48. 事故の前触れ
※ 2025/5/2 修正済
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公爵領本邸の敷地内はとにかく広い──。
まず本邸の敷地内には広大な庭園があり、今の季節が一番美しい。
赤やピンクの薔薇やチューリップ、三色すみれや黄色の水仙やタンポポ等、あらゆる種類の春の花々がそれぞれ列に連なってあちこちの花壇に植えられて、辺り一面お花畑の様相を呈している。
花壇の回りには芝生が張られていて、歩道とパドック以外庭園全面に濃い若草色の絨毯で覆われているようだ。
庭園内には、少人数で散歩できる新緑に輝く白樺の小路もあり、その中を歩いていると萌えいずる緑の木々たちに、思わず吸い込まれそうになるくらい美しい。
時おり小路を歩いていると、春を告げるツバメや野鳥のさえずりの鳴き声も聞こえてくる。
白樺の小路を抜けた先には、大人の身長くらい大きな丸い樹木の生垣があちこちに置かれた場所があり、ティータイムを楽しめる白いテラスハウスがある。
テラスの傍には噴水式の小さな池と、観葉植物用のガラス張りの温室が近くにある。
温室は本邸と廊下で繋がっており、エリザベスが冬の間、ダイエットの為におかしな痩身機械運動や、マラソンができるほど広いスペースだ。
石とレンガで造られた白い外壁と、天然石の水色の屋根の三階建ての本邸の広い玄関前から、馬車が通る茶色い道が屋敷の大きな正門までつながっている。
外正門から見ると本邸の周辺に芝生が敷かれた庭園のエリアが右側とすると、その左側の別邸や厩舎と納屋のある前方にある。
赤土地面のパドック(小放牧場)と、敷地内を囲む木立と常緑樹の垣根のエリアとなり、二手に分かれてる感じだ。
もちろんパドックには馬が庭園に入り込ませないように、高い木の柵が張られていた。
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その日は領地の視察から、一週間ぶりにエドワードが帰宅する予定だった。
エリザベスは今日も朝食後に馬に乗ってパドックを走らせている。
春になってエドワードの勧めで乗馬を始めた。
少女の時以来の乗馬であったが、さすが運動神経の良いエリザベスは短期間で上達していた。
エリザベスの相手は栗毛馬のオルフェだ。
オルフェは、エドワードの愛馬のルイとは父親が同じだからか、顔立ちがよく似ていて可愛い、
オルフェも従順であり、エリザベスは騎乗していてとても扱いやすかった。
本当は白馬のルイに騎乗したいが、あいにくルイはエドワードと視察にいっていて留守だった。
オルフェの背に乗ったエリザベスは見事に駈歩も難なくこなした。
柵に近づくと上手に手綱を操作して、左右に曲がるのもスムーズにできた。
『ほへ~っ、今時の公爵夫人は乗馬もお手のもんですな。驚きましたわい!』
と厩務員の老人のキースは訛りながら舌を巻いた。
キースは厩務員の中では古参で厩舎の責任者でもある。
エドワードの指示で、エリザベスに乗馬のコーチをしていた。
穏やかな性格だが愛嬌のある老人で、平民なのに身分の高い領主にも気さくに話しかける。
キースはそれだけ従事者の中でも別格扱いだった。
子供のエドワードに一から乗馬を教えたのもキースだ。
茶色と白髪が混じったフサフサの髪と姿勢の良さが自慢な地元民である。
『ほほほ、キース見たでしょう。オルフェを乗りこなしたわよ、どうわたくしの勝ちね』
『ほいな~奥様。まさか、わしらみたいな貧乏人にお金を出させるんかね?』
『そうよ、わたくしがオルフェの駈歩できたら、賭け金の銀貨1枚くれる約束でしょう──さあ頂戴な!』
片手をキースの前に差し出すエリザベス。
『うんにゃ~奥様、銀貨1枚でクィーンズ街のパン屋で白パンが2つも買えますだ、安い黒パンは年寄りには固くて食べられませんでな……』
と、何やらしけた事をグチグチいいだすキース。
賭けを了承したものの、まさかこんな短期間にエリザベスが、オルフェを走らせるとはキースは予想しなかったのでつい賭けに乗ったのだ。
『もう、往生際が悪いわね、なら他の馬もこなしたらくれるのかしら?』
『ん……厩舎にいる馬はあと一頭いますが、あの馬は少々癖がある気難しゅう馬で、エド坊ちゃんでもたまに手を焼くくらいだからダメですだ』
『まあ、旦那様でも手を焼くって興味深いわね、わたくしその馬を見てみたいわ』
エリザベスは好奇心を刺激されて、緑の瞳の瞳孔が開いて猫のように光らせた。
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『ヒヒーン!ヒヒーン!』
二人が厩舎の中に入ると、葦毛の大きなガタイのある馬が突然嘶いた。
『この馬……?』
『へい、名前はルイスメイヤーといいますだ、元は乗馬用でなく障害レース用の馬で、数年前まで良い成績を収めた名馬といわれてたんだけど、気性が激しくて矯正しちまったから種牡馬にならんかっただ。──年老いて始末されるところを、エド坊ちゃんが気の毒がって購入しなさったんです』
『へえ、凄い馬だったのね、名前からして強そうだわ。旦那様は競馬レースにも関心あるのかしら』
『いや、坊ちゃんはロバート殿下の付き合いで、賭けてただけで……と聞きましたなぁ』
『なるほどね──』
エリザベスはロバート殿下の名が出てきて、少々しかめ面顔になった。
競馬レースは貴族がよく競馬場にいって楽しむ社交場だ。
エリザベスの父親のマクミラン侯爵の唯一の趣味は競馬だが、よく負けて大損している。
母のセーラは夫が負ける度に、侮蔑の眼差しを向けるのは日常茶飯事だった。
『ヒヒーン』とルイスメイヤーはエリザベスの差し出した手に触れる。
馬はエリザベスに妙に人懐っこく 頭や鼻を摺り寄せてくる。
どうやら美女は牡馬にも好かれるらしい………。
──あら可愛いじゃないの、左目は普通の黒色なのに、右目が金色かかった青、珍しいオッドアイの馬。
ちょっと競走馬っぽい凄味がある目つきよねこの馬──いいわ、気に入ったわ。
『キース。決めたわ。わたくしがルイスメイヤーに上手く騎乗できたら、銀貨を二枚賭けるのはどうかしら? もちろん出来なければ銀貨はキースのものよ』
『ええ~奥様、それは止めた方がいいですだ、怪我でもなさったらワシがエド坊ちゃんに怒られますだ』
キースは首をブンブン振って、とんでもないと拒否した。
『大丈夫よ、内緒で乗ればいいじゃないの』
『ですが万一のことがあったら………』
『お願い、わたくしルイスメイヤーに乗って試してみたいのよ』
エリザベスはキースにとっておきの子息殺しと云われたリズ・スマイルをした。
『もう、奥様………わしは別嬪さんには弱いですだよ、わかりました、但し最初は危ねえですから、ワシが手綱を引きますからな』
キースの顔は老人なのに子息たちと変わりなく真っ赤になった。
ちなみにキースは既婚者で子供も孫もいる。
『はい、決まりね!』
『さあ、ルイスちゃん、これからパドックへ向かうわよ!』
とルイスメイヤーの首を撫でながらエリザベスの眼はらんらんと輝いた。
この後、とんでもない事件が起きるなんて夢にも考えないエリザベスだった。
※なんだか嫌な予感がします。




