【第90回】★世界の終わりから【超長文注意】
『勝手にひとりで世の中憂いてろ』
怒ってます。久しぶりに怒っています。静かにブチ切れてます。
そういうわけで、今回はいつもと違った形式でのレビューとなります。そうです「レビュー」です。このエッセイ集の冒頭にも述べているように、基本的にココでは「批評」でも「悪口」でもない個人的な「感想」を書いています。便所の落書きのようなもんです。便所の落書きに「バーカ」と書いてあっても、それが特定の誰かを名指ししたものでないなら「なんだとコノヤロー!」と怒る人は、まぁまずいないでしょう。
しかし映画レビューという「感想」を書く以上、創作者の人格を傷つけたり貶めたりするような「悪口」は否定されてしかるべきです。悪口や批評の矛先は常に「創作者」ではなく「作品」に向けなくてはならない。なので、以下に述べる「怒りにまみれた映画感想」は全て監督個人に向けたものではなく「作品」に向けたものであることを、どうかご理解ください。
監督は紀里谷和明。いまの十代諸君はもしかしたらピンと来ないかもしれませんが、この人は『CASSHERN』『GOEMON』『ラスト・ナイツ』と、これまで3本の実写映画を監督した人であり、宇多田ヒカルの元旦那です。小学校時代を宇多田ヒカルの楽曲と共に過ごした自分にとっては、未だに紀里谷監督は「映画監督」というより「宇多田ヒカルの元旦那」という印象が強いのです。
さて、一般的に言って、紀里谷監督作品は映画ファンからは滅茶苦茶叩かれる傾向にあります、っつーか、叩かれ続けてきたといっていいでしょう。特に『CASSHERN』ね。個人的には近年再評価の兆しがあるんじゃないかと考えている『CASSHERN』ですが、公開当初はそらもう、メッタクソに叩かれまくった。「破〇屋ブログ」などのネタ系映画ブログでは必ずと言っていいくらい槍玉に挙げられていた作品。
しかし、私個人的に「好きか嫌いか」で言ったら『CASSHERN』は「好き」なんですよね。ただ、「映画として好きか嫌いか」と聞かれたら「嫌いです」となるんだけど。つまり俺個人が考える『CASSHERN』の好きな部分って庄野晴彦の仕事の部分だけなのです。大亜細亜連邦の旧ソ連アヴァンギャルドなデザインだったりナチスの意匠を引用した新造人間の王国だったりと、美術面においては個人的に好みなのです。しかしながら、それは映画という表現とはあまり関係がない部分での「好き」なので、そんなに胸張って言えることではないんですよね。
あ、でも宮迫博之の使い方は抜群に上手かったなぁ。「宮迫博之」という人間を役者として使った作品では、この『CASSHERN』が一番素晴らしいんじゃないかと思ってます。芸人なのに何も喋らせないというね。表情と呻き声だけで全部表現させるという。これは当時観ていて新鮮だったし面白かった。
そんな紀里谷監督、『CASSHERN』製作から20年経過して、いろんな人から叩かれまくって精神的に疲れちゃったのか、「もうこれで監督を引退する」とのこと。いつも映画製作において全力投球な監督ですが、本作は事実上の引退作品になるので、かなりの気合が入っているんだとか。楽しみですね。では感想を述べていきましょう。『世界の終わりから』という作品です。
◆◆おはなし◆◆
黒背景に白のフォントで「KIRIYA PICTURES」と画面に表示され、本編スタートです。
戦国時代っぽい風景のカットからおはなしは始まります。鬱蒼と覆い茂る森の向こうから、なにやら不穏な予感を思わせる黒煙がたなびいてます。背中に籠を背負った小さな女の子が草葉の陰に隠れて、騎馬武者たちの目を掻い潜り、どうにか逃げようとしています。ちなみにここ、侍と女の子を同一のアングルで収めた画が一枚もないので、お互いの距離感がよくわからず、従って緊迫感というのも皆無です。
無事に侍たちの目を掻い潜って村へと続く山道を歩いていると、そこはもう死体死体死体の山で、女の子はビクつきながらも家に帰りつきます。が、村は侍たちに襲撃された後でした。母親の惨殺死体を前に女の子は「おっかぁあああー!」と泣き叫びます。『GOEMON』でもそうでしたが、「KIRIYA PICTURES」では無辜の民は「純正」の象徴であり、こうして簡単に汚されて=死体になってしまいます。便利ですね無辜の民って表現。
と、ここで場面転換。主人公の登場です。舞台は2030年の日本。どうやらずっと看病していたおばあちゃんが死んでしまったらしく、主人公はみっともない泣き顔をスクリーンに晒しています。ちなみにこの映画、主人公の表情のほとんどが「泣き顔」と「困惑顔」で構成されています。嘘だろ?と思うかもしれませんが、そうなのです。
主人公のハナちゃんは卒業を一か月後に控えた17歳の女子高生で、ひとことで言ってしまえば「超絶不幸な女の子」です。身寄りはなく、貧乏で、携帯料金の支払いも遅れる始末。生活費を稼ぐために居酒屋でバイトしてるみたいですが、それでも生活は苦しいみたいです。それにプラスして、学校ではいじめに遭ってます。こうして並べてみるとハナちゃんはケータイ小説の主人公ばりに不幸要素を大量トッピングされてますね。しかしそんなハナちゃんにも友達がいるのです。片足の悪い眼鏡をかけた幼馴染みの男の子です。ちなみに、なぜ足が悪いのかという必然性は物語的に関係ありません。別に健常者でも話は成立します。
さて、そんなハナちゃんがバイト終わりに家に帰ると、謎の男が玄関前で彼女を待ち構えてます。どうみても不審者ですが、とりあえずハナちゃんは男を家に入れます。「江崎」と名乗った男は「最近、変な夢を見ませんか?」と、頭電波なことを訊いてきますが、ハナちゃんには心当たりがありません。とりあえず宿題しなきゃいけないから帰ってくださいと言って江崎たちを帰らせます。
その日の夜、湯船でウトウトしているとハナちゃんは制服姿で見知らぬ世界にいました。そうです、夢の世界です。夢の世界というのは冒頭の戦国時代の風景世界のことなんですが、そこでは侍たちがお互いに殺し合ってました。殺し合う理由?特にありません。説明もされません。戦国時代=殺し合いの時代というのが、紀里谷監督の認識なのです。というか紀里谷監督は「人間の歴史は殺し合いの歴史でしかない」という極端な認識でいるのかもしれません。そんなのは過去の作品を見ていれば分かる事です。
困惑顔のハナちゃんはその場から逃げ出します。互いに殺し合っていた侍たちは急に殺し合いを止めると、標的を変えてハナちゃんを追いかけてきます。弓矢を射られて殺されかけるハナちゃんですが、昏倒して目が覚めると、いつの間にか洞窟にいました。どうやら、冒頭に登場した女の子のユキちゃんと、変な服を着た占いババアに介抱されたようです。
そんで、占いババアは会って早々にハナちゃんに一枚の手紙を渡してこう言います。「その手紙を祠に届けておくれ。行き先はユキが知ってるから。彼女のこと、よろしく頼むよ」と。とんでもなく押しつけがましいババアですが、含みのある物言いをしているので、その押しつけがましさは映画的に許されています(と、紀里谷監督は考えてるみたいです)。
その後、ハナちゃんたちを逃がしたババアは侍集団の棟梁っぽい奴に殺されます。(全編通して不愉快極まりない映画ですが、この棟梁が着ている着物の質感とデザインだけは私の好みです)。あ、ちなみに祠がなんなのかとか、祠になにがあるのかとか、そういうのはここでは一切説明されません。
目覚めたハナちゃんは慌てて着替えると学校へ向かいます。完全に遅刻ですが、男の子のファインプレーもあって、どうにか無事に宿題を提出できてほっと一安心……かと思いきや、休み時間中にいじめ主犯のヤンキー女に呼び出されて「来週までに5万持ってこいや」と紋切り型の脅しを受けてしまいます。このシーンにおかれましては、ヤンキー女の表情演技も極めて紋切り型のため、令和の時代にこんなコッテコテなカツアゲ描写をスクリーンの世界で観れるなんて……!と、笑ったのと同時に感動いたしました。ちなみに、このシーン以外にいじめの直接的な描写は全編通して存在しないため、どうやら紀里谷監督的には、2030年の女子高生によるいじめというのは「カツアゲ」のことを指してるみたいです。「5万」という微妙な金額に妙なリアリティを感じてしまいますが、そういう部分のリアリティは特にこちらは求めてません。
カツアゲされたハナちゃんは泣きそうな顔で廊下を歩いて教室へ戻ろうとしますが、急に眩暈がして倒れます。すると、なぜか昨晩訪ねてきた「江崎」と名乗る男と、その関係者がいつの間にか傍に立っていて、ハナちゃんを問答無用で車に乗せてどこかへ連れ去ってしまいます。この時、ハナちゃんを取り戻そうと江崎たちに追いすがるのは、足の悪い同級生の男の子だけ。他の生徒や教師陣は、ボケっとハナちゃんが連れ去られていくのを見届けているだけです。なんと無力なことでしょう。学校という領域は治外法権と言われていますが、ハナちゃんを連れ去った奴らは政府機関の人間のようなので、教師も手を出せません。警察すら呼ぼうとはしません。されるがままです。
