70. 仮面舞踏会の甘く危険な夜
※ 今回の描写の中に性的暴力のシーンがありますので、苦手な方は読み飛ばしてくださいさませ!<(_ _)>
※ ※ ※ ※
季節外れの嵐の夜──。
エリザベスは謎の男に突然、部屋から強引に廊下に連れ出された。
抱きしめられた男の身体は細身なのに、とても頑丈で自分の体がびくとも身動きができなかった。
──わたくし、襲われたの!?
エリザベスは恐怖におののき、完全に思考を停止した。
『レディ、とうとう貴方を見つけましたよ』
──? さっきの……この男の声、確かどこかで聞いた記憶が……
『ごめん、悪いけど騒がれたくないから少し我慢して……』
と話しかけた瞬間、男はエリザベスの口にハンカチで何かを嗅がせた。
『んん……!?』
エリザベスは男が口に押さえたハンカチを拒否しようとしたが、鼻にツーンとしたきつい香料を嗅いだ途端に頭がクラッとして気を失ってしまった。
男はそのまま、エリザベスの顔をくいと上げて自分に向けさせる。
廊下の灯りは薄暗いが、天窓に差し込む落雷の光がピカッと青白く輝きエリザベスの顔をくっきりと照らした。
『ああ……やはり彼女だ、間違いない!』
と呟く謎の男。
そのままエリザベスを軽々と抱き上げて廊下を歩いていく。
※ ※
『う……ん……』
半刻が過ぎた頃──。
エリザベスは、セピア色の見知らぬ部屋のベッドで目を覚ました。
まだ窓の外は雨がザーザーと強い音をたてて降り続いていた。
『気が付いたかい──?』
目の前には、あの黒づくめの男がテーブルに座ってエリザベスを見ていた。
『わっ!』と驚きすぐにベッドから起きあがるエリザベス。
心臓の鼓動が突然ドキドキし始めた。
反射的に自分の身体を触りだす。
──良かった、パジャマは着ていると安堵する。
『ああ心配ないですよ、僕は何もしていません』
『…………』
『手荒な真似をしてすまなかったね。廊下で騒がれるのは嫌だったから。なにか君も飲むかい?』
男はにやりと笑って空のグラスに赤ワインを注いでいた。
エリザベスは男をじろじろとぶしつけに観察した。
──先ほどとは違って人間には見える。
黒ずくめではなく白いブラウスシャツと黒いスラックス。
腰の位置が高いのか足が異様に長くみえた。
肩までたらした巻毛の黒髪。
顔はまだ仮面をつけていて口髭のある薄い唇。
鋭く尖った顎。
見た目の雰囲気は25~30歳くらいだろうか?
背が高くスタイルの良い男で物腰はとても優雅だ。
──どこぞの高位貴族なんだろうか?
