そして道は続く
春一月二十一日。夜。
セアラが退出した後、王族も会見場からすぐに退室した。
カディールは、国境を超えた日からずっと、気持ちのすべてをセアラへの怒りに向けていたが、実際に具合の悪そうな姿を見ると、それも揺らぎ始めていた。
ところが、セアラが、許婚がいると言いだした。怒りが急速に戻っていた。レンカートと想い合っていたはずだろう。
これから、陛下や王妃をはじめとして、誰も彼もが自分に説教をするだろうが、はっきり言って、セアラがレンカート以外の誰を選んだのかという事の方が気になる。
「カディール殿下。」
肩が、ぎくりと揺れた。
ずっと見ないようにしていた人の声だ。なんだか強い口調だが、間違いない。
前を歩いていた母である王妃に冷たい目で見られた。
振り返えらないわけにはいかない。
ヴィエラがいた。
ヴィエラのはずだ。
けれど彼女は、こんなに真っ直ぐに人を見る人だっただろうか。いつも控え目で、そっと目を伏せ微笑んでいたはずだ。
ふいにアレドの言葉が蘇った。
ヴィエラは、カディールを好きではない。
羞恥が胸に湧いた。ずっと相思相愛だと思っていたのだ。ローザと恋をしている時も、ヴィエラを泣かせてしまうと思っていたが、それは的外れの考えだったかもしれない。
いつのまにか、二人を隔てていた人が動き、道が出来ていた。
そこをヴィエラが真っ直ぐ歩いてくる。二歩ほどの間をおいて立ち止まると、カディールを見上げて、言った。
「カディール殿下は、私に一生分の借りを作りました。」
借り? カディールは目を見開いた。
ヴィエラが、かつてこんな言い方をしたことはない。はっきりとした良く通る声が響く。
「お覚悟召されませ。」
キュッと口角を上げたヴィエラの笑顔。けれど、目は笑っていない。
すぐにドレスの裾を優雅に翻し、背中をむけてしまう。
今のは誰だったんだ。
カディールはしばらく動けなかった。
ヴィエラには、もう恐れはなかった。
この九日間、ヴィエラは社交界でずっと好奇の目にさらされていた。笑顔と話術で、苦痛を乗り切って来た。ずっとセアラを頼りにしてきたけれど、彼女のほかにも、支えとなってくれる人は大勢いると気付いた。
セアラがレンカートの求婚を断った時、驚きはしたが、動揺はしなかった。
もう、義妹になって助けてという追いつめられた気持ちはない。
自信を得たのだ。
王族たちが退出していくのを見ていた。
最後の一人が出られたからすぐ、そのドアの手前から声を掛けた。
「カディール殿下。」
そこにいた人全てが振り返る。
まだ、王族の方々に対して恐れ慄く気持ちがなくなったわけではない。けれど、自分もすぐにこの一員になるのだ。引き下がってばかりはいられない。
気を使って下さった方々が、カディール殿下との間をあけてくださる。
しっかりと殿下を見たまま、そこを足早に歩いた。すこし間をとって立ち止まる。
今はこれ以上近づきたくない。
そして、セアラに自分で言うと約束した言葉を口にした。
「カディール殿下は、私に一生分の借りを作りました。」
カディールが目を見開いた。何を言われたか分かっていないのかもしれない。
これからしっかりわからせて差し上げてよ。ヴィエラは、そう心の中で思う。
「お覚悟召されませ。」
返事はいらない。
すぐに背を向けて、ドアに向かった。
リリエル殿下が、扇と手で『素敵』と合図を送ってくれた。
それに微笑む。
大丈夫。私は歩いて行ける
ヴィエラは顔を上げて、前に進んだ。
レンカートはずっと信じていた。セアラは自分を愛してくれていると。
それが、全くの勘違いだったとわかった。
とんでもない道化だ。
近衛騎士や護衛役侍女たちの前で、最悪の恥をかいた。
セアラへの憎悪が膨れ上がっていた。
カディールとヴィエラのやり取りなど、どうでもよかった。