謎の地下施設に連れてこられたハナちゃん。そこで彼女が出会ったのは、夢に出てきた占い師にクリソツのババアでした。ババアを演じているのは夏木マリですが、髪型といい、話し方といい、どっからどーみても湯婆婆です。ありがとうございます。湯婆婆以上に奇抜な髪形をしているので、私はここで笑いそうになりました。なお監督の話によると「モチーフキャラは湯婆婆じゃない」とのことですが、夏木マリにあんな髪型をさせてあんな話し方をさせた以上、それはもう湯婆婆でしかありません。しかし、いいんですよ湯婆婆でも。現代におけるあらゆる映画というか創作物は引用の塊でしかないのですからね。にしても、フツーは既視感を避けるために、もうちょっと似せないように努力するものですが。
ババアはハナちゃんに一冊の分厚い本を見せます。一般人には解読不可能な象形文字がびっしりと羅列されています。ババア曰く、本には世界や宇宙の「運命」が始まりから終わりまで書かれていて、これまでの人類の歴史は全て、その本の中に予言されていたことらしいのです(もちろん、元ネタはオカルト民御用達の「アカシックレコード」です)。
本によると、あと二週間後に世界は滅亡してしまうらしいです。ちなみに人災なのか自然災害で滅亡するのかはわからんみたいですが、とにかく二週間後に世界は滅亡する運命にあるとババアは言い切ります。そして、その運命を回避する力はハナちゃんの手に握られているともババアは言い切ります。どうやらハナちゃんの選択次第で未来の出来事が分岐していく、そういうお話のようです。ハナちゃんの顔がどんどん険しさを増していきます。またまた泣きそうな顔になってます。
きましたね。典型的なセカイ系映画の展開です。なんでハナちゃんの手に世界の命運が握られているのかとか、そういう部分もろくすっぽ説明されないあたり、やはり典型的なセカイ系映画です。ホログラフィック宇宙論とか多世界解釈とかいろーんな要素を混ぜたのが、この『世界の終わりから』という作品ですが、この映画は基本的に『デビルマン』で『最終兵器彼女』で『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』で『雲のむこう、約束の場所』な映画です。まるで昭和か平成です。いまって令和何年だっけ?
しかし急に世界を救ってほしいなんて言われても、ハナちゃん困っちゃいます。困惑顔のまま、ハナちゃんは江崎の車に乗って帰路につきます。ちなみに車のデザインに2030年らしさは皆無です。
さて、ここで江崎さん、急にベラベラと自分の出自についてあれこれ話し出します。組織は、表向きは警察庁警備局ってことになっているけど、本当は防衛省に属する政府非公式の組織で、その存在を知る者は政府機関内においてもごくわずかだと。これを、ぜーんぶ台詞で説明します。これこれ、「KIRIYA PICTURES」といえばこれです。心情も状況説明も何もかもを言葉で語り尽くしてしまうという「それ映画でやる意味あるの?」な台詞の連打です。目を瞑っていても状況が分かってしまいます。映画なのに「言葉としての映像」はこの作品には皆無です。20年経過しても何も変わってないんで、ある意味凄いですね。でもいいんです。これは「映画」ではなく「KIRIYA PICTURES」なんですからね。
江崎の話を聞いたハナちゃんは、やっぱりここでも困惑顔を浮かべたまま、本当にあと二週間で世界が終わってしまうのかどうか懐疑的でいます。そりゃそうです。誰だってそうです。ハナちゃんの不安を聞いて、江崎は車を鉄橋の路肩に止めると、カーステレオのボリュームを最大にします。大音量で流れてくるのは「モルダウ」です。ちなみに、どーしてここでモルダウが流れるのか意味はありません。「KIRIYA PICTURES」に演出の意図を求めてはいけません。これがシチュエーションにつけられた音楽なのか、それともキャラクターの心情につけられた音楽なのか、全く判別がつきません。しかし文句を言ってはいけません。考えるのではなく感じるのです。ですが、感じようにも演出や編集が雑なのでどうにも雑音ばかり聞こえてきます。どうにかしてください。
「モルダウ」をかけっぱなしにしたまま、江崎はハナちゃんを連れて車を降りると、橋の上に立って都内のビル群を意味ありげに眺めます。まだモルダウは流れてます。と、いきなりカーステレオから臨時ニュースが流れてきました。政府発表で、どうやら未曽有の災害が起こる可能性があるため、今夜から計画停電を実行するとのこと。そして次の瞬間には都内の全電力がブラックアウトしてしまいます。ビルもまっくら、都市はまっくら。こんな予告もクソもない突然の大停電かまされたら、国民の不満は爆発して当然かと思うんですが……しかしそんな描写は一切ありません。基本的にこの映画では「国民」とは「大衆」を意味しており、それは無辜の民とは異なり「無知蒙昧」と同義なのです。そんな奴らの人間らしい生活なんて描きたくないと制作陣は考えたのかもしれません。というか、なんでわざわざ車から降りたのよ? 政府発表を聞くのが目的なら車内でもいいだろうが。あ、演出に意味なんてないんでしたね。すみません。
家に帰されたハナちゃん。当然、彼女の暮らすアパートも計画停電のため真っ暗です。不安げな様子でひとりで過ごしていると、急に地震が襲ってきました。驚いていると、江崎から着信。「すぐにテレビを点けてくれ」とか、わけわかんないこと抜かしてます。いま計画停電中なのですが、このバカ男はなにを言ってるんだろうか……と思って見ていると、パッと部屋の電気が点いてテレビの電源がONになりました。計画停電とは何だったんでしょうか。それともハナちゃんは特別な存在だから、彼女の部屋だけピンポイントで計画停電を解除したんでしょうか。どうやって? ねぇどうやって? どういう手続きで電気を復旧させたんでしょうか。誰か教えてください。
「関西で地震が起きた」と、壮絶に頭の悪い台詞を口にする江崎。やっぱりバカですねこの男。彼はこの状況をハナちゃんに見せつけると「世界を救うのに協力してくれるかい?」と訊いてきます。が、ハナちゃんは「無理です……ぐすん」と困り顔で断ります。さ、これはプロットポイント1に繋がる伏線ですね。ハナちゃんがアクションを起こすことによって問題を解決するための「動機」を獲得して、中盤の展開へ突入していくという、典型的なハリウッド脚本のやり口です。わかりやすくて、とてもいいと思います。これはマジでそう思います。ただでさえ脚本作りが下手くそなんだから、型にはめたくらいがちょうどいいんです。
さて、どういう経緯で「動機」を獲得するのかな……とみていると、翌日、急に小学校時代のクラスメイトとタイムカプセルを堀りに行くことになりました。2030年の未来でもタイムカプセルを埋めるという「映画の中でしか見たことない風習」は存在するようです。なお、このシーンまでにタイムカプセルの「タ」の字も出てこないので、唐突な感じは否めません。
ハナちゃんがタイムカプセルで埋めていたのは、カセットテープでした。他の人たちは「未来のわたし」に向けて手紙を書いたようですが、ハナちゃんはカセットテープに音声を吹き込んでいたようです。なんでカセットなんだよと幼馴染が突っ込みますが「音声の方が伝わるからって、昔お父さんに言われたから」というのが理由のようです。別に音声だろうが文章だろうが伝わるものは伝わると思うのですが、とにかく「KIRIYA PICTURES」ではそうなのです。
そこからハナちゃんは幼馴染とクソどうでもいいやり取りをします。最終的に幼馴染は「お前なら、頑張れると思うよ」的な励ましの台詞をハナちゃんに送ります。幼馴染に励まされたハナちゃんは、まるでサーレーのようにやる気がムンムン湧いてきたぞとばかりに江崎へ電話。「世界を救うのに協力します」と伝えるのです……
あのー、こんな動機の芽生え方があっていいんでしょうか。少なくとも脚本としては最悪の部類なんじゃないでしょうかこれ。ハナちゃん自身が行動を起こしていく中で問題に立ち向かうための覚悟や決意が生まれるのではなく、事情を全く知らない「幼馴染み」という属性を持つだけのモブキャラクターに、なんとなく耳障りの良い、なんとなく元気の湧いてきそうな言葉を吐かせて、なんとなく主人公を一歩前進させた気でいる。こんな頭の悪い脚本、本当に久々に見ました。『#マンホール』や『私のしあわせな結婚』など、ここ直近で私が鑑賞した邦画の脚本がめちゃくちゃ輝いて見えます。
