第14章 ① 優しさゆえに (注)残酷表現あり
このお話は性暴力や家庭内暴力を示唆するシーンがございます。
直接的表現は避けておりますが、ご気分を害する可能性があると考え、前書きにてお知らせさせて頂きます。
第14章 ① 優しさゆえに
防潮堤の上に立って見る景色は、あの時よりもはるかに高い視線で、より遠くが見えているはずなのに、今はあの時よりも先が見えていない気がする。
あの日、私は父に抱き上げられて、防潮堤の先の光景を見た。
その先に広がる海は夕日に照らされて水面が光り輝き、風はほとんどなく、穏やかな表情をしていた。海に生きるものも、陸にいるものも、全てを包み、癒やしてくれている気がした。
その光景を見せた父は言った。
「どうだい凪。綺麗で優しくて、落ち着くだろ?凪が生まれた日もこんな綺麗で風のない日だった。パパはさ、凪が産まれてこの光景を見た時に思ったんだ。どうか凪もこんな風に全てを受け止めて、優しく包み込む、そんな人になって欲しい。そう思ったんだ。」
「ふーん。とっても綺麗だった。ねぇ?もう一回、もう一回やって!」
「フフッ、そうだな、パパちょっと腕が疲れちゃって。それならこれならどうだい?」
父は苦笑いしてから私を抱き上げると、今度は肩車をしてくれた。
さっきよりも少し低くなったはずなのに、そこから見る景色の輝きが今でも瞼の裏に浮かぶ。
そこには確かに父がいて、私がいて。穏やかな海に、夕日。こんな日々がいつまでも続いてくれればいいとそう願った。
「ねぇ。凪はこんな風に綺麗?」
「そうだな。とっても綺麗だな。本当にこれ以上ないくらいにね。凪、君はいつまでも、君のままでいてくれ。パパはそんな姿をずっと見ていたいんだ。全てを優しく受け止め、全てを包み込む。そんな君の姿をね。」
父の肩に乗って海を見たのはそれが最後だった。
昇っては沈みゆく。
太陽は、どこまでも、いつまでも、二人を照らしてくれるわけではなかったのだ。
一人で見る夕日はこれが最後までかもしれない。
防潮堤を降りて、下道を歩く私の影はもう消えかけていた。
幼稚園の友達達に悪口を言われて泣いた時、そっと抱きしめて、優しく受け止めてくれた。
「凪。君が困った時はいつでもパパに頼って欲しい。辛い時にはパパが助けるから、その代わりに、誰かが辛い時には助けてあげられる人になってくれるかい?」
私は涙を父の肩に擦り付けて、小さく頷く。
すると父はいつもより強く抱きしめて、一緒に泣いていた。
そんな父はある日、建物から飛び降りた。
学校に連絡が来て病院に向かうと、ベットには既に亡くなった父の姿があった。
それでも、父に近づくことが怖かった。
死んだ父を間近に見れば、父が死んだと認めることになる。
大切な、私の生きる道標になってくれた父が、この世からいなくなったことなんて認めたくなかったから。
遺書には仕事の疲れから生きることが難しくなったとあった。
でも知っていた、父は仕事だけじゃない。母の病気のことでも悩んでいた。
母は、精神が不安定で、まともに働くことは難しかった。
それでも父は懸命に支えて、母の病気を理解して、それなのに父は遠くに行った。
その事実にただ泣くばかりの母は、ようやく仕事に就いても長くは続かなかった。
疲れ切った母の口癖は「もう、どうでもいい。」
そう言って私の話もまともに聞いてくれはしなかった。
ねえ?パパ。残された私はどうすればいいの?いつでも頼っていいって。
そう言ってたのに。助けてくれるって言ってたのに。
心の悲鳴はどこに行けば届くの?誰かこの声を、この想いを、届けてくれるの?
一人でいなくなるなんて、酷い。
パパは私の大切な、大切な人なのに。一緒には連れて行ってはくれなかったんだね。
残された私は、一人で泣いて、一人で立ち直るしかない。
最初はまだ良かったのかもしれない。
父の死のショックから立ち直った後は、母の病気は寛解へと向かっていき、母は近くのスナックで働く様になった。
稼ぎも増えた母は何かに依存しなくては生きられない。そんな人へと戻っていった。
ある日、家にやって来た男は、私が隣の部屋で寝ていることも構うことなく、母と体を逢わせ、愉悦を貪っていた。
酷い時には寝室に入ると、その行為を見聞きさせる。男はその光景を楽しんでいるかの様だった。
私は祈っていた。どうかこの人は私の人生を乱す人でないようにと。
私の人生は凪のように、穏やかな人生を送り、
キラキラと輝くあの海の様な人生であるはずだから。
あの男が来る日はいつも布団を被り、あいつの気配を感じない様にしていた。
しかしそんな期待は易々と裏切られる。