報復をしなければいけない。
「それで、セアラの結婚相手って誰なのですか?」
待ち切れなかったのか、リリエルが果敢にも陛下に直接尋ねていた。
「カイル・メセディオだ。」
陛下は知っていたのだ。迎え役の出発前夜、伯爵令嬢なら問題ないと陛下は言った。本当にそれは、身分だけの話だったのだ。
リリエルは、陛下の答えに驚いて確認している。
「キルティではなく、メセディオですか?」
「そうだ。メセディオ伯爵の次男だな。」
「次男?」
驚いたのは、ここにいた全員だ。レンカートも同じだ。
嫡男でなければ爵位は継げない。そんな相手にセアラを奪われたのか。
陛下は穏やかな声で話された。
「よい青年だよ。ヘレンズ伯爵家に後継者がいないからな。甥のカイルが養子に入る。セアラは、ヘレンズ伯爵夫人になるのだよ。」
「そういうことですか。」
リリエルが納得した。それから王弟妃に向かう。
「叔母様は本当にご存じなかったのですか?」
「知らなかったわ。」
ため息交じりに王弟妃が答えた。
「ヘレンズ伯爵家に後継者がいないのは知っていましたし、甥の誰かが養子に入るだろうことは、社交界でも受け入れられていました。でもセアラが結婚相手になっているなんて、誰も知らないのではありません?」
「本当に。」
話の後を受けたのは、王太后だ。
「貴族たちには時々驚かされますね。セアラは容姿端麗で優秀ですが、結婚相手としては評判がよくない。学びすぎに、働きすぎです。これは王家の責任でもありますけれど。」
セアラを引きとめ二年間も行儀見習い侍女をさせたのは、王家の人々だ。
普通なら、内宮に行儀見習いに行けば、本人の格が上がる。けれど、セアラは長く居過ぎた。その事で陰口を言う者たちがいる。
レンカートもそれは知っていて、気づかない振りをしていた。
王立学院の教授達の失態も、結局セアラが被ることになった。これも王家の方針だ。
レンカート自身、セアラの有能さに期待して、行政部門の仕事をずいぶん手伝ってもらった。けれど、その成功と実績はすべてレンカートのものになっている。セアラはひとことも文句を言わなかったが、彼女を利用していたに他ならない。
愛しているから、許してくれているのだと思っていた。
しかし、それは内宮に二年間いることになったのと同じ理由だったのかもしれない。
王家の人間に逆らえなかった。
それだけだ。
セアラに迎え役を任じた夜、彼女が宰相に言った事がよみがえる。手伝いに行った先で言われた心ない言葉の数々。
王太后の言葉が続く。
「だから、ディパンド、メセディオ、ヘレンズは、なるべく噂にならないよう、ひっそりと話を勧め、結婚許可も、カディールの儀式に皆の目が向いている時期を選んだのではないかしら? 本来なら、堂々とふたり並んで出席出来た夜会や園遊会があったでしょうに。可哀相な事をしてしまいましたね。」
レンカートの報復の気持ちは萎み始めていた。
ずっと彼女を傷つけていたことに、やっと気づいたのだ。
春一月二十二日。
ディパンド伯爵は、長男の言い分に、まず情けなさそうな笑みを見せてから言った。
「ゼフィル、意気は認めるよ。街道係と領地管理ねぇ。いずれはディパンド家を継ぐのだから、やる気を見せてくれるのは心強い。
だけどね、街道係はどうだろうね。確かに我が家は三代、街道係をしているが、行政官の仕事は、領地と違って世襲じゃないからね。まず学力試験に合格して、見習いをしなくてはいけない。役に立つと認められない限り、行政官にはなれないし、なれても、領地管理と両立させるのは難しいよ。
私も、領地管理者を別に立てているからね。セアラだよ。
一緒に初めて四年近くになるな。あの時、ゼフィルはカディール殿下のお世話で手一杯だと、領地管理の手伝いを断ったじゃないか。覚えてるだろう?
