黄龍の分裂:奇才と現代日本
テスラ博士との話し合いは実に夜遅くまで行われた。
ダムの発電機、エンジン、製造機の開発を依頼した際に、テスラ博士自身が研究したい実験の時間は設けることができるのかという注文を寄越してきたのだ。
無論、その件に関しては問題ないと伝えると、私に対してテスラ博士は自分自身の想いを打ち明け始めたのだ。
「正直に申し上げると、私は阿南氏がはるばる極東から私を呼び寄せて、色々を作らせようとしているのは理解していました。しかし、私自身が行いたい実験も行えるとは思いませんでした…あなたは私が出会ってきた中でも特に若い人だ…それに特許権の使用料などもきちんと設定するなんて他の会社ではそこまで開発者に対してサポートするようなことはしませんでしたよ…」
「いえ、テスラ博士もそうですが…我が社では開発部の教育と意欲持続の為にもあなた方を補佐しなければならないと考えております。インスタントラーメンを作るにせよ、機械を作るにせよ、製品として世の中に送り出す開発者への敬意を示さないと会社は自然と寂れていきます。活気のある会社の殆どは社員に対して福利厚生や特許類を出願する際に開発者への使用料の明記をきちんと行えているものです。私はそれを見習っているだけですよ」
会社と開発者の関係はナイーブなことになりやすい。
転生する十年ほど前に、国内の大手電機メーカーの元開発者の社員が特許の使用料を巡って会社と対立し、メーカーを離脱した後に中国の企業に引き抜かれた結果、その開発者が敵討ちと言わんばかりに中国で大手電機メーカーが作っていた電化製品よりも高品質で安い商品を売り出してしまい、中国での販売に苦戦するようになったという記事を目にしたことがある。
日本企業は一から育てるというよりも、即戦力で酷使できる社員を雇用したがるという褒められたもんじゃない記事が大々的に報道されたこともあった。
中小企業のみならず、大手企業や経済界の重鎮たちも肉体のみならず精神的にも疲弊させるような長時間労働を推進させた上に、ある大手広告会社の社員が過労死自殺をした際に会社の社長が記者会見で「若いときに苦労したのだから、今の若い世代も同じ苦労を積まないといけない、残業なんて当たり前だから…その程度で死ぬなんて情けない」という発言をしてインターネットで大炎上を引き起こし、最終的には会社の駐車場でニュースを見て激昂した男に斧で惨殺される事件もあった。
確かに、私が前世で会社に入社した頃は国内はバブル景気の真っ只中だった。
残業をすればその分給料が増える。
大学生が1年ほど大学を休業して運輸会社でフルタイム勤務と残業をしながら働けば1000万円貯金できると言われるぐらいに経済に勢いがあった。だから皆残業し、その残業に見合う給料をもらって残業をやっていたのだ。
あの時の給料は確かに良かったし、社員旅行でグアム・ハワイは当たり前で夏休みは海外でバカンスに出かけたり、ボーナスでスポーツカーの頭金を支払って乗り回す事も出来た時代だった。
しかし、バブル景気が崩壊し…失われた20年とも呼ばれる時代になると、会社に入って正規雇用で働かされることだけでも幸せだから、残業ぐらいで文句を言うなという輩が多くなってきた。
その結果、若い世代の多くがお金を貰えずに、生活に四苦八苦するような暗い時代になった…。
それでも経済政策の改善によって景気は良くなっても企業側の態勢が整っていないこともあって、次第に若い世代が日本企業の企業体制の改善のやる気のなさに悲観して、海外メーカーに入社する者が多く現れた。
特に、電機メーカーやインターネット関連の大手海外メーカーは日本の優秀な技術者や開発者を引き抜いてIT関係や電化製品をどんどん向上させていき、私が死ぬ直前に見た朝のニュースで、ようやく企業側が大規模な技術者・開発者への待遇改善をするようになったのだ。
それでは遅すぎるのだ。
「自分達が苦労していたから~」なんて言うのは間違っているのだ。
自分達が若かった時代と若者たちが歩んでいる”今現在”では技術も労働手順もまるっきり違うのだ。
若者や時代に合った労働環境を作るのが会社経営者の努めになる…環境改善や労働時間の見直し…それすらやらずに労働者や技術者を冷遇するような会社なんて潰れたほうがこの国の為だと思う。
この時代でも製糸工場では朝から晩まで無理に働くように強要するブラック企業のお手本のような工場が多くあるようだし、すでに明治時代からブラック企業のような体制が整っている。
だから私は先進的で会社に働く社員のことを考えて福利厚生や休暇取得の事についても取り決めを行っている。
急成長している変則商社を見て、自然と他の会社や社会全体が良い意味で、そうした社員の事を考えてくれる会社作りを真似てくれればいいのだ。
そうすれば、自然と労働環境は良くなっていくのだから。
テスラ博士は私の事を一定ぐらいは信用してくれたようで、諏訪の研究所で働くことに合意してくれたのであった。