紀里谷監督は雑誌のインタビューにおいて「映画作り全体において、いい脚本やいいお芝居が占める割合なんて10%もないんです」「予定通りに進まないのが映画製作なんだ。こっちは大変な想いをして作ってるんだ」と口にしています。この人には是非とも最近刊行されたばかりの『マッドマックス 怒りのデスロード 口述記録集』を読んで欲しいですね。でも、言わんとしていることは分かります。予算のあるなしに関わらず、実写映画の撮影はアニメーションと違って「コントロール可能な領域」というのがメチャクチャ狭いですからね。しかし、だからと言ってそれが「脚本をおざなりにして良い」言い訳にはならないはずです。でも、これは「映画」ではなく「KIRIYA PICTURES」なので、脚本がどれだけいい加減でもオッケーなのです。なんだそりゃ。
ということで、こっから先は中盤です。ババアは「夢の世界」の定義をハナちゃんに説明します。ババアによると、ハナちゃんが眠ってる間にアクセスしているのは実は「夢の世界」ではなく「過去」らしいのです。そしてババア曰く「過去」というのは「記録としての歴史の堆積」ではなく、そこに暮らしていた人達の「記憶や感情の集合体」なんだそうです。よーするに、夢を見ている時のハナちゃんは肉体は現実世界にあるけど、ハナちゃんの魂は過去の世界に飛んでるみたいです。ふーん。なんだか『ジーン・ダイバー』っぽいですね。ちなみに、ハナちゃんて劇中だと基本的におどおど困ったり泣いたりしてばかりいて機転が利くような娘にはまったく見えないし、事実そんなシーンは最初から最後まで全然ないんですが、なぜか夢の世界の設定についてババアが解説するシーンになると、観客が疑問に感じる点を明快な台詞口調でババアに質問していきます。なぜかこの時だけ妙に勘が鋭くなるんですね。世界設定の開示のためなら、キャラクターの性格なんぞ平気で歪ませる。それが「KIRIYA PICTURES」クオリティなのです。
さ、ババアに導かれて、いざ、ハナちゃん夢の中へダイブ! ちなみに夢の中へ潜る際にはババアの3人の助手が現実世界からハナちゃんをサポートするみたいっす。この助手なんですが、人間ではありません。『JUNK HEAD』に出てきそうな、のっぺらぼうで言語不明瞭な言葉を話す「羊人間」とも呼ぶに相応しい怪生物です。なんでこんな奴らがババアの助手をやってるのかの説明はありません。こいつらはハナちゃんが夢を見ている間に、意味ありげに本の文字を解読し、意味ありげにビー球をコロコロ転がします。この演出意図もイマイチ不明ですが、夢の本質は仮想空間、ヴァーチャルリアリティに通じるものがあるので、たぶんそうしたSF的な(あえて言うなら『インセプション』的な)ギミックを日本風に解釈した結果がアレなんでしょう。なんの説明もないからよくわかりませんが。どうでもいいモブキャラのどうでもいい心情はベラベラ説明するくせに、なんでこういうプロップのディテールについては説明しないんでしょうか。純粋に不思議です。
夢の中にダイブしたハナちゃん。気が付けば、ユキちゃんと一緒に祠の外に出たところでした。占いババアに「祠に手紙を届けておくれ」とお使いを頼まれたハナちゃんは、ユキちゃんを連れて旅をします。途中で「シロ」という、なんだか春日部の一軒家で暮らしてそうな犬を彷彿とさせる名前の大男が罠にかかっていたところを助けます。コイツはギリースーツみたいなもじゃもじゃの服を着ていて、言葉が喋れず「あー」「うー」ばかり言ってます。ちなみに、なんで「シロ」がそんな風になってしまったか、これまた懇切丁寧にユキちゃんが台詞で説明してくれます。
森の中へ帰っていくシロをぼけっと見送って、二人は旅を続けます。祠の場所はすでにユキちゃんが知っているので、ハナちゃんはただユキちゃんの後をつけていけばいいだけというイージーモード。まぁひとつ言うと、これには理由があるんですが、それは脇に置いときましょう。ちなみにユキちゃんは祠に行って「願い事」をかなえたいらしいです。分かりやすい伏線なので皆さん覚えておきましょう。
旅をしていたら、当然腹が減ります。ですが、ユキちゃんは過酷な戦国時代を生き抜いてきたので、食べ物をえり好みしている場合ではありません。空き家に入って蛆虫の湧いた米を美味そうに食います。「お前も食べるか?」とハナちゃんに蛆虫米を差し出しますが、ハナちゃん、猛烈に嫌そうな顔を浮かべて口にしません。現代人だからね。しょうがない。そうこうしていたら、ババアを殺した侍集団に追いつかれて捕まりました。
侍集団の拠点に連れていかれたハナちゃんとユキちゃんの二人は、占いババアを惨殺した棟梁と面会します。北村一輝です。相変わらずかっちょいいです。北村一輝は自らを「無限の民」と名乗ります。
「無限の民の○○」ではなく「無限の民」とはっきり口に出してます。ということはこいつと似たような奴が他にもいるのかと思うかもしれませんが、「無限の民」を名乗るのは劇中でこいつだけなので、なんだかおかしな物言いですね。
さて、無限の民は「KIRIYA PICTURES」のキャラクターらしくごちゃごちゃ小難しいことを話しはじめますが、反駁するユキちゃんに向かって「ババアを殺して繋がりを断ってやったんだ、お前を自由にしてやったんだ」と吐き捨てます。人々の「繋がり」を忌み嫌っているようで、まるで『NARUTO』の闇落ちしたサスケですね。そして最後に無限はこう口にします。
「この世はしょせん、地獄なのだ……」
うん、それが言いたかっただけみたいですね。しょーもない。この世が地獄なんて、そんなの私を含めて全国民が知ってることです。
言いたいことを言ってスッキリしたのか、無限はハナちゃんたちをぶっ殺しにかかります。と、そこに一人の毛むくじゃらの大男が乱入してきました。そうです、シロです。逆方向に帰ってったはずなのに、言葉も話せない大男が、なんでハナちゃんたちの居場所を知ってたんでしょうか。匂いを辿ってきたんでしょうか。ますます犬ですね。ここは春日部か? いや、そんなことはどうでもいいんです。とにかくシロは腕っぷしだけは強いので、侍たちをバーリトゥードで倒していきます。ハナちゃん、ユキちゃん、シロの三人は無限の下から無事に逃れて、旅を続けます。ちなみにこの一連のシークエンスでハナちゃんが具体的に起こしたアクションは「シロがかかった罠をユキちゃんと一緒に力づくで解除した」という、これだけです。ヌルいなぁ。
一方の現実世界では、ハナちゃんに接触を試みる人物がいました。時の政権の中枢に居座る男、内閣官房長官です。名前? だから言ってるでしょ、内閣官房長官ですよ。演じるのは特命係長です。この映画に登場する政治家は、この内閣官房長官ただひとりです。官房長官はハナちゃんとの接触を試みますが、江崎によってうまいこと躱されます。
官房長官featuring特命係長は、総理大臣が江崎たちの助言に従って「占い」を軸に政策決定をしていることが不満で不満で仕方ないようです。「たかが17歳のガキに夢占いさせて、それで国の行く末を決めるなんてバカげている」と、至極真っ当なことを口にしますが、「政治家」という種族は「KIRIYA PICTURES」においては問答無用で「悪人」のレッテルを貼られているため、江崎たちの言い分の方が正しいという演出をしています。「あなたがた政治家のほうこそ、もうずいぶん前から不要なのでは?」と、なかなか過激なことを江崎は官房長官に言ってのけます。ちなみに江崎がハナちゃんに話したところでは、官房長官は出世欲だけは強いどうしようもない政治家で、国の行く末なんて何も考えていないダメ政治家とのことです。もちろん、これは台詞でご丁寧に説明されます。
なお、現実世界において、ハナちゃんは世界の終末を防ぐという大事な大事なお仕事(の割には、ただ寝てるだけにしか見えませんが)を抱えているため、学校生活でも常にボディーガードがついて回ってます。そんな状況を快く思わないいじめっ子のヤンキー女は、ハナちゃんが女子トイレの個室に入ったところを、カッターナイフ突きつけて脅しにかかります。「お前調子乗ってんのか?」的なことを言いながら、メチャクチャイライラしているのが伝わってきます。さらにこんな脅し文句を言ってきます。「あの動画、バラしちゃってもいいんだよ~?」ふむふむ、どうやらこのヤンキー女は、まだ観客に開示されていないハナちゃんの「重大な秘密」を知っているようですね。
すわ、ハナちゃんの秘密に関わる動画が拡散されておしまいか……と思いきや、そこに江崎の同僚で女ボディーガードの佐伯さんが乗り込んできて、ヤンキー女を締めにかかります。ここまでいてもいなくても同じだった佐伯さんの、ようやくの見せ場です。
佐伯さんは実弾入りの拳銃をヤンキー女の額に突きつけて、およそプロの人間とは思えない興奮しきった口調で「カッターナイフで脅すって、それ立派な犯罪なんだけど。てか、ここであんたを撃ち殺すことだって、あたしなら簡単にできちゃうんだからね」的なことを口走ります。実際の台詞量はもっと多いですが、なんか佐伯さん、イキり散らかしてるみたいで全体的に小物臭いです。こういうシーンでは淡々とした口調で相手を説き伏せた方がプロっぽさが出て様になると思うんですが、「KIRIYA PICTURES」は「淡々とした演技」と無縁の極致に存在しています。すべての出演者が常に眼前の出来事に対して全力でリアクションを取るという方向性のお芝居を取らせているので、なんか声が上ずってるし目はいっちゃってるしで、佐伯さんが狂人みたいに見えてきました。
