32. 妻の本音、夫の本音
2025/5/1 修正済
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エリザベスは少し疲れたのか、ふうっと大きなため息をついて身体を少し崩した。
──はあ、旦那様にちょっと悪かったかしら?
でも仕方がないわ、妊婦って思ってた以上に辛いんですもの……
旦那様には言えないけど──子供なんてそうそうつくるもんじゃないわ。1人で十分よ。
このお腹の子、産まれてくるのは絶対に男の子がいいわ!
さすれば1回で済むもの。
とにかく妊娠はもうウンザリ!
しょっちゅうお腹は減るし食べれば太るし、気分はイライラするし、身体が重くなってきて歩くのも大変!
何よりも、お気に入りのドレスも着れやしない!
エリザベスの心は不満で一杯である。
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エリザベスは窓の景色から、室内のエドワードに目を向けた。
サラサラと額にかかる金髪を、煩わしそうに指でかきあげて、エドワードは新聞を読んでいる。
長いスラリとした足を組んで、片手でアイスティーを美味しそうに飲む姿は、まさに非の打ちどころのない貴公子だ。
『麗しい方………』
と無意識にエリザベスは呟いた。
そのまま、エドワードを呆けて見つめていたら、知らぬ間にエメラルドの瞳から大粒の涙がポロリと零れた。
──あら、嫌だ、わたくしったら⋯⋯
エリザベスは、涙に気が付いて慌ててハンカチで頬を拭った。
突然、うんうんと首を横に振った。
──本当はわかってるのよ。
わたくしがこんなに苛立たしいのは身体が辛いだけじゃない。
心がとっても痛いんだわ。
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エリザベスの呪いのような本心──。
妊娠したせいで旦那様と夜の営みがさっぱりと途絶えてしまったことにがっかりしてるだけよ。
旦那様ったら『お腹の子に触るから産まれるまでは寝室は別にしよう』だなんて……
もうかれこれ半年以上ご無沙汰なのよ!
わたくしはちっともかまわないのに⋯⋯。
旦那様はなぜか聞き入れてくれない!
どうやらエリザベスの最大の苛々の理由は、夫と共寝ができなくなったことが原因だった。
だが、さすがのエリザベスでも閨のできない不満を、露骨に夫にぶちまける事はしなかった。
彼女とて幼い時からの淑女教育で培った端くれだ。
公爵家の妻として、はしたなすぎる願いだとわかっていた。
だがそうはいっても、理性とは裏腹に気持ちがどうしても制御できない。
そのせいか、ちょっとしたことでイライラして、従者やメイドたちについ当たってしまう。
サマンサや他の従者たちは、エリザベスが妊婦特有のストレスだと思い込んでおり、彼女の前ではなるべく波風たてぬようにと、常に神経を研ぎ澄ませている。
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実はエドワードも悩みを考えていた。
多忙とはいうものの、執務室に籠りきりなのは身重になってからエリザベスが、機嫌が悪いせいもあり“触らぬ神に祟りなし”ではないが、あえて距離を取っていたのだ。
だが──まさか妻のイライラの原因が自分との性生活ができないなんて夢にも思わなかった。
エドワードにしても、妻を抱きたい気持ちは勿論ある。
結婚当初はまさにハネムーンで毎夜、妻を愛撫していたのだ。
当初、エドワードはエリザベスを娶って、自分はこの世で、誰よりも幸せな男だと信じきっていた。
しかし、リズが身籠ってからは状況は一変した。
思いがけず、ハネムーンベビーが出来たのだ!
エドワードは歓喜した!
歓喜したと同時にエリザベスの身を、執拗なくらい案じた。
『エリザベスに万一の事があってはならない!』
エドワードは屋敷内の従者たちに号令をかけた。
──私の母は産後の肥立ちが悪く何年も苦しんだ。
そして私が幼い頃に亡くなったと聞いた。
残念ながら私には母の記憶がない。
父上や執事のアレクから、生前母がいかに私を愛してくれたのかは聞かせてはくれたが、心は寂しかった。
だから、生まれてくる赤子には、私と同じ想いはさせん!
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一端、エドワードは男の性への欲望は我慢して、何よりも大切な妻の身体を最優先させると決めた。
とはいえ、エドワードも男の生理現象が抑えられない日もあった。
その時は運動や風呂に入ったり、多忙な実務で気持ちを切り替えた。
更に同じベッドだと、どうしても性欲が抑えられなくなるのでエリザベスに
「子供が誕生するまでは、寝室を別々にしよう』
と願い出た。
エリザベスは快く承知した。
『──あはは、馬鹿な奴だなエドワード、そんなの、別に我慢しないで娼館を利用すればいいんだよ!』
結婚後、エドワードは王都に何度か出向いた時に、ロバート王太子から忠告されたことがあった。
ロバート王太子も、今年マーガレット嬢と結婚したが、どうやら性生活は合わなかったらしく、王子は結婚後も貴族専用の娼婦の館に通ってるというのだ。
──くっ、ロバートの奴、新婚だっていうのにもうそれかよ!
独身の頃と何も変わっとらん!
エドワードは2人きりになると、ロバート王太子の臣下としてではなく、従兄弟として、友人として接してきたのでとても腹を立てた。
あいつあの時、なんて言ったかな?
そうだ、思い出した──。
『──いいかエドワード。女は生娘よりも商売女の方が、色々と気を使わなくて楽だ。何よりも後腐れなくていい。お前もエリザベスとやれないなら、その期間は代替品を利用しろ!』
とまあ、あんの野郎、仮にも王太子の言う言葉かよ!
エドワードは臣下にあるまじき毒舌を、更に吐き続ける。
ロバートの奴、いわんこっちゃない!
リズ憎さに好きでもないマーガレット様と結婚するからだ!
お気の毒に、新婚早々娼館通いなど⋯⋯王太子妃となったマーガレット様の身にもなれってんだ!
エドワードはロバート王子は親友として大切な存在だが、夫としては“最低野郎”だと腹だたしかった。
奴が王太子でなければ俺が、一発殴っているところだ。
──俺はロバートとは違う、リズだけを愛すると決めたんだ!
愛人なんか絶対に作るものか!
エドワードは拳を握りしめて心に固く誓った。
そして、エドワード同様に屋敷の住人たちも同じ気持ちであった。
『ああ、どうか早く可愛い赤ちゃんが、奥様から一日も早く無事に産まれてきますように、これ以上、奥様から我々が癇癪を受けずに済みますように⋯⋯』
と全員が緑の女神様に祈願していた。