だが、男の纏う雰囲気が、エリザベスの第一印象が悪かったせいなのか異様で気味が悪い。
何やらゾッと身震いするのだ。
『あ……あなたは……人間なの……?』
エリザベスは思わず声を絞りだして尋ねた。
自分でも発した声が震えてるのが良くわかった。
──なんだか、とっても怖いわ。
エリザベスは得体のしれないものに対する恐怖心で心が一杯になった。
『はあ、そんなに怖がらないで欲しいな。僕、何もしやしないから』
と男がグラスを持って、エリザベスに近づいてくる。
『近づかないで!!』
エリザベスは反射的にベッドにあった枕を男に投げつける。
枕を軽くひょいと交した男。
『何もしないっていったでしょう!』
と男はかまわずにベッドに“どん”と腰をかけた。
『ほら、喉が渇いたろうから僕のワインを飲みなさい』
と無理やり、エリザベスの顔をあげてワインを飲まそうとする。
『や、やめて、いらないわ!』
と首を振るエリザベス。
『え、喉が渇いてないの?』
『か、渇いてるけどワインは嫌、どうせならお水をちょうだい!』
と泣きそうな声で叫んだ。
男は、怪訝な顔をしたが、立ち上がって水差しの水をグラスについた。
『ほら、お水だよ』
再び男はエリザベスに水の入ったグラスを渡した。
エリザベスはグラスを持ってごくごく飲み始めた。
男はにっこりと笑って、エリザベスが水を飲むのを黙って見つめる。
ようやくグラスの水を全て飲んだエリザベス。
思いのほか喉がかわいてたようだ。
男はエリザベスを見てにこやかに微笑んだままだ。
エリザベスも水を飲んだせいで、少し安堵したのか──
『あの、あなたはなぜこんなことをするの?──お願いだからわたくしを部屋に戻して下さい』
『ごめん、もう少しだけ待って。君のことを確認したいんだ』
『確認て……?』
『う~ん、信じられない話で驚くかもしれないが、僕の話を最後まで聞いてほしい……』
男は真剣なまなざしでエリザベスを見つめた。
『わかったわ──』
エリザベスは、ごくりと唾を飲み込んだ。
『ありがとう──。実は君が緑の女神に扮した姿を仮面舞踏会で見かけてね。一目見た時、僕の心が酷くざわめいたんだ。この己の“ざわつき”が何なのかどうしても確かめたくて君の後をつけたんだ』
『わたくしをつけた──?』
『ああ、嵐で帰宅できず此処に停泊したのはとてもラッキーだったよ──こんな強引な事をするつもりはなかったけど、この雷と豪雨が僕の気持ちを高揚させたのかもしれない。──君が僕の探していた女性に良く似ていたからだ』
『わたくしがあなたの捜している女人に似てる──?』
エリザベスのエメラルド色の瞳がひどく困惑したのか煌めいた。
『そう、でも似ているのは間違いだった──僕が長年探していたのは、まさに君だったんだ。これは奇跡といってもいい!』
『なんですって!?』
男は、唐突にエリザベスの頬を手で触れた。
『君は僕の緑の女神なんだよ、間違いない。今、確信した──僕は君がとても欲しい!』
『や、止めてください!──わたくしの名はエリザベス・ルービンシュタイン。夫はセルリアン領地のエドワード公爵!それも夫はこの王族の1人よ。彼との間には幼い娘もいます。あなたと不貞など絶対に致しませんわ、いえ死んでもしたくない!』
エリザベスは一気にまくしたてた。
──ああ、なんでわたくしは、こんな所で身も知らない男に自分の本名をいわなければならないの?
旦那様、助けて……どうかわたくしを助けてちょうだい!
エリザベスはここから逃げだしたかったのに、体が硬直して動くことすらままならなかった。
仮面の男は一瞬、酷くがっかりしたように見えたが、すぐに紫の瞳が怪しげに毒々しく輝いた。
『そうか君は既に結婚してるのか。ああ、一体なぜ運命は僕を見捨てたのだろう?──だが本来、僕は君を避けなければいけない人種なんだよね。だがどうしても僕は君を忘れることができないんだ。──君は覚えているかい? 以前僕は君の夢の中にいたんだよ。そして、今日“緑の女神”は君だと確信したんのさ』
「は、貴方何、訳のわからないことを言ってるの?」
エリザベスはゾッとした。
本能でこの薄気味悪い男が恐ろしいと思った。
「ふふ、そんなに怖がらないでよ」
男は気にもしない気に、涼やかに瞳をキラキラ輝かせて微笑した。
──この人、狂ってる? なにこの悪魔のような目は!
わたくしの夢の中って……何いってるの?
とにかく危険だ!──この男は余りにも危険すぎる!
セピア色の薄暗い部屋の中、紫水晶のように輝くこの男の瞳は綺麗でどこか浮世離れしている。
エリザベスは、その眼で見つめられると、思わず身体が吸い込まれそうな感覚になった。
──駄目だ、不味い、このまま此処にいたらこの男に私は殺られる!
