打合せはした方がいい
子爵家の三男ほど気楽なものはないと、ナイール・シガルは思っている。少なくとも、自分の口を養うだけの職を得られたならばだ。
子どもの頃から勉強は苦手だった。家庭教師の声も、与えられた本も、眠りの呪いが掛っているに違いないと思ったほどだ。馬鹿にされない程度の知識を頭に詰め込んでくれた家庭教師には、心から感謝している。
好きだったのは体を動かすことだ。叔父が騎士だったから、彼の息子たちと一緒に鍛えてもらった。従兄弟たちより上達が早かった。その事が叔父を少しがっかりさせてしまったようにみえた。
叔父が、神から与えられる才能は不公平なのだよと、何故か従兄弟たちではなく、ナイ―ルに言ったのをよく覚えている。
何故、慰めるように言われたのが自分なのか。
子どもの頃にはわからなかったが今はわかる。叔父の子どもたちは皆、文官になった。
騎士は命を張らなければならない。
それが哀れに思えたのかもしれない。叔父自身、騎士として色々と思うことがあったのだろう。
しかしナイールは、そう深刻には受け止めなかった。
誰かを守る仕事なんて、格好いいじゃないか。そう単純に思ったのだ。
騎士仲間に混じって騒ぐのも、真剣に仕事をするのも気に入っている。
騎士爵位を得たから、収入は安定した。贅沢はできないが、家庭を持って、子どもを作って賑やかに生きよう。
だれもが思うような将来を描いていた。
だが残念なことに、女運には恵まれなかった。
ナイール・シガルは、背も高いし整った顔を持っている。近衛騎士は女性に人気がある職業だ。
しかし、ご令嬢たちの結婚観は現実的だ。少しでも条件のいい相手を求める。生真面目なハミルだって三十超えるまで結婚が決まらなかった。
子爵家の三男に、縁談は少ない。
そのナイールにちょっと変わった出来事があったのは、半年ほど前の事だった。
薄桃色のドレスを着た十才の従姉妹が、ナイールに一冊の本を開いて見せた。
まだ冷酷な結婚観を持たず、騎士に憧れている従姉妹は、ナイールに懐いてくれている。
「ここに、騎士のことが書かれているの。」
キラキラとした目を向けられたら、本を読むと眠くなる呪いが掛っているんだとは言えない。彼女の隣に座って本を覗き込んだ。
驚いた。読めるじゃないか。こんなにすんなり内容が頭に入って来たのは初めてだった。俺はまるきり馬鹿でもなかったんだと、ナイールは感動さえした。
騎士の英雄譚について書かれたその章は、物語ではない、騎士の現実を描き出していた。
その、『アディード王国建国以後の歴史』全三巻をすぐに買い求めた。この本を読み、ナイールはあいまいだったアディードの歴史をきちんと頭の中に納めた。
著者が誰かなど、気にしていなかった。学者に興味はない。
数カ月が過ぎ、帰国しないカディール殿下のお迎え役を仰せつかったが、責任者が女と知って、ナイールは、自分の女運の悪さは極め付けだと肩が落ちた。
その責任者、セアラ・ディパンド伯爵令嬢が、『アディード王国建国以後の歴史』の著者だと知ったのは、旅を初めて三日目だった。
仲間たちには、思いっきり笑われたが、ナイールは平気だった。
本を読むと眠くなる呪いはまだ完全に消え去ってはいなかったが、以前ほどではない。呪いを解いたのはセアラだ。
俺の女運は、好転したのではないか。
この時、ナイールはそんなことまで考えた。
ジェイン・オルファ。
同行者である黒髪の護衛役侍女の率直さは、慣れてくると信頼できると思える。
任務が終わったら、是非とも食事に誘いたい。
春一月十八日。午前。
朝食後のお茶は、庭で頂きたい。
どうやら朝起きてすぐ、セアラがそう言ったらしい。
アコード伯爵の屋敷で、一番眺めがいいという庭に、テーブルが設えられていた。
朝食の席には伯爵夫妻がいたが、セアラはお茶には自分たち一行だけでと、伯爵夫妻に遠慮を願った。
この旅が始まって初めてのゆっくりとした朝だ。
今朝の女性たちは、灰色ドレスではない。流行りを程良く取り入れた上品なドレスを身につけている。
セアラは薄紫、ミリアはアイボリー。
そしてジェインは淡い緑だ。よく似あっている。
こんな美人たちとゆっくりとしたお茶の時間を持てるのは、よく頑張ったご褒美だと、ナイールはさり気なく目でジェインの姿を追いながら思った。
