霧に溺れた町 1
ベルフェゴールの襲来から一夜明けた港町ナトミーは今も町全体が霧に包まれた状態でいた。
牛の背に乗せられ酒場へと戻った璃空は意識がなく、酷い火傷を負い、さらに少し遅れて帰ってきたマノは虚ろな目をしている。
酒場の店主トーマに事情を話し、俺達は皆、酒場の二階にある部屋を借り、交代で璃空の看病をする事となった。
「あの飯島璃空という少年、かなり重傷だったな」
別室で休憩をしていた志遠がポツリと溢す。
「ど、どうやったらあんなケガするんだろ……」
昨晩の事を思い出しながら苦い表情をする由利。
「未代さん……は、あの人のこと……知らない……の?」
「分からない。
俺は記憶が欠如してるみたいだから、もしかしたら知り合いなのかもしれないけど……」
「そ、そっか……」
「…………」
「…………」
あまり会話を得意としない二人が、このような話をしているのには理由があった。
「はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…」
部屋の片隅で二人に背を向けて、布団に身を包み、荒い呼吸をするマノ。
「マノ、大丈夫か?」
「はぁ……はぁ……」
志遠の言葉が耳に入っていないのか、一切反応を示さない。
「マノ……さん?」
由利がマノの方へ顔を見せる。
「! イヤぁっ!」
しかし、由利を見た途端に悲鳴を上げ、頭まで布団を被る始末。
「はッ…はっ…はっ…ハっ…はっ…はっ…」
「ご、ごめんね……マノさん……。
あの……えっと……」
怯えきったマノの態度にどうして良いか分からずにいる由利。
「黒井、今はそっとしておこう」
「う、うん……」
志遠に諭され、意気消沈しつつ、それでもマノの事を気がかりにしていた。
⬛
「うっ……あ、れ?」
「璃空……! 気がついたか!」
神皇の瞳を用いた回復魔法により、意識を取り戻した璃空。
辺りを見回して、自分がどこにいるのかはおおよそ理解しているようだ。
「貴方は……たしかマノさんの……」
「アルハ・アドザムだ」
「アルハさん……。 貴方が僕の手当てを?」
「おう! 体の調子はどうだ?」
「あ、はい。 凄く良い感じです」
「よしっ! なら、一安心だな!」
「…………」
「?」
何やら物憂げに視線をおとす璃空。
「どうした?」
「貴方は、僕の事を疑わないんですか?」
「疑う?」
「だって、昨日の黒い霧を放った人の事を僕は知っていたんですよ? 元凶と呼べる相手と関わりがあるのに、疑うどころか、僕の身を心底案じている気がしたので」
「そりゃそうだろ! 誰だって怪我をしてたら心配する」
「……優しいですね、アルハさんは」
璃空の顔から笑みがほころぶ。
「そうだ! マノさんは?」
「隣の部屋で休んでる。 アイツ、帰ってきてから何も話さなくてさ。
おまけに心を閉ざしてるせいで読心術すら……」
「アルハさん?」
「あ、いや、なんでもないっ!
それより、璃空はあの黒い霧を使った奴を知ってるんだよな?」
「…………はい」
言葉が詰まりそうになりながらも璃空はゆっくりと口を開く。
「彼女の名前はバアル。 僕がこの世界で初めて出会った人物であり、僕が抱いていた願いの叶え方を教えてくれた人でもあります」
「願いの叶え方……?」
「はい。 あ、それよりも前提として……」
璃空はベッドの上で正座をして、真剣な眼差しを向けてくる。
「アルハさんは僕が転生者って言ったら信じてくれますか?」
璃空の拳……否、体全体には力が込められ、それにつられるように表情が強張っている。
信じてほしい、信じなくとも受け入れてほしい。
今の彼からはそういった思いが汲み取れる。
「信じるよ」
「……! ありがとうございます!」
深々と頭を下げる璃空。 信じただけでそこまで感謝されるとは思わなかったが……。
「それで、転生者がどうしたんだ?」
「はい。
バアルさんは僕が別枠?世界の転生者であり、元いた世界で僕がある願いを抱いていた事も知っていたみたいで、願いを叶えるには、この水明世界にいずれ現れる大罪の悪魔を殺して、その悪魔が持っているとされる大罪の権能が必要と教えてくれたんです」
「大罪の権能……」
確かに、この世界の大罪の悪魔は人の願いを汲み取り、叶える力を持ち合わせている。 だが……。
「璃空、それは半分嘘だ」
「えっ……」
「確かに大罪の悪魔は願いを叶えるし、願いの成就には大罪の権能が必要だ。
ただし、権能を扱えるのは大罪の悪魔だけだし、大罪の悪魔は自らが気に入った人間の願いしか叶えない」
「そんな……」
「それに、仮に璃空の願いが叶えられても、願いの代償としてお前の魂は悪魔に喰われ、残った体は悪魔に乗っ取られる」
「っ…………」
「金持ちになりたいと願っても、不老不死を願っても、願いを叶えたいと思った当人の魂は、もうそこにはいない。
この世界で大罪の悪魔に願うってのは、そういうことなんだよ」
「……騙されて……いたんですね…………」
酷く落胆したように俯く璃空。
「悪魔は嘘をつくのが仕事みたいな部分があるからな。
でも、璃空はそこまでしてどんな願いを叶えたかったんだ?」
「……」
こちらの問いかけに璃空はムクリと顔を上げる。
「……僕には、救いたい人がいるんです……」
「救いたい人?」
「はい。 もう顔も声も覚えてないんですけど……」
璃空は少し気恥ずかしそうに話し出す。
「僕、転生して特別な力を得る前はいつも病院のベッドにいたんです。 僕の体は片目が無かったり、肺が一つだけだったりして生きる事さえ凄く苦しかった……でも、病院の偉い人たちが僕が苦しむ事であの人を救えるんだって教えてくれたお陰で僕は幸せでした」
「…………」
ゾッとした。
その病院は明らかに異常だし、それ以上にそんな事を喜々として話す璃空に恐怖を抱いてしまっている。
「璃空、お前……」
「はい?」
「っ……」
純真無垢な表情でどうしたのか?と言わんばかりに首を傾げる璃空に俺は何も言えなくなっていた。
「そ、それで、お前の言うあの人って誰の事なんだ?」
「……その人の名前は飯島瑠樹……僕の姉です」
璃空は思い出すように自身の姉の名を述べた。
ああ……彼は本当に顔も声も覚えていないらしい。




