兄と姉と妹
一難去ってまた一難とは、まさにこのことか。
目の前に憤慨した様子で佇んでいる兄のアレスを見ながら、私は盛大にため息を吐き出した。
セレネが授業の分からないところを教師に聞きに行ったこのタイミングで話しかけてくるとは。
まあ、あの子には聞かせられない話をするつもりなのは顔から分かる。
どうせ、皇太子の件かテオドールの件か一年早く入学した件のどれかだろう。
付き合うのも馬鹿馬鹿しいが、曲がりなりにも相手は皇位継承権を持つ身……無視するとこちらが不利になる。
他人に付け入る隙を与えることはしたくないので、一先ず大人しく話は聞こう。
「それで、私に何のご用でしょうか?」
特に感情を滲ませることもなく言ったというのに、憤慨しているアレスはさらに眉を吊り上げる。
「見ない間に随分と生意気になったものだ。お前ごときが僕にそんな口をきくとは。エリックの前では良い子を演じているからか甘やかされて調子に乗っているようだな」
「相手はフィルベルン公爵であり、貴方よりも年上で立場も上なのですから呼び捨てなど無礼です」
「そうやってエリックにも取り入ったのだろう? あいつも騙されて情けない」
「……馬鹿馬鹿しい。ご自分がどれだけ品のない発言をなさっているか理解しておられますか?」
エリックと私を侮辱しているのがありありと分かる。
これが先代皇帝の弟の孫かと思うと情けなくなる。
なぜ彼は周りの評価に流されず、自分で考えられないのか不思議でならない。
見直す切っ掛けは何度もあったはずなのに、だ。
「お話がそれだけなら、時間の無駄ですので失礼します」
「勝手に話を終わらせるな!」
アレスに背を向けて立ち去ろうとすると、背後から彼の苛立った声が聞こえてきた。
私は再びため息を吐いて振り返り、彼と対峙する。
「本当に用件だけをお話し下さい」
こちらだって暇ではないのだ。
ボランティアで奉仕活動をするにも限度というものがある。
私の言葉にアレスは表情を歪ませたが、どうにか押しとどめたのか拳を握りながら息を吐いた。
怒りをコントロールするくらいには成長しているらしい。
「……病気で寝込んでいる婚約者がいる男にも取り入ったそうじゃないか。男とみれば見境なしか。情けない」
「病気で寝込んでいる婚約者? どなたのことです?」
「しらばっくれるな! この間、皇太子殿下と二人っきりで会っていたそうじゃないか!」
「ああ……皇太子殿下のことでしたか。それなら最初からそう仰って下さい。回りくどくて悩んでしまったではありませんか」
嘘だ。
最初の言葉で皇太子のことだと分かっていたが、口にしたらそらみたことかと攻撃の餌を与えてしまうから泳がせただけである。
アレスは元フィルベルン公爵である父親に性格も口調も似たようだ。瓜二つと言っていい。
だから思考も読みやすいし誘導しやすい。
「二人でいたのは事実ですが、内容は私の口から伝えることはできませんので、皇太子殿下に直接お尋ね下さい」
「それならもう聞いた。セシリア皇女殿下のお見舞いの件とその礼だそうじゃないか。セレネを出し抜こうとするなんて、陰気な女なのは変わらないな」
「皇太子殿下に尋ねて答えを聞いた上で私に文句を言いに来たということですか。暇なのですか?」
「お前があまりに分不相応なことをしているから恥ずかしくなったんだ! セレネを虐めるのは相変わらずで、あの子の居場所を奪おうと皇太子殿下にまで粉をかけて騙して……。お前は自分のやっていることが正しいことだと胸を張って言えるか?」
「言えますけれど?」
この男は何を言っているのだ?
別にやましいことなどなければ、誰かを害そうと動いているわけでもない。
当事者のセレネが泣くようなことにもなっていないのだから、外野が口を出す問題ではない。
…………一緒に街に出かけたかったのに、とは言われたけれど。
「貴方は自分の考えを口に出す前に一度、頭の中で文章を組み立てた方が良いと思います。私を攻撃するはずが皇太子殿下を侮辱している内容になっております」
「はあ? どこがだ!」
「皇太子殿下に粉をかけて騙して、の部分です。これは暗に殿下が私に騙されるような人間だと言っているも同じことです。殿下の優秀さを否定しておられます」
「いや……それは」
「大体、説明されたにも関わらず私のところに来るなんて、貴方はどれだけセレネのことを信用していないのですか」
セレネの部分を言われたアレスは鼻で笑った。
「信用だとかそういう問題ではない。僕はセレネがどういう子なのか良く分かっている。お前に押しつぶされて言いたいことも言えずに縮こまってしまっているんだ。言葉の暴力であの子を傷つけて泣かせて……」
「……私の知るセレネとは真逆ですね」
兄と姉で妹の見え方がこうも違うとは。
というかアレスの中のセレネは、それ誰? と言いたくなるほどの人物像である。
どこを見ているのかと思う。
「だから! それはセレネがお前を怖がって何も言えないだけだ! この間だって過剰なまでにお前のことを庇っていた。居ないはずのお前の存在に怯えていたんだ」
「ですから、それが信用していないと言っているのです。自分の中のセレネを現実のセレネに押しつけて、本当のあの子を見ようともしない。あの子の発言を何も信じていないではありませんか。いい加減、現実逃避はお止めになったらいかかですか」
「誰が現実逃避など!」
