2 盾となるために
――いつかはきっと、こうなることがわかっていたのかもしれない。
いつまでも誤魔化しきれないことは、薄々とルシルはわかっていた。
だけど、3人で一緒に行った遊園地が、思いのほか楽しくて……夢を見てしまった。
このままずっと、こんな日常が続けばいいと。
その日常が薄氷の上に成り立っていることはわかっていた。それでも、都合のいい夢に浸っていたかった。
「あんたは、アンジェリカじゃない。いったい誰なんだ」
その声が、深々とルシルの胸を突き刺す。
ジークにまっすぐ見つめられて、否定することも、誤魔化すこともできなかった。
ルシルは短く息を吐くと、掌を上へと向けた。
「――タナト・フェロウ」
呪文と同時に、簡単な光魔法を行使する。
ルシルの掌に淡い光が宿った。
「この呪文に、聞き覚えはある?」
ジークはハッとした。戦く瞳に、ルシルを映し出す。
「まさか、ルシル・リーヴィス……!? 君……、いや、お前が……!?」
彼の表情がこわばっていく。
おそらく、脳裏では否定と葛藤が繰り広げられていくのだろう。しかし、体内に浸透していく毒からは逃げられるはずもない。それが毒であることは彼自身が見抜いたのだ。
やがて、彼は怒りと悲しみが混ざり合った表情を浮かべた。
いつも明るくふるまっているジークのこんな様子は初めて見た。その事実がルシルの胸を強く締めつけた。
「お前が……奪ったのか……!? アンジェリカを……!」
震える指先が剣の柄を握りしめる。彼の瞳には徐々に敵意が宿り、その感情を叩きこむかのようにきつくルシルを睨みつけた。
そんな彼の視線を、レナードが体を張って遮る。
「ジーク、待ってくれ。黙っていたことは悪かった。だが、こちらにも事情がある」
「レナード! あんたも知っていたのか!? この女の正体を……!」
彼からの糾弾は、レナードも堪えた様子だった。
しかし、迷いを振り払うかのように首を振ると、しっかりとした声で応えた。
「ルシルは世間で言われているような悪女じゃない。彼女がアンジェリカの体を奪ったわけでもない。こうなったのはすべて、アンジェリカの意志だ」
「リオ……! ……その話は……」
ルシルが止めるよりも早く、レナードは言い切った。
「アンジェリカは、闇纏いだった」
「――嘘だッッ!」
その叫びは、悲鳴のようだった。
聞く者の精神を締め付けるような、悲痛な声だった。レナードもつらそうに眉を寄せるものの、口を閉じようとしない。
「……そして、彼女の父親も闇纏いだった」
「ちがう! ロイスダールさんを、アンジェリカを、侮辱するな!」
ジークはその事実から逃れるように腕を大きく振る。
同時に唱えた。
「エクスト・シェルツ――!」
彼の手から光が放たれる。それは攻撃ではなかった。ルシルやレナードを狙って、撃たれたものではない。
ただ、目の前に突き付けられた悪夢を打ち払おうとするかのような――激しい防衛反応だった。
彼の手からさく裂した魔法が、床に着弾する。床が大きく揺れて、ルシルたちはよろめいた。
次の瞬間、床にひびが入る。
すると、その一部が大きく陥没した。
ここは1階だ。それなのに、破片が落ちる音は、遥か下方から響いた。
次の瞬間、ルシルの足元が崩れ落ち、視界が揺れた。
床の穴はどんどん大きくなって、沈んでいく。
――落ちる。
ルシルとレナードは咄嗟に、床を蹴り上げて受け身をとった。
鈍い衝撃とともに足裏が地面につく。3人とも呆然として、周囲を見渡した。
1階の下――そこには、薄暗い部屋があった。地下室だ。
床には魔法陣が刻まれ、瓶や薬液の棚が並んでいる。床には壊れた鳥かごが転がっていた。どれも錆びつき、鉄の格子は歪んでいる。空のかごの中には、羽がへばりついていた。鼻をつく薬品と血の臭いが、異様な光景を更に印象付けていた。
まるで「見てはいけないもの」を暴いてしまったかのように、空気そのものが重苦しい。
「ここは……」
「地下室か?」
ルシルとレナードは唖然としながら、辺りを見渡す。
そして――気付いた。
ジークの様子がおかしい。地下室の光景を視界に入れると、彼は目を大きく見開いた。そして、頭を抱えて呻き出した。
「う……っ」
「ジーク? どうしたの……?」
ルシルの問いに答えない。
悪い悪夢にうなされているかのように、彼の目が恐怖に歪んでいく。
「ああ、そうか……ここは……あの時の……」
彼の手がぴくりと動く。剣の柄をぎゅっと握りしめた。
戦いを挑む者のそれではない。まるで闇にとり残された心が、よりどころを探すかのように。
「思い出した……! ……俺はあの時、『盾』になった……」
もう片方の手で、自分の顔を覆う。彼の視線は虚空へと向けられている。何か遠い日の記憶を必死で引き出しているかのようだった。
彼はよろめく足で、一歩を踏み出す。
地下室を見渡すと、途方に暮れた様子で笑った。
「はは……」
剣の柄を握りしめたまま、彼はしゃがみこんで、鳥かごに触れる。そして、そのかごにへばりついた羽毛を目にして、悲しそうに目を細めた。
「……俺、……本当は、知ってたよ。アンジェリカがどうして、鳥のはばたく音を怖がるのか……」
彼はかごから手を放して、立ち上がる。緩慢な様子でルシルたちの方を向いた。
床の上で鉄かごが揺れて、かつんと虚しげな音を立てた。
「こんな田舎に越してきて、村人たちの目が届かない、崖の上の家で……ロイスダールさんが何をやっていたのか……」
「ジーク……」
「そうか……。ロイスダールさんは闇纏い……。そして、アンジェリカも……」
レナードがルシルを守るように立つ。
そして、正面からジークを見据えた。
「そうだ……2人は闇纏いだった。アンジェリカは自分の命を捧げ、ルシルを蘇らせたんだ。ザカイアの忠実な側近であったはずの彼女を。アンジェリカに誤算があったとしたら1つだけ。ジーク、君だってわかってくれているんじゃないのか。ルシルが、世間から噂されているような人物ではないことに」
「ああ……そうだな……。噂で聞く悪女と、君は、イメージがちがうみたいだ」
「それなら……」
レナードの言葉を上から踏みにじるように、ジークは吐き出した。
「でも、そんなことはどうだっていい! お前が悪人か善人かなんて、俺には関係ない。俺にとって重要なのは、今この場にアンジェリカがいないってことだ」
ジークの瞳から、色がすっと抜け落ちた。
先ほどまでにじんでいた悔恨も、痛みも――跡形もなく消え失せ、冷徹な色だけが残る。刃物のように研ぎ澄まされた眼差しが、まっすぐルシルを射抜いた。
「アンジェリカの正体が闇纏いであったとしても、構わない……。アンジェリカがアンジェリカでいてくれたら……俺は彼女が何者であっても構わなかったんだ……」
その声音は、ぞっとするほど冷ややかだった。
「だけど、お前はちがう。アンジェリカじゃない」