「セアラ様、起きてます? 眠ったら風邪をひいてしまいますよ。」
ミリアが、目を閉じてしまっているセアラに声をかける。
セアラが、ミリアに眠そうな声で答えた。
「起きているわ。こうやって、うつらうつらとしている感じ、すごく気持ちが良いわね。」
日々それなりに体を動かしている護衛侍女たちと違い、セアラは相当疲れているに違いない。椅子に体を預けきっている姿は、ナイールには気を抜いている猫にみえた。
そんな姿を見せるのも、自分たちを信頼してくれているからだろう。
昨日の姿とは大違いだ。
道中、前夜の雨のせいで、道はぬかるんでいた。揺れもいつもより酷かった。
セアラは本当に疲れていたのだ。
そこへアコード辺境伯親子の奇妙な糾弾で、不機嫌さが全開になってしまった。
騎士や兵に向かって語りだした時は驚いた。ジェインが後で目をきらめかせて言った。あれって、きっと王国学園の講義を前提に練習したのよ、と。
そうかもしれない。だがナイールは思った。こんな時に、そんなことを思いつくって、頭の中身はどうなっているんだ。
夕食後やって来たアコード辺境伯親子への対応も、疲れていたセアラは容赦なかった。
エミルを同行させて欲しいと言った辺境伯に、自分たちのことに口出し無用だと言いきったのだ。
聞いていて、ナイールは少しすっきりした。
辺境伯は、宰相によしなにと頼まれていると言いだしたが、では疲れているので今夜は引き取って下さるのが一番良いことですと、セアラは背を向けた。
すごくすっきりした。
一晩眠ると、セアラもすっきりとしたようだった。
朝食の席では、伯爵夫妻となごやかに会話を進めていた。伯爵に頼みごともした。一通の手紙を先触れとして託したのだ。
ナイール達は、昼下がりに先方へ到着するように出立のする予定だ。
のんびりしていたのに、ハミルがそっとセアラの方に身を傾けた。
「アコード辺境伯が来ました。」
セアラは眉をひそめたりはしなかった。ただ姿勢を正し、ミリアに聞く。
「髪、くずれてない?」
やっぱり女性だなぁと、ナイールは改めて思う。
「大丈夫です。」
ミリアが大きく頷くと、セアラの青い目がきらめいた。
「どうか、穏便に。」
ひそめられたハミルの声に、セアラが頷く。
穏便なんて、アコード辺境伯の性格からすると無理だろうと、ナイールはなりゆきを少しばかり楽しみに、幕が開くのを待った。
「おはようございます。セアラ殿。」
無難な挨拶から始まる。
アコード辺境伯は、もう昨日ほど横柄な口を聞く気はないようだ。
「おはようございます。アコード辺境伯。良いお天気ですね。」
セアラは愛想よく微笑んだりしない。けれど声は穏やかだ。機嫌が悪いわけではない。
辺境伯もそう思ったのか、早々に要求を持ち出した。
「セアラ殿、息子エミルのご同行の件、ご再考いただけませんか。」
「それは、終わったお話です。」
きっぱり断られたのに、辺境伯は諦めない。
「もう一度、お考えいただきたい。エミルはバンデルの街をよく知っております。必ずお役に立ちます。」
カディール殿下を連れ帰れなかった時点で、すでに役立たずだとは考えていないらしい。
「ご心配ありがとうございます。私たちは大丈夫です。」
セアラの口調は若干早目だ。こういう時は相手に発言する暇を与えないと、この数日で知った。
今もやっぱりそうだ。
伯爵が口を開きかけたのを無視して、セアラが続ける。
「本日出掛けますが、帰りには人数が増えているかもしれません。全員、こちらの別邸でお世話になります。」
辺境伯が目を見開いた。
「それは、お話が違います。殿下はアコードにご滞在の予定です。」
声に威圧的なものが入った。
懲りないなとナイールは思う。セアラが王の紋章を預かっていることを忘れたのだろうか。
「カディール殿下がアコードを経由してお帰りになるというお話なら存じておりますわ。公表されている唯一の行程ですわね。」
セアラがとぼけた。
そういえばセアラは昨日から、伯爵にさえ、殿下を迎えに来たとは言っていない。
昨日、伯爵がそれらしきことを言ったが、セアラは、はっきりとそうだとは答えなかった。ただ疲れたと駄々をこねただけだ。
