運命の日(2)
……そういえば、あの時アシュリーが──……
「いい夜ね」
ふわりと吹く風がアシュリーの髪を揺らすその光景に、強い既視感を覚えた。
わたしの視線に気付いたアシュリーが柔らかく微笑む。
「綺麗だわ」
それに頷き返す。
「……ああ、綺麗な月だ」
「あら、違うわ。スカーレットのことを言ったのよ」
ふふふ、と笑うアシュリーを見て、泣きそうになる。
その頬に手を伸ばし、引き寄せ、口付けた。
アシュリーは何も言わなかったし、抵抗もしなかった。
唇が離れると困り顔で微笑んだ。
「大丈夫、アタシはここにいるわ」
まるでわたしの心の中にある不安を見透かしたかのような言葉だった。
抱き締められていつの間にか詰めていた息が、はあ……、と漏れる。
二人で少しの間、抱き締め合い、それから空を見上げた。
綺麗な満月が煌々と輝いている。
「月に誓うのは不誠実だと言うけれど……あの欠けては満ちる月みたいに、スカーレットが何度も同じ時間を繰り返したとしても、アタシは必ずあなたを好きになるわ」
「ああ」
「でも、アタシは欲深いから『他』のアタシにあなたを預けるのは嫌よ。これからの時間は『今』のアタシだけと共有してほしいし、アタシもそうあれるよう努力するわ」
「ああ」
繋いだ手の温もりに、優しいけれど熱のこもった視線にぞくりとする。
心の底から歓喜に打ち震えた。
……わたしの心はアシュリーのものだ。
この六年間も、そしてこれからも、ずっと彼だけのものである。
どちらからともなく顔を近づける。
しかし、口付けようとした瞬間、視界の端でギラリと銀が輝いた。
体が反射的に剣を抜き、銀を弾く。
カンッ、キィンッと二つの音が響き、アシュリーも剣を抜いていた。
互いに背中を預け、剣を構える。
「全く、邪魔しないでもらいたいものね」
アシュリーの不満そうな呟きに、つい笑ってしまう。
「せっかく良い雰囲気だったのにな」
「暗殺するにしても空気は読んでもらいたいわ」
飛んで来たナイフをまた剣で弾く。
ふと、足元に落ちたナイフに見覚えがある気がした。
……二度目だからだろうか?
そんなことを考えていると暗闇から複数人の人影が現れる。
アシュリーと目配せをし、剣を構え直す。
じわじわと距離を詰めて来る暗殺者達だが、前のようにすぐには仕掛けて来ない。
もしかして、アシュリーの剣の腕を知っているのだろうか。
わたし一人ならともかく、二人相手にするのは手間がかかると分かっているのかもしれない。
それでも襲撃者達は襲いかかって来た。
黒装束に身を包んだ襲撃者がナイフを構え、わたしに飛びかかる。
それを剣で受け止め、わたしは襲撃者の腹に蹴りを入れた。
ぐふっ、と襲撃者の口から空気の漏れる音がして、足にしっかりと肉を蹴った感触が伝わってくる。思いの外それが柔らかかったので、この黒装束は恐らく女だ。
「あら、素敵。勇ましいわね」
同じく黒装束に襲いかかられて、その者の肩を剣で切り裂いたアシュリーが、チラとこちらを見ながらそう言った。
「普段の訓練ではしないが……っ」
「騎士の訓練で殴る蹴るはちょっと問題よね……!」
「ああ、騎士道に反するからな……!」
言いながら、黒装束のナイフを弾く。
以前は話す余裕もなかったけれど、四度目の人生ではとにかく剣の訓練に重きを置いて続け、毒の耐性も身に付けた。今と合わせたら十六年、わたしは研鑽を積んだようなものだ。
筋肉をつけ直すのは苦労したが、おかげで以前よりも体作りが上手く出来たし、剣の腕も上がった。
しかも今はアシュリーも戦ってくれているので、三度目とは違う。
黒装束がジリ、と後退し始めたところでアシュリーが声を張り上げた。
「今よ!!」
その声を待っていたとばかりに庭園のあちこちから騎士達が飛び出して来る。
アシュリーがわたしを抱え、素早く離脱する。
それに合わせた様子で黒装束達の上にバッと網が広がった。
慌てて黒装束達が逃げようとしたけれど、それよりも早く網が彼らに覆い被さり、その端を騎士達が押さえる。よく見ると網は金属のように鈍く輝いており、ナイフ程度では切れそうもない。
周囲を警戒しつつ、バネッサが近づいて来る。
「殿下、スカーレット様、ご無事ですかっ?」
「ええ、アタシは大丈夫よ」
「わたしも問題ない」
「良かった……」
バネッサのホッとした表情を見て、網に絡まる襲撃者達を見て、わたしも安堵の息が漏れる。
あの日、あの時、わたしは大切な人を失った。