そのうち、セアラは内宮の行儀見習い侍女をしなくてはいけなくなったし、行政官の見習いみたいなこともして、時間が少なくなったけど。
お前の母上が手伝ってくれるようになってね。驚いたよ。セアラのお願い攻勢に晒されて始めたようだけどね。よくやってくれたよ。領地の利益が伸びたからね。さすが私の妻と娘だね。
ヘレンズ家が、どうして結婚相手としては評判の悪いセアラを嫁にと言ってきたと思う? そういう実のある能力を欲しがったのだよ。あの家はセアラを利用するつもりだろうが、すぐにセアラが家の柱になるだろうなぁ。楽しみだね。
あぁ、ゼフィル、お前はもう二十二才だろう。行政官の見習いを始めるのは遅い方だよ。街道係を目指すなら、早く夏三月にある試験にそなえなさい。
領地運営は、セアラと母上から学びなさい。領地経営のこととなると、母上は性格が変わるからね。覚悟しておきなさい。
ディパンド伯爵は笑ってそう言い、この後も長男に長い説教をした。
春一月二十五日。
王都は戦争の噂など無かったかのように、祝賀気分に包まれていた。
カディール殿下が公務を予定通りに始めたからだ。
リザルの王女との噂はまだ残っているが、害はないだろう。
アミタは、セアラと共通の友人であるシンシア・ケルター子爵令嬢のところに来ていた。彼女も王立学院の卒業生だ。今は、仕事の取り引き相手でもある。
悩みの相談に来たのだが、具体的な内容は言えなかった。シンシアにまで嫌われたくはない。ただ、セアラに酷い事を言ってしまったとだけ言った。何度も申し入れた面会が断られたことも、居留守を使われているのではないかという不安も伝えた。
「居留守ではないでと思うわよ? 私も、五日前に、その二日後のお茶会のお誘いをしたけど、ディパンド家の執事から、セアラは不在なので出席できないっていう返事が来たわ。」
「シンシアも?」
「そう。もう王城の仕事はしていないだろうから、領地に帰っているのではない? 戻ったらセアラから連絡をくれるってことだったけど、アミタには、そう返事がなかった?」
「あった……。」
確かにあった。ただ文字通りに受け取っていなかった。
アミタは肩を落としたまま、不安をそのまま口にした。
「連絡くれるかしら。」
シンシアはそんなアミタに小首を傾げる。
「いったい何時、どれだけ怒らせてしまったの?」
「半月ほど前よ。どれだけ怒っているかは全然わからないわ。セアラ、見た目は平静なんだもの。」
シンシアは深くため息をついた。
「セアラって、王城で、怒らせてはいけない人の上位になっているって聞いたけど、こういうふうに不安な気分にさせるからなのね。」
それから、お茶を勧めながらシンシアは、明るく言った。
「でも、セアラはもう怒ってないと思うわよ。すぐ怒るけど、冷めるのも早いもの。同じ事を繰り返さなければ、大丈夫ではないかしら。ただ、起きた事は、無かった事にはできないから、そこは覚悟するしかないわ。」
どんな覚悟が必要なのか全然わからない。
けれど、アミタは勧められたお茶のカップを手に取ると、シンシアを真っ直ぐ見た。
「セアラに会えたら、きちんと話す。」
それがいいわねと、シンシアが微笑んだ。彼女の笑みに癒される。
その日帰ると、セアラから不在を詫びる手紙が来ていて、アミタは心の底から安堵した。
そして、セアラに、レンカートへの恋愛感情が全くなかったと知って衝撃を受けるのは、その後の事になる。
「急ぎすぎの馬車?」
ランクール商会の副会長室で、ロッドは兄のランスと雑談をしていた。
商売で地方を巡って帰って来たのだ。おおまかな報告は終わっていた。
ランスに聞き返されて、ロッドはその時の事を話す。
「そうなんだ。中型の馬車が三台。騎馬が十人くらいいたかな。速足でさ。慌てて避けたよ。紋章なしだったけど、良い馬車だったな。」
ランスが眉間にしわを寄せる。
「帰りって言ったな。アコードからの帰りだな。」
「そ。追い越された。」
お茶を飲んで、ロッドは答える。
それから、ランスの気難しげな顔を見た。兄はいつもこういう顔をしているが、何かが少し違う。
「何? 気になる事でもある?」
「いつだった?」
「二十日の午前中。」
「それ…。」
ランスが口を噤む。気になる。
「なんだよ。」
「もしかして、カディール殿下だったとか。」