佐伯さんの脅しを受けて、ヒイヒイ言いながらヤンキー娘は逃げていきます。「ごめんね。少し目を離した隙に」とかなんとか言って佐伯さんはハナちゃんに謝ってます。ボディーガードのくせに目を離してんじゃねぇよクソババア、お前本当にプロなのか?と疑いたくなります。なお、この直後、またハナちゃんは気絶してしまいます。気絶が都合よく起こるのがこの映画の特徴です。
そして夢の世界が始まります。夢の世界では、ハナちゃんがユキちゃんとシロに、キット○ットを食べさせてあげてました。なんで夢の世界にキット○ットがあるかというと、現実世界のハナちゃんの制服のポケットの中に入っていたからです。ここから推察するに、おそらく夢の世界というのは現実世界と(次元の歪みなのかなんなのか一切説明がないので知りませんが)ある程度は繋がっているようで、現実世界の持ち物を夢の世界に持ってこれる特性があるようです。
あの、だったらレンチでも鉄パイプでもなんでもいいから、武器になりそうなものをポケットに入れてから眠ればいいんじゃないですかね? だって侍に狙われているわけだし、護身用の武器を持たせたほうがいいんじゃないかと思うんですが、あの占いババア、そういうところは何も説明しません。全部シロが腕っぷしで侍たちをやっつけてくれるから、ハナちゃんは手ぶらでいいんでしょうか。なんだそれ。
キット○ットを食ったユキちゃんは「うんまいなぁ~~~!」とごま蜜団子を食べた定助の如く喜んでいます。シロも「うほうほ」言って喜んでます。ろくに甘味なんぞ口にしたこと無さそうな貧乏少女に饅頭とかどら焼きとかの和菓子を食わせるならわかるんですが「キット○ット」なんていう現代人の味覚に合わせたお菓子を食わせて、それで本当に美味いと感じるものでしょうか。油分が濃すぎてお口に合わなさそうですよね。この映画に限った話ではありませんが、個人的にこういう演出大っ嫌いなんですよね。時代劇のタイムスリップものによくあるんですが、現代人の文化や嗜好を昔の時代に持ち込んで、昔の時代の価値観や嗜好を現代流に染め上げるという……これって文化的な暴力だと思うんですが、どうでしょう。
さて、目が覚めたハナちゃんは保健室に寝かされていました。足の不自由な幼馴染男子が心配して「大丈夫か? 最近お前変だぞ?」と声をかけてきます。こいつはマジでいい奴ですが、しかし事情が事情なのでハナちゃんは困り顔を浮かべるしかありません。そこで佐伯さんが迎えに来て、ハナちゃんは佐伯さんの車で帰路につきます。
車中で佐伯さんは「あたしも、昔いじめられていたんだ……」と、いきなり自分の過去をベラベラしゃべり出します。佐伯さんも学生の頃ずっといじめを受けていたらしいんですが、ある時「プッツン」きたらしく、いじめっ子の足をナイフでグサリと刺しちゃったようです。が、本人はたいして反省していない模様。それどころか「なんでもっと早くああしなかったんだろう……ねぇハナちゃん、あなた、世界を救ったら一人で生きていかなきゃいけなくなるんだから、これからは自分の身は自分で守るのよ」的なことを言います。
とんでもない台詞ですね、これ。社会に出る前の十七歳の女子高生に向かって、軽々と口にしていい台詞だとは思えませんが。なんですか、暴力全肯定というわけですか。悪人を倒すための暴力は無条件で許されると。
あのねぇ、それは映画の中だけの話でしょう。映画やフィクションだけに許された話でしょう。たしかに「映画」は作り物ですから、そこでいかなる暴力行為が行われても、問題はないと私は考えますよ。しかしながら「映画の中の“現実”に住む大人が、映画の中の“現実”に住む子供に対して口にする台詞」として、どうなんでしょう。しかも佐伯さんが言ってるのはつまるところ「正義が振るう暴力は許されて、悪人の暴力は許されない」という、権力志向の高い奴が口にする台詞です。「撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるやつだけだ」って、誰の台詞でしたっけね。
そんなこんなで佐伯さんは「世界の終わりを止めたら、一緒に遊園地に行こうよ」とハナちゃんを百合デートに誘います。解りやすいくらいの死亡フラグですね。柱の男たちに殺される直前のマルクを思い出します。この台詞を吐いた直後に、車は急停止。道を塞ぐようにして柱の男……じゃなかった。真っ黒なフーディーを被ったひとりの男が立っているのを佐伯さんが確認。身の危険を感じた佐伯さんは、直ちにハナちゃんをその場から逃がして拳銃で応戦します。ようやくボディーガードの本領発揮ですが、アクションの撮り方が相変わらずへたっぴぃなので、緊迫感や高揚感はゼロです。
男は『ヒョンヒョロ』なのか、佐伯さんの銃がまったく効かない模様。そんなこんなで男はサクッと佐伯さんを殺して、フードを上げて素顔を見せます。
その顔は、夢の世界で出会った北村一輝その人でした。頭パニックになったハナちゃんは泣きじゃくりながら困惑顔を浮かべるしかありません。
どうも佐伯さんの死は本に書かれた「運命」ってやつで決まっていたようで、それを占いババアや江崎は事前に知ってたようです。ただ、知っていてもそう簡単には変えられないのが「運命」ってやつなのです。血で汚れた姿のまま自宅に逃げ帰ったハナちゃんはその事実を江崎から電話口で聞かされて「そんなのってないよ!アタシどうしたらいいの!?」と泣いて電話を切ると、おもむろにヘッドセットを被り、タイムカプセルに入ってたカセットテープをラジカセにセットして再生し出します。カセットテープに吹き込まれた音声の内容については後々判明するんですが、この時はハナちゃんがカセットテープを聞いてる様子だけをカメラは写しているので、観客は「佐伯さんの死の真相を聞かされたハナちゃん」→「ぼろぼろ涙を流す」→「ハナちゃんは運命の残酷さを思い知る」→「ハナちゃん、突然カセットテープを再生し出す」という、シュールな流れを見せつけられることになります。こういう雑な編集が多いためにシーンとシーンの間に有機的な流れが生じず、結果として「難しくてよくわからん」な感想を持つ人が一定数いるんじゃないかと思います。
占いババアの話によると、佐伯さんを殺した男はやっぱ「無限」でした。奴は過去・現在・未来のあらゆる時間軸を行き来できる能力者のようです……えっと、少し前のシーンで、北村一輝は自らを「無限の民」と名乗ってましたが、ババアは「無限」と言っていて、個人名なのか一族名なのかもうはっきりしません。つーかですね、このシーンに限らず、全体を通して占いババアの説明が「フワッ」としていて脈絡がないので、なにがなんだか分からないのです。まぁ、ババアだから仕方ないのかもしれませんが、もっと相手に伝える努力をしてくれよと思います。なんだか私の勤め先の上司を思い出しましたよ。
そして、またハナちゃんは夢の世界へ。いよいよ祠が近づいてきました。
旅の途中で、ハナちゃんたちは「ナギ」という名前の盲目の男の子に出会います。ナギは水面を歩けるキリストじみた能力を持っています。その能力が後々のピンチを突破する鍵になるかというと、そんなことは一切ございません。ちなみに映画を最後まで観ても、こいつのいる意味がいまいちわかりません。ナギはハナちゃんたちがやってくることをどうも予め知っていたようで、「祠に案内しましょう」と、親切にも道案内を買って出ます。ただでさえイージーモードな旅が、ますますイージーになっていきます。
ナギの後に続いて草原を歩いていると、ここでいきなり場面は変わり、今度は草木が一本もないどこかの惑星の荒野を『インターステラー』そのまんまな衣装の冨永愛が探索している映像が挿入されてきます。冨永愛、久しぶりに見ましたね。しばらく見ないうちにちょっと痩せたように感じましたが、相変わらずスタイルはイイです。
で、こっから先はもうジャンプカットの連続です。①冨永愛、②夢の世界のハナちゃん、③現実世界の占いババアと眠るハナちゃん、④ビー玉を転がしまくる怪生物、⑤ハナちゃんがアパートの廊下を歩いている映像……これらが洪水のようにジャンプカットで流されていきながら、ナギの「本当に祠へ行きたいんですか?」「あなたは誰なんですか?」といった、もう思わせぶりでしかない台詞がくどくどくどくど流れていきます。
ジャンプカットの多用は「KIRIYA PICTURES」の特徴のひとつですね。しかし言わせていただくなら『CASSHERN』の頃はジャンプカットではなくマッチカットが多用されていた気がするので、画面に一応の連続性はあって、まぁクドイですが見るに堪えないなんてことはなかったんですが、今回は違います。ジャンプカットに対してそこまで抵抗感のない自分でも、こうも演出意図不明な流れで多用されると吐き気がしてきます。ちなみに私はこのシーンで「この映画、いよいよ本気に壊れてきたな」と覚悟しました。言い過ぎですか? しかしこちらは片道一時間以上かけて本作を観に行って、しかもちゃんと木戸銭払ってんですから、これぐらい言わせてくださいよ。
