色欲の悪魔 11
「…………」
「っ……」
「………ぅ…は……あ……」
緊張から洩れる由利の声と微風だけが音となり森奏世界に寂しく広がっていく。
前足の血の汚れを落としたアスモデウスは何をするでもなく、ただジッと俺達を見ていた。
「………………。
………………。
………………ねぇ」
「っ!」
アスモデウスが知性的な声でこちらに声をかける。
「どうして、攻撃しないの?」
「どうして…って、そりゃあ、勝ち目が無いから?」
「嘘。
アナタは勝てる戦いなのに勝とうとしてないだけ。
バアルはその子を抱えているから勝てないと思っていたみたいだけど、そんなのはハンデにすらならないはずよ」「えっ、そうなの?」
「……いいや、アスモデウス。お前は過大評価している。
今の俺じゃ、魔転化状態のお前に勝算は無い」
「今のワタシは神と同格の存在。 創生神から承認されれば、アナタは本来の力を振るえるはずよ」
「…さっきの会話で俺の名を聞いていたのか。もう少し長く操られていれば聞かれなかったのになぁ……」
「あら? ワタシはカノジョを殺す機会を窺っていただけで、一度も操られてなんかいないわよ?」
「…マジ?」
……って、そりゃそうか。
アスモデウスの罪は色欲。魅了関連の精神攻撃を扱えるやつに洗脳が通じるわけが無い。 盲点…というか、基本的な事を忘れてたな。
「で、どうするの? 神の力、使うの?使わないの?
ワタシ、何もせずにこの姿でいるのはイヤなのだけど……」
今、クロノスに頼んで神の力を全快にした状態で戦えば、俺はアスモデウスを倒せるだろう。 だけど、俺は別にそんな事をしたいわけじゃない。
「っ……」
俺は、クロノスへの問いかけはせず、真っ直ぐにアスモデウスを見遣った。
「……そう。 それがアナタの答えなのね、アルハ・アドザム…だったかしら?」
「おっ、その名前、覚えてくれる悪魔はお前で三人目だよ」
「三人? …ああ、一人目はあの子ね。
あの子は元気?」
「ああ。 元気過ぎて騒がしいぐらいだ」
「そう……」
物憂げに出た言葉。
どこか懐かしんでいて、どこか思い出したくないような……。
水面に映る獣じぶんの姿を見た彼女は呟く。
「願わくば、最後だけは、貴女アナタでありたい……」
風で水面が揺らぐ。
「ッッぐ…! あ…ガ……っ!?」
その揺らぎでアスモデウスの体も同様にグラグラとピントがズレるように揺れ動く。
やがて水面に映る姿は徐々に小さくなり、彼女を元の少女の姿へと戻した。
「……ああ、そうね。
バアルが死んだんだもの、魔転化が解かれるのは当然…なのかしら。
……うん。 やっぱり貴女アナタはキレイ……ね」
自分の姿をまるで他人のように褒め、満足したのか、アスモデウスは俺へと視線を向けると、亜空間から槍を召喚し、その穂先で水面を突く。
触れた槍の先端部分は森奏世界全体の大地を覆う水から、色欲の大罪魔法による濁りだけを吸い取った。
「ムタクスルの全ての魔力はこの槍に取り込んだわ。だから、その子を降ろしなさい」
「そんなサービスまでしてくれるなんて、余裕だな?」
「馬鹿ね、人型の状態で支配者の権能を二つ所持しているのよ?
さっきのバアルの言葉を覚えているなら、今のワタシがどういう状況か、アナタじゃ分かるんじゃなくて?」
「……」
バアルがアスモデウスを魔転化させた理由、それは一時的に神として扱うため。
支配者の権能は神が使う異能力。 それを全てが神よりも劣る種に与えれば、肉体への負荷は相当なものだ。
「はぁ……はぁ……」
アスモデウスの息がさっきよりも荒い。
「はぁ…立っているのですら…っ…苦しいのに……。
これが……っ…よ、ゆぅ…そうに見える…?」
「っ…………」
「はぁ…もう間もなく……はぁッ…ワタ…シは死ぬ…。 アナタが手を下さなくても…ね。
だから…せめ…て……最…後く…らいは……」
「アスモデウス……」
太陽の光で青くきらめく水面に由利を立たせる。
「どうだ…? なんともないか?」
「……。 うん、平気」
「そうか。
じゃあ、由利。 少し、ここから離れていてもらえるか?」
「うん……」
ピチャピチャ、チャプチャプと短い間隔で水の跳ねる音が聞こえる。
由利との距離が数十メートルほどになり、アスモデウスが手にした得物を構える。
「もう始めるのか?」
「ワタシだって邪魔者が視界から完全にいなくなってからの方が良いけど、あの子の身体能力じゃ、だいぶ時間がかかりそうだから。
出来るだけあちら側に攻撃が行かないよう配慮はするわ」
「お前……さては相当良いやつだな?」
「良いやつはアナタの同胞を殺したりはしないわよ」
「あー……それもそうか!」
「っ……。 ふふ……なに、その反応。
開き直ったのかしら?」
「いいや。 ただ、ファウヌスは簡単に死ぬことを受け入れるタイプじゃないからなぁ……案外、虫にでも化けて逃げてんじゃないかなぁ…って思ってさ」
左手に魔力を集中させ、剣を生成する。
「そう…。
もし、本当にそうなら……ちょっと安心したわ」
「安心? 敵が生きてるのにか?」
剣を構える。
「ええ。 カレはワタシやバアルを魔法干渉で弱らせようとはしたけど、一度も倒そうなんて考え無いように思えたの。
アナタたち神にとって、ワタシたち悪魔は唯一の汚点なのに…」
「言っただろ。 アイツは死ぬのが嫌いな神なんだよ。
命を奪うことが最終手段だったとしても、たとえ悪魔でも殺そうとは思わないはずだ」
まあ、単に戦闘向きの神じゃないからなんだけど……。
剣で空を薙ぎ、馴染ませる。
……うん。いい感じだ。
「さあ……」
「ああ……」
お互いに前へと一歩踏みしめ、、、
『「始めましょ!
始めようぜ!」』
その刹那、互いの武器が交わった。