「まさか。」即、ロッドは否定した。「王家の人があんな旅の仕方はしないだろう。」
ランスが椅子に背を預けて、視線を宙に浮かせる。
「でも国境を越えてないって噂は、かなり信憑性があっただろ。公務に間に合うように帰って来ようとしたら、そうなったのかもしれない。」
「え?」
ロッドは可能性を考える。あの調子で進むことが出来たなら、確かに間に合うかもしれない。けれど、相当数、馬を換えなければいけない。
そんなことが出来るのは、軍と大貴族と、王族。
「これって、他で言わない方がよさそうだね。」
頼りがいのある兄ランスに、ロッドは少し顔を引きつらせながら言う。
「他の連中も口止めしとけよ。」
「大丈夫。気にしてたの俺だけだから。みんなその時、ちょっと腹を立てただけで忘れてる。」
二人は大きくため息をついた。
ロッドは誰にも言わなかったが、日誌には書いた。
ランスも同じく、日記にロッドから聞いた事を書き残した。
これらが後世、カディール王子の留学からの帰還の真実の傍証となる。
春一月三十日。
ナイールは朝からずっと、落ち着かない気分でいた。
殿下のお迎え役に出た者のうち、護衛役侍女ふたりは長期休暇中だった。任務が終われば休日に戻っていく。
今日は、ジェインの休み明け出仕第一日目だ。
見かけたら、声を掛ける。そして食事に誘う。そう決めていた。
昼前に、運よく彼女を見かけた。迷わず声を掛ける。
「ジェイン。」
同僚がにやにや笑っていることなんか気にせず待たせて、彼女の方へ行った。
「久しぶり。元気そうだな。」
「えぇ、ありがとう。」
ふたりきりは初めてで、緊張する。今は勤務中だからと自分に言い訳し、世間話も前置きもなしに、目的を告げた。
「今度、食事しないか?」
「いいわよ。いつがいい?」
笑顔で軽やかに聞き返された。ナイールはゆるみそうになる顔を引き締めつつ、明日はどうかと聞くと、また良い返事が来た。場所は彼女が決めた。
「じゃあ、明日ね。」
ジェインの後ろ姿を見送った。黒髪が揺れて綺麗だ。
名前を呼ばれて、ナイールは慌てて同僚のところに戻る。
思い切り背中を叩かれて冷やかされたが、これは一緒に喜んでくれてるってことだ。
明日の会話はどうしよう。
ナイールは心を弾ませた。
春二月一日。
ここは、高級料理店の個室だ。
ミリアは、心の底からナイールに同情していた。
彼は、ジェインとふたりきりで食事を楽しもうと思っていたはずだ。
けれど今、ここには殿下お迎え役全員が揃っている。
慰労会になってしまっていた。
とても賑やかだ。
ジェインが一番楽しそうなのが、余計にナイールを哀れと思わせる。しかしミリアも、来たからには楽しむつもりだ。
「実は、みなさんにお願いがあります。」
セアラの言葉に、部屋は一瞬で静まり返った。
こちらが思いつかない事を言われるのには慣れたが、できるなら、お願い事は自分たちに出来る範囲でして欲しい。
きれいな微笑みを見せつけられた。それが怖い。
「あの旅のことを書いて欲しいの。」
旅のこと、というとあの九日、いや、前日も入れた十日間のことか。
「それぞれの記憶を書きとめて欲しいの。」
ハミルが困惑した顔を向けて来た。
「機密ですよ。だめでしょう。」
彼は常に真面目だ。
セアラは動じることなく言った。
「言わなきゃ、ばれないわ。私、日記に書いたわよ。日記ぐらい誰でも書くでしょう。読まれなきゃいいのよ。みなさんの記憶も、私が一度読んだら、封をするわ。」
「封?」
「わたしが、王立学院や内宮での事を何にも書いていないと思う?」
沈黙が降りた。
何も話してはいけないのが決まりだ。こんなところで重大な違反を軽やかに話さないでほしい。
「大丈夫よ。」
セアラ一人がにこやかだ。
「王立学院の中に置くから。私が引退するまでは、自分の監督下に置くし、その後は学院の資料の山に入れてしまうわ。滅多なことでは見つからないわよ。百年以上先で、それを見つける人を驚かせましょうよ。」
そういえば、この人は歴史学者だった。
ミリアは呆れて、しばらくセアラの笑みを見ていたが、すぐに気を取り直した。
「セアラ、今のは聞かなかった事にします。皆さん、セアラにはお説教が必要です。それはいけない事だと言うのを忘れずに頂くために、お手紙を差し上げましょう。」