で、なんやかんやとあって最終的に無事に祠にたどり着いたハナちゃん一行。いつの間にか案内人のナギの姿はありません。ちなみにここまでの上映時間、体感で1時間ちょっとだったので、恐らくここが脚本上ではミッドポイントになっているんでしょう。
さて、ハナちゃんは手紙を祠の管理人のジジイに手渡します。祠には何か御神体が祀られていたようで、そのご神体が開帳されます。するとハナちゃんは衝撃を受けて、こんなモノローグを流します。
「祠にあったのは……私の“心”……」
うん、そうですか。もう意味不明です。
あと、このタイミングでハナちゃんの「知られざる秘密」って奴が観客に明示されます。なんとハナちゃん、生活苦のためにパパ活をやっていたらしいです。脂ぎったデブハゲオヤジに抱かれてしまったようです。
しかし自発的にやったのではなく、いじめっ子のヤンキー女に脅されて、泣く泣く一度だけやったとのこと。で、ヤンキー女はこのパパ活中の動画を影で撮影していたようで、それが強請りの原因になっていたようです。うーん、これは素直にハナちゃんが可哀そうですね。
無事に祠に手紙を届けたハナちゃんたち。なんかハナちゃん、やりきった感出してますが、この夢の世界の旅で彼女がやったことと言えば「シロの罠を解除してあげた」ことだけなので、なんか私にはしっくりきません。
目的を終えて「これからどうするの?」とハナちゃんがユキちゃんに尋ねると、ユキちゃんが至極当然のように返事を寄こします。
「そんなの、やることは一つに決まってるじゃん」
ユキちゃんがその足で向かった先は無限の拠点でした。慌てて止めようとするハナちゃんでしたが、まるで『ゴースト・オブ・ツシマ』のモンゴル兵ばりに、ぞろぞろとゲーム感覚で湧いてくる侍たち。当然、ユキちゃんに襲い掛かりますが、なんとユキちゃんがサッと人差し指を振るうと、侍たちの頭が『スキャナーズ』レベルとは言わなくとも、バンバン破裂して死んでいきます。
「アハハ!死んじゃえ!死んじゃえ!」と、まるで能力に目覚めた島鉄雄ばりの超パワーで侍たちを手も触れずに殺していくユキちゃん。これこそが、ユキちゃんが祠の力で叶えた「願い事」の正体だったのです。ハナちゃんはまたまた怖くなって泣いちゃって、夢の世界から目覚めます。
事態を知った占いババアはハナちゃんに「ユキを殺せ」といきなり命令してきます。ユキを殺さないと世界は終わってしまうようです。でも優しいハナちゃんはユキちゃんを殺すことなんて出来ないと、命令を拒否して飛び出していってしまいます。
その足で花屋に赴くと、花を一束購入し、どこかのトンネルに徒歩で向かい、花を路肩に捧げます。後で分かるのですが、ハナちゃんの両親は昔ここで交通事故に遭って亡くなってしまったようです。なので、慰霊の意味がここには込められているのですが、なんでハナちゃんがこのタイミングでそんな行動を取ったのか、演出の意図がやっぱり伝わってこないので、本当にわかりません。まさか侍たちの死と両親の交通事故を「運命の犠牲者」と一括りにしたがゆえの行動でしょうか。そんなバカな話はないと思うのですが、これは「映画」ではなく「KIRIYA PICTURES」なので、その可能性も無きにしも非ず。ホントーに編集が雑すぎます。
そんなこんなしていたら、ハナちゃんの顔写真と住所がSNSで拡散され、写真週刊誌やメディアがこぞって取り上げてました。彼女が占いで国政を左右している存在だという情報もバッチリ流れています。テレビのコメンテーターたちが、なんだか素人臭い安っぽさ満載の演技で「占いで国政の行方を決めるなんて、馬鹿げてますよねー」「でも、このハナって子、なかなか可愛くて私タイプですよー」「こらこらw」と、現実のコメンテーターだってそんなことは言わないであろう脳内ハッピーセットな感想を吐き出してます。
このコメンテーターたちの描写には、明確な悪意が込められていますが、「KIRIYA PICTURES」では「コメンテーター」や「批評家」などの「自分の手では何も生み出せないくせに、いっちょ前に他人の作品を批評する人」は問答無用で「悪人」のレッテルを貼られるので、「KIRIYA PICTURES」的に筋は通ってます……保身に走るわけではないですが、私はこのサイトで自作をネットにアップして、某巨大掲示板や配信者の手で批評を受けた経験も何度かあるので、「KIRIYA PICTURES」が言うところの「悪人」には当てはまってないと思います。なんで、この感想文もセーフなはず。
ちなみに、ハナちゃんの個人情報は流出しているのに、彼女と同じ夢占いをする力を持つババアの情報だけは流出していません。あのババア、ちゃっかりしてますね。
しかしSNSに晒されてしまうとは、組織の情報管理はどうなってんでしょうか。江崎の話によると、どうも官房長官featuring特命係長が、総理を引きずり下ろす工作の一環として、ハナちゃんの個人情報を意図的に流出したらしいです……本当に情報管理どうなってんでしょうか。
あまりの急展開に途方に暮れるハナちゃん。やっぱりいつもの困惑顔で夜の通りを歩いていると、ケツから脳ミソ垂れ流してるようなテンションのウェーイな陽キャ軍団に見つかって写真を撮られまくります。騒ぎを聞きつけて、通りすがりのサラリーマンやOLたちも混じって、みんなでハナちゃんを取り囲んでやいのやいの騒いでいますが、ついにここにきてハナちゃんの怒りが爆発します。
「私にはあなたたちの願いを叶えてあげる力なんてないんです! 放っておいてください!」と、なんだか少しピントの外れた反論をするハナちゃん。すると、さっきまでウェイウェイ言ってた「大衆」は手のひらを返して「うるせぇ! この詐欺師!」など、次々に罵声をハナちゃんに向かって浴びせまくります。この映画に登場する大衆は『サイレント・トーキョー』で渋谷に群がる若者たち以上のアホなのかもしれません。
ハナちゃんが大変な目に遭ってるというのに、まったく、ボディーガードは何してんだよ……と思っていると、江崎さんが割って入ってきます。群衆に殴られながらも、どうにかハナちゃんを連れて逃げ出すことに成功しました。
顔面に傷を受けた江崎ですが、ハナちゃんはバッグから「OR●IS Mr」の男性用化粧品を取り出し、傷を隠してあげます。なぜ「OR●IS Mr」の男性用化粧品がここで出てくるのかというと、それはもちろん、「OR●IS Mr」が本作のスポンサーだからです。なんだか大人の事情が垣間見れて涙が出てきます。余談ですが、「OR●IS Mr」のCMって、あれってなんだか不気味に感じません?どういう意図で作ったCMなのか、一度関係者に聞いてみたいです。
いろんなことがあって、もう疲れちゃったハナちゃん。夜の東京の街並みを眺めながら「この世界って、本当に救うだけの価値があるんでしょうか……」と、思わず弱音&本音を吐いてしまいます。と、ここで江崎が神妙な顔で言いました。「僕はずっと君に嘘をついていた。“江崎”というのは、本名じゃないんだ。家族がいるって言ったけど、それも嘘なんだ。すべては組織に所属するためにでっち上げた、偽物の自分なんだ」と口にします。
まぁ、政府の非公式組織に所属しているわけですから、そういうこともあるでしょうね。と私は納得したんですが、ここでハナちゃんまたまた泣きそうな顔で「なんでいまさらそんなことを言うんですか?」「なんでそんな勝手なことを言うんですか」「私のことを騙していたんですか?」「世界がもうあと少しで終わるなら、黙っていればいいじゃないですか」などと、被害者根性丸出しの方向音痴な罵倒を始めます。現実の17歳ってこんなバカじゃないと思うけどね。さっきまで江崎と穏やかに過ごしていたというのに、この気持ちのブレ具合。なんなんでしょう。もう振り回されっぱなしで疲れてきましたよこっちは。
と、ここで急に黒フード姿の北村一輝が現れて江崎を倒します。そしてハナちゃんもどこかに連れ去られます。目が覚めると、そこは両親が交通事故に遭ったトンネルの中でした。車は一台も通っていません。ハナちゃんはパイプ椅子に縛られていて動けません。一体だれがこんなことをしたのか……北村一輝かと思いきや、違います。身動きの取れないハナちゃんの目の前に現れたのは、官房長官featuring特命係長でした。
どうも官房長官featuring特命係長はハナちゃんを尋問するために、ホテルのラウンジを借りたとかではなく、現役の幹線道路に通じるトンネルを封鎖してそこにハナちゃんを連れてくるという「無駄にレベルの高い無駄な権力行使による無駄な行動」をとったようです。「君のために道路を封鎖してやった。これが国家権力って奴だぁあああああッハハハハハッ!」と叫んでますが、頭イカれてんでしょうか。こんなキャラクターのどこにリアリティを感じればいいんでしょう?