けれども、今回は守ることが出来たのだろうか。
剣を鞘に戻し、自分の掌を見ると僅かに震えていた。
……本当に、これで終わったのか。
あまりにあっさりと襲撃者を捕縛出来てしまい、まだ実感が湧かない。
騎士達に指示を出すアシュリーの姿に、言葉では言い表せない感情があふれて来る。
……ああ、わたしは『あの日』を越えられるんだ。
そう思うとドッと疲れが押し寄せて来た。
「スカーレットッ」
ふらりとよろめいたわたしをアシュリーが抱き留める。
「すまない、少し、休む……」
感じる眠気に任せ、わたしは目を閉じた。
* * * * *
「スカーレットッ」
ふらついたスカーレットの体を、アシュリーは咄嗟に抱き留めた。
少し休む、と呟き、スカーレットが目を閉じる。
規則正しい呼吸にホッとしつつ、ふとその頬に浅いが切り傷があることに気付いた。
ハンカチを取り出して当てれば僅かに血が滲む。
何故傷が付いたのか、考えるよりも先にアシュリーは振り返っていた。
「バネッサ、スカーレットと戦っていた襲撃者のナイフを確認してちょうだい」
「はっ」
バネッサが網から一人ずつ回収されている襲撃者を確認し、落ちている武器を確かめる。
すぐにナイフの一つを手に戻って来た。
「ナイフに何か塗られているようです」
「っ、急いで解毒薬を持って来て。スカーレットが少し、毒を受けたかもしれないわ」
「かしこまりました」
スカーレットはレンテリア王国にいる時、毒を摂取して耐性をつけていたと言っていた。
襲撃者のナイフに毒が塗ってあり、そのせいで自分が動けなくなり、アシュリーに庇われてしまったから。もう同じ道を辿りたくないと、そのために毒の耐性を身に付けたと。
……でも、これが少量でも致死性の毒だったら?
スカーレットの顔色と呼吸を再度確認する。
今のところは顔色も悪くないし、呼吸も安定している。
だが、毒が塗ってあったなら、その毒を特定しなければ。解毒薬はあくまで一般的に使われる毒に対するもので、他の毒を使用していたとしたら解毒薬では意味がないかもしれない。
よほど急いだのか、息を乱しながら戻って来たバネッサから薬を受け取る。
数種類の薬草を使った解毒薬だ。味は悪いが効果は確かである。
薬の瓶からコルクを抜き、口に含むと、アシュリーはスカーレットに口付けた。
意識のない相手に飲ませるという行為は危険だが、毒で意識を失った可能性もあるため、どうしても飲ませておきたかった。スカーレットは解毒薬を飲み込んだものの、目を覚さない。
……体が毒と戦っているのかもしれないわね。
空になった瓶をバネッサに返していると、兄がやって来た。
「アシュリー! っ、スカーレットは無事か!?」
アシュリーが抱えていたからか、兄は慌てた様子で駆け寄って来る。
「ええ、毒か何かが塗られたナイフが掠ったみたいで……今は眠っているだけで顔色も問題ないけれど、宮廷医官に診てもらったほうがいいかもしれないわ。それから『ブローディアの間』にテセシア侯爵令嬢を休ませているわ。彼女からも話を聞いてあげてほしいの」
「分かった。ここは私に任せてくれ」
「お願いね、兄上」
スカーレットを抱え直し、その場を兄に任せてアシュリーは屋内に戻る。
後ろからバネッサを含めた数名の騎士がついて来た。
貴族達の視線を感じたが、今はそれどころではない。
急いでベッドのある控えの間の一室にスカーレットを連れて行き、宮廷医官を呼ぶ。
女性医官が来るとバネッサに警護を任せ、アシュリーは一旦部屋を出た。
……大丈夫かしら。解毒薬は飲ませたけれど、でも……。
廊下の壁に寄りかかり、診察が終わるのを待つ。
たった数十分のはずなのに、何時間もかかっているような感覚がする。
……きっと、スカーレットはもっとつらくて苦しかったわね……。
目の前でアシュリーが死んでいくを見ていることしか出来ず、自ら命を絶ったスカーレットがどんな気持ちだったのか、今なら理解出来る。
同時に、アシュリーは自分の『加護』が役に立たないことを痛感していた。
自分の傷は他人に移せるのに、他人の傷を自分に移すことは出来ない。
なんて身勝手で役に立たない能力なのだろう、と思う。
カチャリと扉が開き、壁から背を離した。
「殿下、中へどうぞ」
バネッサに声をかけられて室内に入る。
ベッドではスカーレットが静かに寝息を立てていた。
近くの椅子に腰掛け、医官に問う。
「それで、スカーレットは大丈夫なのかしら?」