エリザベスはとにかくここから逃げようと決意した。
『離してちょうだい!』
触られていた男の手を振り払うと、エリザベスはベッドから跳び出して、そのままドアから出ようとした。
男はすかさずエリザベスを追って、ドアを両手でドンと強く押した。
『おっと、逃げないでくれ。大人しくしてくれればすぐに部屋に返すから!……どうかお願いだよ!』
と男は最後の方は、泣きだしそうな甘えた声で囁いた。
『離してよ、いますぐ部屋に返して──!』
だがエリザベスは聞く耳を持たない。
『レディ!』
『煩い、あなたね、いい加減にしないと大声をあげるわよ!』
『ふ、無理さ、今夜のこの嵐では君の声などかき消される……悲鳴をあげたって誰も助けないよ』
先ほどとは打って変り、男は冷たい無表情な顔になり冷淡な声でいった。
『ああ……一発、貴方を殴らないと気が収まらないわ!』
エリザベスも無性に腹が立ってきた。
男は意地悪そうに『殴ってどうぞ』と云わんばかりに屈みこんで自分の顔を指し出す。
──何よ、この男、わたくしをどこまでも馬鹿にして!
とエリザベスが大きく振り上げた右手を男はさらりと交わす。
『ふ、レディ、そんなへっぴり腰ではとても無理だな』
と男は人を皮肉った笑顔でエリザベスの上げた右手を簡単に掴む。
『痛い、離してよ!』
『じゃじゃ馬め!』
男はエリザベスの身体を抱き寄せていきなり口づけをした。
ただの口づけではない、ガッツリと暴力的にディープキスをしてきたのだ!
『うっ!?』
必死に顔を離そうとうするが、男はエリザベスの頭と首をがっしりと掴んで微動だに動かない。
男は顔の向きをかえて、エリザベスに屈辱的なキスを繰り返す。
『んっ……』
いつしかエリザベスは、頭の中が痺れてきて抵抗するどころか、体に力が入らなくなり、されるがままになっていった。
男は執拗にディープキスをしながら、エリザベスの首筋にあった片手を腰に回して体を抱き寄せた。
そのままエリザベスの胸に顔を埋めた。
──それは絶対に嫌!
身体が条件反射のようにびくりと動いたエリザベス。
思わず、男の髪の毛を引っ張って、力づくで振りほどく。
『この変態!!いいかげんにしてちょうだい!!』
エリザベスは男の頬に渾身の力を込めて平手打ちをした!
流石に男は叩かれた痛みに驚いたのか、エリゼベスの体から手を離す。
『は、これは痛いな~』
男は、叩かれた頬に手を当てた。
『ふふ、レディ──素直に叩かれたのは熱いキスのお礼ですよ』
と、男は苦々しく言い放ちドアの扉をゆっくりと開けた。
『ほら、あなたの部屋はその一番突き当りです。とっても近いでしょう』
と奥の部屋を指さした。
エリザベスは、突き刺すような濃いエメラルドの瞳で男の顔を睨みつけた!
それはもう憎悪の塊が濃緑色となって、まるで深淵の森のような濃さだった。
仮面の男は、エリザベスの燃えるような瞳を見つめながらニヤニヤと微笑むだけ。
『ほお、緑の女神は怒る顔も美しい──それでは、またいつか宮廷でお目にかかりましょう』
と軽く一礼した。
『愚か者が!──絶対にあなたを許さなくてよ、覚えてらっしゃい!』
と乱れた髪を手で整えながら、エリザベスは足早に廊下を大股で歩いて行った。
その姿をじっと見つめる仮面の男。
気付けば男の手には血が付いている。よくみたら片方の頬がキレて血が滲んでいた。
エリザベスの伸びた爪痕で頬を切ったのだ。
『はは、今世の緑の女神はそうとうなじゃじゃ馬だ』
男は苦笑して静かにドアの扉を閉めた。