そう話す事でミリアは、セアラの話に乗るかどうかを、個人の問題にすり替えた。
最後まで、自分は暴走の引き止め役だったと、内心でため息をつきつつも、ミリアはその役を楽しんだことを否めなかった。
そして、結局みんな、旅の記憶を文章に起こして、セアラに渡したようだった。
ミリアも、かなりの時間をかけて書いた。
カディール王子の呆れた恋愛譚を、百年以上先の人が読んで驚くところを想像するのは、少し楽しかった。
社交界に激震を起こした『アディード建国以後の歴史』を読んでみようかなとミリアは思った。
百年以上先の人々も、自分たちの話を読んでくれるだろうから。
メセディオ伯爵家次男のカイルは十九才。背は高いが、容姿に関しては、ご令嬢たちから『普通の人』という評価が下されている。
もし、将来ヘインズ伯爵家の後継ぎになると社交界で知れ渡っていなければ、『普通』の評価もないだろう。
次男だから、ヘインズ家の養子話が無くなれば、自分に続く子どもたちは貴族にはなれない。
この夏、王都都市計画係の行政官になる内示は受けているので、生活に困る事はないが、贅沢はできない。
「養子縁組と結婚の許可、届いたんだけど。」
久しぶりに婚約者であるセアラ・ディパントと会っていた。
セアラは美人だ。
でもそれよりも、気持ちの強さと、常に冷静に判断しようとする意志。あやまちを謝るときの真摯さ。そういうところが、恰好いいと思う。時々、子供みたいにはしゃいでお喋りを楽しむところは、誰より可愛い。
そんな彼女が、カイルに「友だちでしょ、わたしたち。」と言ってくれた十一歳のあの夜。舞い上がって、興奮して眠れないと思っていたのに、ぐっすり眠ってしまい、少しばかり自分自身にショックを受けたのは、今では笑い話になった。
セアラが、自分と結婚をしてもいいと思ってくれていることを、カイルは幸運だと感じている。
実の両親がいるメセディオ家の人々と、カイルを養子にと望んでいる伯母がいるヘレンズ家の人々が、セアラに少々難色を示していると知っていてもだ。
ディパンド家のセアラの居間で、二人きりで向き合えるのは、正直、嬉しい。彼女の腹心の侍女が壁際に控えていてもだ。彼女の親兄弟以外の男はここまで来れない。許婚だけの特権だ。
「びっくりよね。秋になると思ってたわ。」
二人掛けのソファに一緒に座り、ティーカップを持っていたセアラが、小さく肩をすくめた。
「僕もだよ。今はカディール殿下の儀式の件で、どこの部署も忙しいから。」
一旦言葉をとめて、カイルは真面目な顔を作った。
「もしかして、セアラに特別なツテがあって、早めてもらった、とかない?」
「私が?」セアラが目を見開いて、それから少し不機嫌そうに言う。「早めてもらっても、得なんてないでしょう。正式な結婚は来年夏って、届けてるんだから。今、文官たちがどんなに忙しくても、今年中には許可は頂けただろうし、そうしたら、結婚式に何の問題もない。相手に借りを作るだけのことなんてしないわ。」
仰るとおりです、という気分にカイルはなった。
それでも少し夢を見てしまったのだ。セアラが、自分と早く婚約したくて、内宮で侍女をしていた時に知り合った文官に頼んだのかな、とか。
ないか。
ないな。
カイルは、すぐ隣にいるセアラに笑いかけた。
「確かに、そんな借りを作る必要なんてないね。君の気が変わらない限り、この縁談は壊れないんだから。」
「変わらないわよ。前にも言ったでしょう。」
セアラは、つんと澄ました顔を見せて言う。
「私に怒鳴ったり、学ぶな、余計なことをするな、でしゃばるな、身の程をしれ、とか言わないのは、あなただけだもの。それが、わかっていることが、一緒にいてどれだけ心安らかにいられるか。」
確かに何度か聞いた。
それからセアラは、急に笑顔を見せた。これは裏を読んでねという笑顔だと、カイルは思う。
「カイル、最近、なんとかという子爵令嬢にまとわりつかれてるでしょう。」
ぎくりとした、心構えをしていたのに。
その子爵令嬢は押しが強い上、ヘレンズ家の伯母が強く勧めるので、断り切れずに何度かダンスをした。セアラも、セアラの友達も出席していないと確認できたから、ダンスをしたのだけれど。