官房長官featuring特命係長はハナちゃんから組織の情報を聞き出したいらしいです。彼女を精神的に追い詰めるためにワザと個人情報を流出したんでしょうか。語られないので知りませんが。ちなみに彼の狙いは組織を壊滅させて総理を失脚させ、自分が総理大臣になることで「戦後日本の失われた40年間」を自分の手で取り戻すことが目的のようです。ずいぶんと時代錯誤なマッチョイズムだな。
ついでにコイツは世界があとわずかな時間で滅ぶ危険性があるとハナちゃんから聞いても、一切信じていないようです。ん?でもコイツ、北村一輝とつるんでるんですよね? 彼からは何も聞かされていないんでしょうか。あー、あれですかね。『アークザラッド2』で言うところのロマリア王と暗黒の支配者の関係に近いんでしょうか。つまり、ただ利用されているだけなのかな? なんだか官房長官の割にどんどん小物臭くなってきますね。
しかし、彼の小物臭さは留まるところを知りません。ハナちゃんに「あなたは自分のことしか考えられないの!?」と言われると「うるせぇぞこのクソガキがァ!」と暴言を吐きながら、ハナちゃんを殴りつけます。挙句の果てには「1000万やるから情報を吐け」と下衆な交換条件を突きつけながら、ハナちゃんが路肩に捧げた花束に向かって立ちションする有様です。ちなみに微妙に的を外していて横から見ると全然花束にションベンかかってません。
しかしながら、あのー……この人、官房長官なんですよね? ヤクザの若頭じゃないですよね? 政治家ですよね? 言動が何もかもヤクザそのまんまなのはどういうことでしょうか。「KIRIYA PICTURES」では「政治家=ヤクザ」という、いったい何を食ったらそんな思想になるのか皆目見当もつかない定義をしているようですね。ま、悪役だから役職にはこだわらず徹底的に「悪」として描けばそれでいいんですかね。良いわけあるかい!
ハナちゃんは頑として要求を呑みません。いままでメソメソ泣いてばかりいた彼女ですが、少し成長したんでしょうか(具体的な障害パートがひとつもないのでよくわかりませんが、まぁ成長したということにしときましょう)。
すると官房長官featuring特命係長も、ここに来て業を煮やしたのか、とんでもないことを口にします。「テメェの足の悪い幼馴染がいたよなぁ?俺の力で、あいつとあいつの家族を滅茶苦茶にぶっ壊してやろうか? あー?」的な台詞を口にします。やっぱりヤクザですねコイツ。出る映画間違えてんじゃないでしょうか。
これにはさすがのハナちゃんもブチ切れて「やめて!」と泣きそうな顔&タメ口で怒鳴りつけます。そんな反抗的態度を取ったらまた殴られるよ! 下手したら死ぬぞ! と心配していると……死んだのはヤクザ……もとい官房長官featuring特命係長でした。ハナちゃんが怒声を浴びせた瞬間、頭が吹っ飛んで血まみれです。
なんだ? アパッチの雄叫びか?
違います。ユキちゃんと同じ力がハナちゃんにも発現したのです。なぜ?という理由はちゃんと説明されますが、物語の「核」になる部分なのでここでは伏せます。まーでも、あんま大した理由じゃないです。恐らくこの映画について肯定的な人は、ここに関連付けて本作を『すずめの戸締り』と並列に語る傾向があると思うんですが、似ているようで全然違うので笑えてきます。
官房長官featuring特命係長を意図せずぶっ殺した事実を吞み込めないハナちゃんは「これは夢……これは夢……」と、自らに言い聞かせます。
その時、背後に立つ北村一輝の姿が。「これが夢だなんて、そんなものはお前の思い込みなんじゃないのか?」と、まるで初期押井作品に出てきそうなセリフをかまします。
北村一輝はハナちゃんを幹線道路から解放すると、学校へ向かう彼女の後ろをついて回ります。出で立ちといいハナちゃんとの距離感といい、まるでハナちゃんのスタンドです。ハナちゃんはスタンド使いとして覚醒したんでしょうか……ん? そーいえば、たしか序盤のシーンで侍に弓を射られていたな……
「なにが現実でなにが夢かなんて、そんなものに拘る必要は無い。夢と現実に明確な境界があるのか?もしかしたら、全ては幻かもしれないし、あるいはそうでないかもしれない……」的な台詞を吐き続ける北村一輝。どうやら監督は現実と夢(仮想空間)の関係性を、自我の問題と絡めたいようです。自我って……ねぇ、自我って……いまさらそんな話かよと。陳腐すぎますなこりゃ。いまの押井守は既に自我の問題から身体論の話に移ってるし、自我と現実の関係なんて、んなもの『MGS2』ですでに決着がついているし、いまさらそんな古臭いテーマ持ち出されてもこっちは「ふーん」としか思わないんですよね。
「スタンド:北村一輝(近接パワー型)」を引き連れて学校に到着したハナちゃん。すると衝撃の事態に打ちのめされます。どうやらいじめっ子たちの手でパパ活の動画が学校中に流されてしまったみたいです。ハナちゃん、ついにここにきてスタンド・パワーを全開! ユキちゃんと同じ力でいじめっ子のヤンキー女とその取り巻きを頭パッカーンしてぶっ殺します。
ちなみに、私が唯一高揚感を覚えたのが、このいじめっ子殺害シーンだったりします。別にヤンキー女が殺されてハッピー!になったわけではなく、このシーンが全編を通じて唯一と言っていいくらい「ハナちゃんが自らの“殻”を破ったシーン」だからです。これはすべての劇映画に言えることだと思うのですが、キャラクターが従来の価値観を変化させて“殻”を破るシーンは、モラリズムの良し悪しに関係なく興奮してしまうのです。
殻を破ったハナちゃん、しかしまた殻に籠ります。屋上で自殺しようとしたところを足の悪い幼馴染に助けられます。ハナちゃんは思わず叫んじゃいます。ここは映画の本予告にも使われている、言うなれば「見せ場」のシーンです。
ハナちゃんは泣きながら幼馴染に八つ当たり気味に叫びます。「あたしが何かした!?なんでこんな苦しいことばっかりなの!?世界を救おうと頑張っているのになんでみんなアタシの邪魔をするの!?もうこんな世界終わっちゃえばいい!!」とかなんとか言って幼馴染大困惑です。幼馴染はハナちゃんの夢占いの件まったく知らないので「?」が浮かぶのも当然です。しかし「?」が浮かんでいるのは観客も同じです。だってここまでの一連の流れでハナちゃん、世界の破滅を止めるために、具体的に何をしたんでしょう。夢の世界では手紙を届けるお使いを頼まれて、自力で届けるのではなくユキちゃんやナギに道案内されるがままについていき、侍たちを相手取ったのはシロです。
現実の世界ではどうでしょう。政府に身柄を保護されてからは、いじめっ子に立ち向かうこともなく、北村一輝に立ち向かうこともなく、佐伯さんや江崎に助けられてばかりです。彼女がやったことと言えば「夢を見る」「シロがかかった罠を解除してあげる」たったこれだけです。たったこれだけのことしかしていないのに「世界を救おうと頑張っているのに!」とかなんとか言われても「頑張ってねーじゃん」としか思えません。なので全く心に響いてきません。主人公が「動機」を獲得し、障害を乗り越えるために行動を開始し、その途中で様々な困難にぶち当たっていきながらも、機転を利かせて事態を突破していく……そういう王道な展開に組み直した方がナンボかマシです。紀里谷監督は「そんなの普通じゃん。面白くないじゃん。そうやってすぐ“型”にはめた物語を求めるところが業界の悪いところ~云々」言うかもしれませんが、この人は「物語」と「構造」を別々に考えるのではなく一緒くたに考えているっぽいので、いくら言っても無駄なのかもしれません。
で、まーなんやかんやあって世界はますます終わっていきます。アフリカではエボラ出血熱のパンデミックが発生し、世界のあちこちでは地球温暖化がどんどん進行していきます。ちなみに地球温暖化が進む理由について「パリ条約と京都議定書が破棄されたから」と劇中では説明されています。「KIRIYA PICTURES」では気候変動に関わる条約を破棄さえしてしまえば、先進国をはじめとした各国は地球環境や温室効果ガス排出問題について無関心になるみたいです。もう頭が痛くなってきましたが、覚悟してください。どんどん映画は壊れていきます。