「はい。幸い、ナイフに塗られていたのは一般的に使用されている毒でしたので、殿下が飲ませた解毒薬が効いております。今は体の中に入った毒に反応して、休息を取っているだけでしょう。少量ですので命の危険や後遺症が出るようなことがございません」
「そう……」
医官の言葉に安堵の息が漏れ、肩の力が抜ける。
「ありがとう。急に呼びつけてごめんなさいね」
「いいえ、レヴァイン様がご無事で良うございました。恐らく一、二時間ほどで目覚められるかと思いますが、隣室に控えておりますので何かありましたらお呼びください」
「ええ、その時はお願いね」
医官は一礼すると下がって行った。
スカーレットの頬には当て布がされていて、それが痛々しく見える。
眠るスカーレットの手を握った。
細くて、剣を握っているからかやや筋張っていて、皮の厚い騎士の手だ。
レンテリア王国では完璧な経歴の持ち主とされていたが、手を見れば、どれだけ努力をしてきたかが窺える。それにスカーレットは日々の鍛錬を欠かさない。本当に真面目な人だ。
「……本当に良かった……」
眠るスカーレットの手に口付ける。
この手を離したくない。失いたくない。
……アタシの心をこんなに奪ったんだから、覚悟してちょうだいね。
* * * * *
目を覚ますとベッドの上にいた。
そばにはアシュリーがいて、わたしの手を握ってくれている。
起きたわたしにすぐに気付いて声をかけてきた。
「スカーレット、大丈夫?」
声を出そうとしたが、喉が渇いて上手く声が出せなかった。
アシュリーがすぐに水を用意してくれて、起き上がり、それを飲む。
「……ありがとう。わたしは大丈夫だ」
「もう、あなたの『大丈夫』と『問題ない』は信じられないわ。毒の塗られたナイフで怪我をして、そのせいで少しの間眠っていたのよ? どれだけ心配したか……」
そこでようやく、頬に何かが貼ってあることに気付いた。
当て布がされていて、どうやら中に薬が塗ってあるらしく、触れると頬にヒヤリとした冷たさと僅かな痛みがあった。
「すまない、怪我をしていることに気付かなかった」
「本当に?」
「ああ」
頷き返せば、アシュリーは「もっと自分を大事にしてちょうだい」と言う。
それにもう一度頷いた。
「ところで襲撃者の件とテセシア侯爵令嬢はどうなった?」
「兄上に任せてあるわ。気になるだろうけど、まずはあなたのことが優先よ」
というわけで、隣室に控えていたという女性医官に診察してもらった。
あちこち確認したり、質問に答えたりしたが、医官は驚いていた。
「毒を受けたのにこれほど症状が軽いとは……」
「レンテリア王国にいた時に王太子妃教育の一貫として毒を摂取して耐性を身に付けていたので、そのおかげだと思います」
寝不足の時のような気怠さを少し感じるものの、気分は悪くない。
医官が「なるほど」と言って道具を片付けた。
「毒に耐性があっても体に残っているので無理をしないようにお願いいたします。今日は安静に過ごしてください。二、三日運動も控えていただきたいです」
「剣の鍛錬も?」
「いけません。あまり分からないかもしれませんが、毒で体の内側が傷付いて弱っているのです。普通なら起き上がるのも難しいのですよ。水分をよく摂り、早く体から毒を出すのを心がけてください」
やや厳しめに返されて、わたしは「はい」と頷くしかなかった。
アシュリーがバネッサに「よく見張っておいてね」と言う。
さすがに医者が禁止しているのを無視するつもりはない。
医官が「それでは失礼します」と下がって行くのを見送った。
「とりあえず、スカーレットの使っている部屋に移りましょうか」
と、アシュリーが言って、わたしを抱き上げる。
「自分で歩けるんだが……」
「ダメよ。安静にって言われているでしょ?」
……アシュリーは意外と過保護だな。
そのまま、抱き上げられて客室に戻ることとなった。
だが、悪い気はしない。心配してもらえるというのは嬉しいものだ。
アシュリーの首に腕を回し、抱き着いた。
「これはこれで役得というやつだな」
わたしの言葉にアシュリーが小さく笑った。
「それはアタシの台詞だわ」
触れ合ったところから感じる温もりが心地好い。
すり、とアシュリーにすり寄ると何故かアシュリーが足を止めた。
ややあって動き出したアシュリーを見上げれば、顔が赤い。
「スカーレット、そういうのはずるいわ」
「『ずるい?』」
「分からないならいいわ」
結局、何が『ずるい』のか教えてはもらえなかった。