「逃げたところで貴方はルプスの名を剥奪された身。フィルベルン公爵になれない貴方に残されたのは妹の良き理解者だけなのでしょうね。それすらなくなったら存在理由がなくなるから見ないようにして縋り付いているだけでは? その鬱憤を私で晴らすのは良い迷惑です」
アレスを追い詰める言葉だが、いずれ直面しなければいけないことだ。
彼の問題にどうして私やセレネが巻き込まれなければならないのか。
それなりの年齢なのだから自分で対処して欲しいし、こちらに八つ当たりされても困る。
これで分かってくれたら良いのだが、と見ていると彼は私の言ったことが理解出来ないのか顔を真っ赤にさせている。
「お前が……お前ごときが僕に意見するなんて生意気なんだよ! セレネを支配下に置いて、セレネからテオドールを奪って、皇太子殿下から気にかけてもらって何様のつもりだ! 僕に意見して責めて、そうやって自分のことを正当化するつもりなんだろう!」
「でしたら、そう思っていればよろしいのでは? 貴方の中では私が悪者なのでしょう。悪者でなければいけないのでしょう。そのつまらないプライドのために未来を捨てるというのであれば私はもう何も申し上げることはありません」
どうぞご自由に、と言い捨てる。
顔を真っ赤にさせてアレスは分かりやすく激昂しているのが分かった。
手を振り上げたことから、これは叩かれるなと悟る。
大人しく叩かれて学院から追い出すべきか。いや、この子に怪我をさせたらいけない。 どちらを取るべきかで少し判断が遅れた。
「何をしているの!?」
不意に背後から聞こえてきた声にアレスは硬直する。私が振り返ると走ってきたのか息を切らせているセレネが立っていた。
彼女はアレスを睨みつけ、私にすぐに抱きついてきた。
「殴ろうとした! お姉様を殴ろうとした!」
「ち、ちがう! 違うんだセレネ。これはこいつが生意気なことを言うから」
「お姉様は生意気なんかじゃない! どうせお兄様が余計なことを言ってお姉様が正論を言っただけでしょう」
私に抱きつきながら言うものだから、耳にダイレクトに届いてしまう。
庇ってくれるのは嬉しいけれど、少しトーンを下げて……セレネ。
「私に言うだけならまだしも、お姉様に直接なんて……。エリックお兄様から忠告されていたはずなのに、それを無視するなんて何を考えているの? お姉様に失礼なことを言ったのでしょう。謝って」
「セレネ……。僕はお前を思ってそいつに言ったのにどうして庇うんだ?」
「私を思ってのことだったら、前に伝えたはずよ。私はお姉様が好きで尊敬しているの。だから側にいるんだって。どうして私の意思を無視するのよ。信じられない」
「人の良いセレネが信じるのも無理はないが、悪意を持って利用しようとしているのに何故気が付かない? そいつは君を嫌っているんだ!」
アレスの言葉を受けてセレネの動きがピタリと止まる。
少しの間、三人の間に微妙な空気が流れた。
しかし、空気を読めないアレスは得意満面の笑みを浮かべている。
「信用していた人間に裏切られて傷ついているんだろう。可哀想に……。でもこれが真実なんだ」
「いえ……お姉様が絶対に口にしない言葉だったので、頭が台詞を認識しなくて……」
「は?」
「私がよほどのことをしてお姉様を呆れさせたり失望させたりしたら、そうなるかもしれないけれど。お姉様がそれ以外で私を嫌うなんてあり得ないわ。私を呼ぶお姉様の声色は本当に優しくて愛情に溢れているのよ。視線は穏やかで嫌悪感なんてないし、ああ大事にされているわって実感できるもの」
セレネの言葉にアレスは分かりやすく動揺している。
けれど彼女はアレスの表情の変化にすら気が付いていない様子だ。
これは自分の世界に入り込んでいる。こうなると長くなる。私は詳しいのだ。
「お姉様の歩き方、長い髪を耳にかける仕草、紅茶を飲む姿、授業中の真剣な眼差しと姿勢の良さ。全ての所作が完璧で品があって思わず見とれてしまうほどなのよ。私のお手本なの。その上慈悲深くて心も広くて穏やかで謙虚で権力の使い方を良い方向で弁えている賢さ。まさに淑女という名が相応しい方だわ」
一息で言い切った……。
純粋な好意というのは恥ずかしいものもあるけれど、やはり口に出して言ってもらえると気持ちが引き締まる。
そう思われているのは嬉しいし、恥じない姉でいたいからもっと頑張ろうという気持ちになれる。
「それにお姉様は何でも知っているのよ。頭が良いの」
「セレネ……。それくらいにしておいて。実の兄に対して言いにくいだろうに庇ってくれてありがとう」
「いいのよ。お姉様への無礼はお兄様だろうと許さないわ」
「セレネはそいつに騙されているんだ! 目を覚ませ!」
動揺していたアレスが息を吹き返したかと思えば、懲りもせずそれか。
いい加減に呆れてしまう。
私に抱きついているセレネもそう思っているのか抱きしめている腕に力がこもる。
そのまま私の体を反転させて背中を押してきた。
「セレネ?」
「あの人の言うことは聞くだけ無駄よ。気分を害することしか言わないのだもの。そんな言葉を聞くくらいなら寮に戻ってお姉様とお茶をしたいわ。行きましょう」
「……一理あるわね」
「セレネ!?」
背後からアレスの必死な声が聞こえるが、セレネに背中を押された私は振り返ることもできない。
そっぽを向かれてまで追いかける勇気はないのか、彼は遠ざかる私達にそれ以上関わってくることはなかった。




