3 縋るひと
気付いたのは、あのひとの子どもを授かって、幸せ絶頂のあのころ。仕事で遅いとか、飲み会が長引くとか、やっと出世コースが近づいてきたかもなんて、のんきに構えていたのは浅はかなわたし。
あのひとがそんな風に忙しくなってから半年たったころ、昔からの友人に、実はね、あなたの旦那が知らない女と腕をくんで歩いていたのを見たかもしれないの、なんて私の顔色を窺うように言われたら、気にしないほうが無理だった。
自分が顔に出やすいのは幼い頃から重々承知している、だからそっと、彼に気づかれないように部屋を探したりとか、携帯電話の履歴、メールを調べたりとかして、それで、認めなくてはならないような証拠を見つけた。
一番最初に襲ってきたのは、眩暈。貧血や熱があるとき以外にも、眩暈が起こることを初めて実感した。
冷静に物事が考えられるようになってから、わたしはどうしたらいいのか考えた。けれど、なにも考え付かなくて、彼にそれとなく尋ねることさえもせずに、また一年が過ぎた。
私は臆病者だ、だから結婚も三十路過ぎ、それでも何とか三十代前半に新しい命に恵まれて、恵まれて、恵まれて、恵まれたのに。
私は臆病者だ、取立て容姿に恵まれたわけでも、秀でた才能を持ったわけでもなく、結婚をした相手だってそんなもの。それでも私はあのひとの優しさに惹かれたし、彼も私に惹かれたから、こうして一緒に暮らしているのだ、そう思っていた。
けれど彼はもう私から離れていこうとしている、一体どうして、足りないのはなに?私だって女なのだから、こういうときに考えてしまうのは容姿のこと。ひとに不細工だとはいわれたことはないけれど、あなた可愛いね、の一言から関係が始まった友人が居るわけでもない。そんな私。普通の私。それで満足していたのに。
私はあのひとの浮気を知ってから三ヶ月ほど後に、探偵にあのひとの調査を頼みに行った。
このとき私は別れようと、今思えばできるはずのない決意をして、その決定的な証拠を掴みに言ったのだ。調査はたったの三日間で終わった。あのひとと相手の女はそれほどにまで悠々と、二人で仲良く道を歩いていたのだ。
はっきり言えば、負けたと思った。相手の女は綺麗だった、浮気、とか、不倫、とか、そんな言葉を知らないのではないのかと思ってしまうような、綺麗なひと。
あのひとにはまったくつりあわなかった。なのに、あのひとの隣で凄く幸せそうに微笑んでいる。
私には叶わないと、私は家で一人嘆いた。けれども日常は日常として過ぎて行ってしまう。私はあのひとのためにご飯を作り、子どもの面倒を見て、洗濯をして、アイロンをかけて、掃除をして、毎日を暮らす以外に自分がすることを思い浮かべられなかった。
それから少したった暑い日、私は思わずぽろりとあのひとに浮気のことを言ってしまった。
まったく言うつもりもなくて、冗談でも言おうとしたときに出てきてしまった言葉。あのひとは驚いて固まった。私はもっと驚いて持っていた皿を床に落としてしまった。
ガラスの割れる独特の音とともに、寝室で寝ていた娘の泣き声が響きだす。私は訳が分からなくなってしまって、割れた皿を先に片付けるべきなのか泣き出した娘を先にあやすべきなのかも分からなくなって、足が地面にくっついてしまったかのようにその場から動けなかった。
僕が皿を片付けておくから君はいったんあの子をあやしてきて、彼のその言葉で何とか我に帰りふらつく足でベビーベッドへいってそこから娘を抱き上げて、恐る恐る揺らす。もう慣れたものだったはずのその行為さえもなぜだか上手くできなくて手が震えた。
そして娘はその動揺を読み取ったかのように一向に泣き止んでくれなかった。それでもなんとか眠りにつかせてゆっくりとベビーベットに置きなおす。そして薄いタオルを娘のおなかの周りにかけた。
リビングに戻ろうと一度回れ右をした体は、もう一度回れ右をしてもとの位置に戻る。あのひとと顔を合わせたくなかった。けれど皿を片付け終わったらしいあのひとがゆっくり歩いてくる音がして、私はなすすべもなくその場に立ち竦んだ。
リビングで話そう、彼の言葉に私は頷くしかなくて私は彼の後に続いてリビングに戻った。
それからどのくらい彼と話をしていたのか、私にはまったく分からなかった。
彼にいつから気づいていたのかとか、何故気づいたときに言わなかったのかとか、たくさんされる質問に馬鹿正直に答えていた。浮気されたのは私なのにまるで逆のような雰囲気。
時計を見て一時間以上は優に立っているのだということに気づいた。
だったらもうそろそろあの子が泣き出す時間だな、そんなことまで頭の片隅で考えてしまえるほどに私の感覚が狂ってしまっていた。けれどその狂っていた感覚はあのひとの次の言葉ですぐに現実に引き戻された。
別れないか、彼は確かにそう言った。
そんなの嫌だと今すぐにも否定してしまいたいのをわたしのちっぽけな自尊心がはちきれそうになりながら反対をしていた。どうしたらいいのかまったく分からなくてなにも声を発することができない。そんなとき娘の泣き声が二人の耳に入る。
私は立ち上がってまた娘のところに言ってベビーベッドから抱き上げた。そして今度もさっきと同じくらいに弱弱しくあやす。今回は娘は早々に寝付いて、私はまたベビーベッドに娘を下ろそうとしてそれをやめた。そして娘を抱えたまま今度はしっかりと回れ右をしてリビングに戻る。そしてあの人の前に座って、小さな娘を抱きしめて言った。
この子が大きくなるまでは、私はあなたが浮気をしようが何をしようが別れる気はありません、この子に寂しい思いなどさせてたまるものですか。あなただって、私に愛が無くたってこの子に対してはあるでしょう。
こんなにもまっすぐにあのひとと話をしたのは初めてかもしれなかった。あのひともそんな私に少し驚いているようだった。
そうだな、別れるなんて言い出して悪かったよ、あのひとはすぐに謝って別れるという選択を取りやめた。私の心は一気に安堵に包まれて、今日はもう寝るわと言って娘を抱いたまま寝室に引き上げた。
そして娘をベビーベッドにおくと倒れるようにダブルベッドに寝転ぶ。
この子のためにも別れたくないなんて建前で、私が別れないために、この子を使っただけ。そんな自分に嫌気が差して私は早く寝てしまおうと目を閉じた。
きっとまた明日からは今までどおりの生活に戻るのだ、何も変化がなく。私とあのひとはもうそういう関係だった。
そして私が、あのひとがこのとき浮気について一度も謝らなかったことに気がついたのは、あのひとが私の元から去っていってしまった後のことだった。