と、ここでハナちゃんの亡くなったご両親の正体が判明します。なんと占いババアの話では、ハナちゃんの母親の家系は「夢占い」の家系だったらしく、これまで何度も国の中枢で秘密裏に辣腕を振るっていたらしいです。ここにきて少年ジャンプ的展開。
というか、ハナちゃんめちゃくちゃエリートやないですか。そんな大事な血統に連なる人なら、ド貧乏生活に陥る前に政府がしっかり保護してやらないかんでしょうに、なんでそうしなかったんでしょう。もしかして、夢占いの能力を開花する条件に、ド貧乏生活が関係しているんでしょうか。吉良吉影が絶望の末にバイツァ・ダストを発現させたように、夢占いの能力を得るには世界に絶望する必要が……いや、そんなことないですね。うん、そんなことはない。穴だらけの脚本をフォローしようと頑張ったけど、私には無理でした。
ハナちゃんは占いババアから生前の両親がこの世に残したカセットテープを渡されます。とにかくカセットテープが重要な場面で使われまくるのが、この2030年の日本を舞台にしたお話の特徴です。
テープには生前の母親の声が録音されてました。お母さんの声を聴いて、ハナちゃんは泣きます。本当によく泣く子ですね。しかし、お母さんの声を久しぶりに耳にしてなんだか元気が出てきたみたいです。家を飛び出すと、たまたま江崎さんと遭遇します。北村一輝に襲撃されたのに、無事だったんですね。まぁ生きててもあんまり嬉しくはないです。
ハナちゃんは、決心した表情で江崎さんに伝えます。
「ユキちゃんを私が止めます」
よーやく、よーやく主人公が主人公らしい行動を取ってくれるようです。もう体感では2時間近く経過してますがね。ちなみに本作の上映時間は2時間20分です。
ですが、このタイミングで、ネットに出回ったハナちゃんの情報から芋づる式に組織の拠点の具体的な住所がネットに流出してしまいます。逃げる途中、ハナちゃんは自宅のアパートにわらわらと興味本位で群がる大衆の姿を目撃します。まるで野獣先輩の家に群がる2ch民そのものです。
というか、こんな簡単に組織の拠点情報が外部に漏れるなんて、本当に、マジで、情報管理どうなってんだよおい! 政府に属する組織だろ? そんなんでいいのか? ええそうです「KIRIYA PICTURES」的には良いんです! USBすらまともに使えない人がネット担当大臣になるくらいですから「だったらこの国の情報システムなんてズタボロに決まってる」というのが「KIRIYA PICTURES」の論理なのです。物凄い単純な脳味噌で思考しているんだなとあきれ果てますが、それ以上に単純な存在として描かれているのは劇中における「大衆」たちでしょう。彼らは組織の住所がネットに出回ると「占いの力で政治を牛耳る傾国の組織を許すな!」と至極真っ当な論理の下、まるで安保闘争に向かうセクトのような服装で金属バットやら何やらを手に立ち上がります。2030年の時代でも、暴徒の出で立ちは70年前から変わらんようです。
暴徒たちは拠点に向かうハナちゃんや江崎たちを待ち伏せして、彼らに襲い掛かります。しかしながら、襲われるシーンが「寂れた商店街」というワンシーンしか存在しないので、なんか緊迫感に欠けます。暴徒化する国民の数も多くないし、これではまるで「大衆」ではなく「町内会」が暴徒化したようにしか見えません。予算の問題なんでしょうが、他に選択肢なかったんでしょうか。
江崎さんは「世界を救ったら、僕の本名を教える」という、なんだかそれっぽい(とにかくこの映画は物語の進展に貢献しない“それっぽい”台詞がめちゃくちゃあるのです)台詞を口にしてハナちゃんを逃がすと、拳銃を引き抜いて躊躇なく暴徒たちを銃殺していきます。政府の人間が一般市民を問答無用で銃殺するという衝撃のシーンです。しかし「KIRIYA PICTURES」においては「主人公たちの“高潔な精神”を理解しない目の曇った利己的な人間は問答無用で悪」なので、「KIRIYA PICTURES」的に筋は通ってます。
さて、暴徒たちの勢いはますます増していき、拠点に流れ込み、今度はハナちゃんを逃がすために占いババアがその身を犠牲にします。暴徒たちに殺される直前にババアは「結局世界を滅ぼすのは、人間の愚かさか……」と、分かり切ったメッセージを分かりやすく悟ったような表情で口にします。もう黙っていてください。
というわけで、クライマックスへ続きます。
果たしてハナちゃんは夢の世界でユキちゃんの暴走を止めることが出来るのか?
この世界は終わってしまうのか?
結末はあなた自身の目でお確かめください。
私の調べたところでは都内での上映はすでに終了しているようですが(追記:これは間違い!すみませんでした。まだ吉祥寺で上映中のようです)、地方ではまだちらほらとやってるようです。神奈川の厚木では6/1まで上映中らしい。ちなみに、監督は本作を配信サービスで流すことは全く考えてないらしいので、もしかするとDVD化する可能性もないかもしれません(2025.7.17追記。フッツーにDVDどころか配信でやってるじゃねーか! キタネーぞ! 男に二言無しだろ!)。気になる方は劇場へ。
◆◆レビュー◆◆
『GOEMON』のとあるシーンを見たとき、私は次のように感じた。紀里谷監督という人は、生真面目過ぎる人だと。きっとこの人は、遠い遠い異国の土地で災害や戦争が起こり、見知らぬ誰かが亡くなったという報道を耳にしたら、きっと我が事のように哀しみ、誰かが亡くなったことの要因を理屈を捻じ曲げてでも己に求め、謂れのない罪を己に課せられた罰として進んで受け入れる人なんだろうと。
それって要するに「苦しむ」ってことだ。著しく高い共感能力で、常に世の中を憂いている。どうして世界から争いは無くならないのか、どうして人間は環境を破壊してしまうんだろうか、どうして人は他人を思いやることができないのか、どうして貧しい人が明るく暮らせる世の中にならないのか。キャシャーンも、五右衛門も、そうした「答えの出ない迷い」について延々と悩み苦しみ続けてきた「共感能力の異常に高い」キャラクターたちであり、言ってしまえば「それだけの映画」だったと言える。
紀里谷監督本人はどう感じているか知らないが、予算のあるなしに関係なく、彼の作品のうち、(ラスト・ナイツは未見だから分からないが)少なくとも『CASSHERN』『GOEMON』は脚本が完全に破綻している。なぜ破綻しているかと言えば、主人公が事態を進展させていくのではなく事態が主人公を取り囲み続けているのに、まるでお話は主人公が事態を進展している「ように見える」演出があちこちに施されていて、それによるストーリー上の矛盾が発生しているからだ。彼らは、彼ら自身の行動が招いた悲劇に苦悩するのではなく、彼ら自身の行動の因果律から外れたところで苦しみ、悩み続ける。第七管区でキャシャーンが犯した罪を、その元凶である「軍部」という組織に求めるのではなくキャシャーン個人の原罪として回収し、霧隠れ才蔵の家族が光成の手で殺された事実を、五右衛門が自由を求めた代償であると非難する。主人公は最後の最後まで具体的な行動を起こすことなく、延々と外部の要因に自我を振り回され続ける。
だが、本作の主人公であるハナは、キャシャーンや五右衛門とは明らかに異なる。彼女は、この偏執狂な劇中において事態に囲われ続けてはいるが、『CASSHERN』『GOEMON』と異なり、ラストに至るまで「何も選択してはいない」からだ。世界はあと二週間で終わる。その悲劇的な結末を回避する使命を与えられたハナは、行動している「ように見える」だけで、実際のところは何も行動などしていない。「世界が終わる」という確定事項を前に、彼女は己の無力感を嘆き、真摯な声に耳を傾けない国や大衆に絶望し、そして「この世界はもう、救えない」と口にして、己の手で世界を救うことを諦め、だが最後の最後に望みを託す。ここではない、どこか別の世界の誰かに。それを「行動した」と好意的に捉えることは、私にはできなかった。