こういう時は、嘘をついてはいけない。男として情けないと言いたければ言え。女性の情報網は得体がしれない。きっと証拠を押さえられてる。
「ヘレンズの伯母に、どうしてもと言われたからだよ。彼女とは何もない。」
正々堂々と、少々情けない言い訳をする。
今度は、セアラが真顔になった。
「私、嫉妬したのよ。」
「え?」
なんだか、すごい言葉が聞こえた。瞬間、気分が高揚する。ぶつかる天井なんてない。もしかして、セアラは友情以上に恋人未満な気持ちでなく、自分を愛してくれているのだろうか。
カイルは、慎重に、確認の言葉を発した。
「嫉妬?」
が、セアラの答えはあっさりしている。
「そう。」
なんだかカイルが思っていたより、軽い。顔は真面目だけれど、声が軽い。だからもう一度聞き直した。
「それって、やきもち?」
何が面白かったのか、セアラは急に笑いをこらえて肩をふるわせてる。
「ひらたくいえば、そうね。」
彼女のティーカップを持つ手が震えてる。カイルはお茶がこぼれ出す前にそれを自分の手に引き取る。
「なんで笑うの?」
少々情けない気分になる。さっきまで空高く上がった気持ちが、手元に戻ってきている。
右手に自分のカップ。左手にセアラのカップ。
「だって、家庭教師に言葉の意味を確認する見たいな顔をしたんだもの。」
憮然とした。
カイルだって、いつもセアラの顔色を窺がっているわけじゃない。
「本気で真面目に聞いてるのに、笑うなんて、酷いと思う。」
カップをテーブルに返す。ガンと音を立てて置いてやりたいところだけど、そっと置くのは身に付いた習性だ。
そのカイルの左手首に、そっとセアラの右手が乗せられた。
細くて長い華奢な手。中指に指輪がひとつ。カイルが贈ったものだ。
なんだかそれを見ただけで、機嫌が直ってしまうなんて、自分でも簡単な男だとカイルは思ってしまう。
「笑ってごめんね、カイル。でも、嫉妬したのは本当よ。他のご令嬢にいい顔しないで。」
カイルは思わず、セアラの右手を両手で覆った。
「もし」
心のどこかで、やめておけという声がする。けれど確認せずにはいられなかった。
「セアラ、愛してる。もし僕がヘレンズ家の後継者になれなくて、ただの行政官で、貴族でいられなくなったとしても、結婚してくれる?」
セアラは少し目を見開き、カイルの顔を見つめてきた。
目をそらすわけにはいかない。決意をこめて、カイルはセアラを見る。
ずいぶん長く見つめあったような気がするが、実際はよくわからない。後で、セアラはあきれたように、二秒と待たせなかったでしょうと言ったけど。
セアラが自由だった左手をカイルの右手の甲に添えてきた。互いに手を取り合う形になる。
「私もあなたが好きよ、カイル。あなたは自立した一人前の紳士だわ。」
セアラの言葉と素の笑顔に、カイルは思わず彼女の両手をしっかりとつかみ直した。
が、セアラは、カイルの手の中から自分の手を思い切り引き抜き、腕を組む。
え、どうして、とカイルは混乱しかけてセアラを見る。
冗談だった? からかわれた?
セアラが、カイルがよく知っている、いたずらを思いついた時の笑顔を見せてきたから尚更だ。
けれど彼女は、カイルの想像とは違うことを言い始めた。
「あなたは、都市計画の行政官として、国家に貢献できる。私には法律士の資格があるから、多くの人の役に立てる。貴族でなくても問題ないけど、私たち二人でなら、男爵位くらい、軽く狙えるのではないかしら?」
軽くと言いつつ、セアラの声は深く落ち着いている。
カイル・メセディオは、両親や伯母、家のしがらみに関する人々の顔を思い浮かべた。彼らのために自分が背負わなければいけない義務を思った。
そして考える。セアラがいるのに、どうして他の女の子と、楽しそうな顔を作ってダンスをしなきゃいけないのか。
カイルは、セアラにすっきりとした、凛々しい笑みを見せた。
「そのカード、使わせて貰うよ。セアラ、愛してる。」
--完--
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
※2016年10月:誤字脱字、前後文章の入れ替えなどをし、各章のタイトルを変更しました。
完結してはいますが、追加したい章など手を入れていきたいところもあります。
変更時には活動報告でお知らせいたします。




