんのところに、彼も私も放り投げられてぶらぶらと揺れているのかもしれない。




 病院の外はそろそろ、半袖の似合う季節が近づいてきていた。

 私の服装も一年を通して変わる。長袖。半袖。

 タンクトップ。カーディガン。セーター。

 どれも持っているけれど、オシャレとはほど遠い。彼が生きていたころは、私は目いっぱいおしゃれをしていた。彼の好みの服はどれだろうかとか、このスカートは年齢に合わないだろうかとか。家の全身鏡の前で、店のショーウィンドウで、試着室で、私はそんなことを何度も繰り返した。あのころは楽しかった。彼と会っている時、彼を見つめているだけでずっと。






 彼が事故にあってから、私は忙しい仕事の合間を縫って週に二回は彼の元へ通うようにしていた。彼の入院は多くの人が知っているわけではないし、彼の両親も忙しい人だから、病室ではいつも二人きりだ。

 私はその時間を何よりも大切にしていた。私たちはお互いに忙しく、彼と二人きりになれた時なんて数えるほどしかなかった。だからその部分だけは良かったのかもしれないと言ったら不謹慎だろうか。もちろん本当は彼が動いているのが見たい。喋っているのが見たい。



 いつ行っても同じだった。いつも通りの顔で、いつも通りの格好で、いつも通りに私を見ない彼。そんな彼を見ながら部屋の中を見回して、花瓶の中は造花がもう何週間も同じままで味気なかったので、次は新しい造花を買ってこようと思った。大体生花が駄目なんて、安全面の考慮なんて言われたってやっぱり味気ないものだ。

 そんなことを考えて、彼の顔を見て、私はまた病室を去る。帰り際に彼の母親にまた会って、部屋の造花を変えることを告げて見た。すると母親はいいわね、私もやろうかしらと返してきた。

 私がやると言っているのに、彼女は時々こうして噛み合わない返事を返す。彼が入院してから、彼の母親は少しずつおかしくなってきているように見えた。気疲れか、苦労か、不幸か、そう言ったものが集合して母親は会話の中でときどき話をおかしくしたりした。

 彼の世話はすべて私がやるから休んでくださいと言いたかったが、母親のプライドや息子への愛情のことを考えるとそんなことは言えないな、なんて思った。



 そんなある日のことだった。

 私は彼に会いに行く時間が遅れてしまって、いつもより一時間ほど遅く彼の部屋に入った。

 それでもこの前言っていた造花は綺麗にラッピングして持ってきていた。ガラリとドアを開けて彼の顔を確認して、花を変えようとして気がついた。前見た花ではなく、新しいものになっている。

 私がやると言ったのに、どうやらあの母親は自分で済ませてしまったらしい。仕方がないので花瓶には差さず、花束を窓の傍に横たえた。




 そのときガラリとドアが開いて、知らない女が入ってきた。私は初めて見るその顔に疑問を抱いた。女もそう思ったのか、首を傾げて不思議そうな顔をしながら口を開いた。


 彼の親戚の方ですか?


 そう問われて私はカチンときて、ぶっきらぼうに違います、と返した。すると女は言った。


 私は彼の婚約者だったんです。


 は? 私は思わず大声でそう言った。何をいっているのかまったく理解できなかったのである。婚約者。何言ってるのと私は返した。この女は嘘をついているのかそれとも彼の母のように頭が触れてしまっているのか。


 婚約者は私です。貴方一体何なの?


 私は睨みつけてそう言った。すると相手はまるでびっくり仰天というようにぽかんと間抜けな顔をして、そして怯えたように私を見た。そのときに彼女の後ろから、見知った彼の母親の顔がひょいと出てきて、私は安堵した。母親が来ればこの狂った女を追い出すことができるだろうと思ったのだ。私は母親に助けを求めようとした。けれどもその前に、女が口を開いた。


 おかあさん、この人どなたですか?彼の婚約者だなんて言うんです。


 彼の母を慣れ慣れしくもお母さんなどと呼んだその女は心底不思議そうな顔でそう問うた。なんてしらじらしい演技をする女だろう。気がおかしい女の演技など誰も信用するはずないのに。


 いつも病院でよく会う方よ。あなた、息子の病室で何やってるの?


 母親はなんとそんな風に私のことを紹介した。ずっと彼を寄り添い、そして彼の母である台詞の主を支えてきた私に対して一体どうしてそんなひどいことを言うのだ。


 なんとも不審げに、しらじらしく言われて私の中で怒りがどんどん溢れ出てきていた。いったいぜんたいどうして私がこんな風に訳の分からない茶番に巻き込まれなくてはならないのだ。


 私は彼の婚約者じゃないか。時間があれば病室に通っては彼の世話をしたり、母親と話したり、甲斐甲斐しくやってきたというのにいきなりどうして私を赤の他人のように扱うと言うのだ。怒りにまかせてそう捲し立てると、二人の女は私を見て青ざめていた。


 お母さんこのひとおかしいわ、警察。

 いやだ、もしかして、ずっと前に息子が言っていた……。


 女たちがぺちゃくちゃとなんとも身勝手な台詞を吐く。


 出て行って、この病室に二度と入らないで頂戴。若い女にそう言われて、私の中の何かが切れた。




 何よ、何よ何よ!


 意味が分からないと言う人々に向かって私は叫んだ。意味が分からないのはこっちよ。私から彼を奪うなんて許されない。許されることじゃない。

 私は怒りにまかせて彼の体中に纏わりついているチューブを引っぺがした。ぶちぶちと嫌な音がする。耳障りな音だ。

 ひい、と彼の母親が悲鳴を上げた。横にいる汚い女は驚きで口もきけないようだった。なんてこと、貴方一体何なの、彼の母の声がする。病院で毎週のように話していたくせに、そんなことを言うなんて。彼の恋人である私に、そんなことしようとするなんて。あり得ない。あり得ない。

 私は彼を抱えて引きずるように窓の外に身を乗り出した。五階。彼の名を女が呼ぶ。誰か来て、と叫ぶ声。

 なんてことを、やめなさい。母親がそう言っているのが後ろの方で聞こえた。




 私から彼を奪わせるものか。彼と私は一緒なのだ。ずっと。生まれた時から。死ぬまで。それをどうしてこいつらに妨げられなくてはならないの。

 私は身体を大きく突き出して、地面を蹴った。身体に浮遊感が訪れる。最後に目に入ったのは私が買ってきた造花と、チューブから解放された彼の顔。


 私は微笑んだ。これでやっと、一緒だ。





「ニュースをお伝えします。今日午後二時四十五分ごろ、○×病院で女性が植物状態の男性を抱えて飛び降り自殺をしました。女性は男性に数年前からストーカー行為をしていたと見られ――――」







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