これって、まるきり『ストーンオーシャン』の焼き直しじゃないかと思う。というか『ストーンオーシャン』だ。私たちの運命が最初から超自然的なモノの存在で決定されているとするなら、運命に抗うことに、いったい何の意味があるのか。人類の行く末に「破滅」の二文字が待っていて、それが覆られないとするなら、私たちの「生きたい」という「欲望」に、どのような価値を見出せばいいのか。このハイデガー的に読んだニーチェの運命論と決定論に対して、荒木飛呂彦は「人間賛歌」に相応しい答えを見出した。彼は人間を「諦めなかった」のだ。対して紀里谷監督は「人間を諦めた」のだ。本作のラストで救われたのは「人類」ではなく「主人公」とその家族だけだからだ。この差はいったい何だろうか。性格の違い、すなわち「思考のクセ」の違いだ。結局は「世界をどう見ているか」の差に過ぎないのだ。そして、年齢や性別に関係なく「思考のクセ」は矯正可能なものであると、私は個人的な体験に基づいてそう考えている。すべての人間がそうであるとは思わないが、だが余地はあるのだ、きっと。
たしかに、この十年、いやそれよりはるか昔からずっと、この世界は地獄であるという認識は、私にもわかる。二度の大震災とそこで失われた命の数々。終わらない中東戦争。ますます根深くなる人種差別。新自由主義の暴走に伴う格差の拡大。止まらない少子高齢化に政治家たちの相次ぐ不祥事。新型コロナウイルスの猛威。宗教と政治の癒着、そこに端を発した元首相の暗殺事件。
こうして並べてみると、確かに生きるのが嫌になってくるだろう。けど、生きるのが嫌になるってどういうことだ? ちょっと考えてみる。
私たち人間は死を願うことが出来る生き物だから「生きる」という意志は「本能」ではなく、むしろ「欲望」と表現した方がいいかもしれない。この世の中に、自分が生まれた瞬間を覚えている人はいない。気づいたら自我が芽生えて、気づいたらこの世界を認識して、気づいたら生きる「欲望」を抱えていた。と同時に、人は死ぬことも、その無意識下において願っている。人は生きると同時に死に向かって突き進んでいる。もしかすると人生というものは、その二つの「欲望」の中間を取り続けることなのかもしれない。生きたいという欲望と死にたいという欲望、この二つがギリギリの「バランス」を取ることで、私たちの人生は、この現実に在り続けている。すると、生きることが嫌になるということは、そのバランスを片方へ崩すことを意味する。「死を願う」という気持ちが強くなるのだ。いや、現代人の感覚でいうなら「死を願う」というよりも「楽になりたい」という表現の方がしっくりくるだろう。働いても働いても給料が上がらなかったり、日々の嫌なことを前に戦う気力も失せて「もう楽になりたいよ」と心のどこかで思いたくなる。それが「生きるのが嫌になる」という感覚の正体だと仮定しよう。
この映画は、こういっちゃ失礼かもしれないが過去の紀里谷監督作品と比較すると、違和感を覚えるくらい高評価レビューが低評価をはるかに上回っている。そこには、これまで20年もの間叩かれ続けてきた紀里谷監督に対する「労い」も多少は込められているんだろう。あるいは「過剰さ」に熱狂する人間の習性を逆手に取ったような「主演女優の過剰な“泣き”の演技」に観客の多くがノックアウトされてしまったからかもしれない(個人的にこの女優さん、演技が「過剰」なだけで「上手さ」とは別の話だと考えている)。だが、この映画が軒並みSNSや各映画情報サイトで高評価されている、その最たる理由は、この映画を観て「自分も楽になりたい」と心の底から願っている観客が少なからず多いからなんじゃないだろうか。「先行きの不透明な未来」なんて言い回しがあるけど、そもそも未来なんてのは最初からそういうものだ。「先行きの不透明な未来」という言葉の裏には「未来は明るくなければならない」と無根拠に期待する生真面目な人らの存在が垣間見れる。きっとそういう人たちは、困難だらけの現実から明るい未来の景色を導き出すことができなくなって「未来が明るくならないのなら、もう全部滅んじゃえばいいんだ」「そしてもう、楽にしてくれよ」と、ある種の高揚感にもに似た想いをこの映画に対して抱くとしよう。それは幼稚さから来るものなどではない。そこには私たちが社会に生きる人間であるがゆえの切実さがある。
たしかに切実さがある。だが同時に、なんて「怠惰」で「傲慢」なんだろうとも思う。なんて自分勝手なんだろうと思う。私たちの生活を「構成」しているものが何であるのか、もう一度よく考えてみる必要があるんじゃないだろうか。私たちの生活は何で出来ている? 住む家、勤め先、学校、キッチンに置かれた調味料、大量の作品を流す配信サービス、複雑すぎて眩暈がするほどの法律の数々、好きな人、嫌いな人、この世の目には見えない理……つまるところが「自分の現実」と「誰かの現実」だ。まさかと思うが、現実がこの世界に「ただひとつだけの、絶対不変の真理として君臨している」なんて、そんな呑気なことを考えている人はいないだろう。人は、見たいものしか見ない。自分にとって都合の良い存在しか認めない。個々人が見ている現実は個々人によって違うのであり、私たちは、私たちが備える「現実」を他の誰かの「現実」と接合させ、擦り合わせて生きている(だからこそ争いが起きるのだし、そして、だからこそ協力が生まれる)。「世界なんか滅びてしまえばいい」という言葉は常に「だが、自分のこの現実だけはどこかで救われるんじゃないか」という根拠レスな期待とワンセットで語られる傾向にあると私は考えている。
この映画は『メランコリア』とは違って、世界が滅び去る時、そこで滅ぶのは自分をひっくるめた「全ての世界」ではない。滅び去るのは「自分以外の、全ての他者の現実」であり、そして最後に残るのは「自分の現実」だけなのだ。それは個人の内的世界に埋没することを意味し、つまりは「自我の力で苦しむ」ことと同義なのである。
世界のことを憂いて苦しみ続ける。そうしていれば、人は世界を知った気になりつつ、己の現実の安全性を確約できていると考える。だが、その行為のどこに「世界を知る」ことの、真の意味での覚悟があるだろうか。「世界を知る」ことは「世界のことを想い続けて憂うこと」なんかじゃない。世界を前に、自分が出来ることはなんであるかを考え、実行に移そうとすることだ。そんなのはすでに『すずめの戸締り』が広いレンジでみんなに届けてくれているじゃないか。というかわざわざそんなものを見なくても、この世界で起こっている事実に、もう一度目を向けてみようじゃないか。たとえば自衛隊。災害があちこちで起こるたびに救助派遣要請される自衛隊の人たちは、私たちが画面の向こうに追いやっている現実の只中で、いままさに誰かの命を救うために働いている。たとえば医療従事者。彼らは未知の病原菌を前に、己の命が脅かされる危険があっても、それでも誰かの命を救うために出来る限りの努力をしている。彼らは自分の現実が危険にさらされても、それでもなお「誰かの現実」を救うために奔走している。すべての命が救えるわけでないと知っていながら、それでも今を「誰かの現実」と共に生きようとしている。彼らを前に「世界なんて滅んじゃえばいいよ」と、私は口が裂けてもそんなことは言えない。だってそれって、彼らが生きている「現実」を否定することになるからだ。
苦しむことは、楽なことなんだ。だって「ただ苦しんでいればいい」だけなんだから。自我を大切にして、自我で世界を見続ける。これほど楽な生き方もない。だが、この世界にはもっとたくさんの「現実」があって、そこでは常に生きることと死ぬことのバランスをぎりぎりのところで保ちながら「人生を歩んでいる」人らがたくさんいる。その人たちのことを考えると、どうにも私は、この映画を「面白い」「つまらない」「退屈だ」といった部分で推し量ることが出来ず、ただただ「不愉快」という感情だけで、語りたくなってしまうのだ。
世界はあなたの「現実」だけで構成されているのではない。私は結局、監督にそれを言いたくて、こんなに長々とした文章を書いているわけだ。あはは。