今朝の先触れも、兄にと言っていた。宛名はゼフィル・ディパンド、間違いなく彼女の兄だ。差出人の名は記していない。
「エミルは何度も殿下を尋ねております。」
辺境伯はくじけず、追いすがる。本人は、追いすがっているつもりはないかもしれないが、ナイールにはそう見える。きっと仲間たちもそう見ているだろう。
「殿下のご様子をよく知っております。」
この言葉に、セアラが小首を傾げてた。
「アコード辺境伯、もしあなたの言う通り、私たちが殿下のおられるところに行くのだとして、です。あなたのご子息が何度殿下にお会いになったか存じませんが、私は殿下の幼馴染みです。殿下の学友である兄とは、当然ですが同じ屋敷で一緒に育ちました。ご心配は無用です。」
辺境伯の顔に、怒りが出ている。
ナイールは、こんな上司は嫌だなぁと、自分の隊長の懐の深さに感謝した。
「ご令嬢にどれだけのことができるか。殿下は分別を無くされ、乱心されているのですぞ。」
突然、勢いよくセアラが立ちあがった。
ナイールは、反射的に引きそうになるのを何とかこらえる。
セアラの、低く厳しい声が響き渡る。
「お言葉を慎まれよ、アコード辺境伯! 私は内宮を離れましたが、一度お役を頂戴した限り、一生王家の侍女です。」
護衛役侍女が静かに立ち上がった。ナイールたち近衛騎士も立ちあがる。全員が辺境伯を見る。
「ここには近衛騎士もいるのですよ。私たちの前で、王家の方を侮辱されるか!」
辺境伯がわずかに身を引き、苦しげな顔を真っ赤にした。
セアラの声が静かなものに戻った。
「お引き取りを、アコード辺境伯。お仕事にご熱心なあまり、お力が入りすぎたのでしょう。お頼みしたいこともありますゆえ、今はどうぞ、お引き取りを。」
辺境伯の足が、ぎこちなく一歩引かれた。
「失礼する。」
声だけは大きかった。足早に去って行く。
その姿が消えるのを待つこともなく、セアラが座った。
全員が座り直す。
「お茶を入れ直してもらいましょう。」
ミリアが言いながら、この館の使用人を呼ぶベルを鳴らしていると、伯爵が急ぎ足でやってきた。当主の座を譲ったとはいえ、老いなど感じさせない力強い足運びだ。ナイールもできるなら、現役引退まで大怪我なく過ごし、こんなふうになりたいと思う。
「申し訳ない。セアラ。」
セアラは、傍に来た伯爵を上目使いで見た。
「安全を保証して下さる約束でしょう。」
伯爵の顔が引きつる。
「あれは、息子ですから。」
ミリアの鳴らしたベルに呼ばれて来たメイドが、お茶を置いて行ってしまってから、セアラは伯爵に向き直った。
「辺境伯に頼んでください。クッションが三十個欲しいです。」
「クッション? クッションとは、あの、椅子やソファの上に置いたりする?」
伯爵に問われて、セアラは重々しく頷く。
冗談に聞こえただろう。
ナイールも、彼女たちが乗って来た馬車の中がどうなっているかを知らなかったら、からかわれていると思うところだ。
馬車の中はクッションだらけだ。彼女たちは、走る馬車に自分たちの体が大きく揺さぶられないよう、馬車と体のすき間をクッションで支えていたのだ。確かに反動は少なかっただろう。
セアラは伯爵を座らせると、ミリアとジェインの三人で、いかにそのクッションが馬車酔いに有効かを、大真面目に訴え始めた。
カディール殿下をクッションで抑え込み、四日で王都に帰るつもりなのだ。
「辺境伯に、勘違いなさらないように、きちんとお伝えくださいね。」
伯爵が呆れたような、困ったような、あいまいな笑みを浮かべている。
ナイールは笑い出さないように必死に堪えていた。
結局、呆れた顔をして去って行く伯爵を見送って、セアラがつぶやいた。
「せっかく静かに過ごしていたのに。」
お茶を一口飲むと、セアラが姿勢を正した。もうすっかり見慣れた彼女の強い視線を、全員が受け止める。
「さて、今日の予定だけど、兄への手紙には、今日絶対連れ帰ると書いたわ。だから、そのための準備をしておいて欲しいとね。」
「どんな準備を?」
ジェインの問いに、セアラが答える。
「誰に読まれるかわからないから、それだけしか書かなかったわ。受け取った兄がどれだけのことを、誰としたかも、今回の責任問題をはっきりさせる事柄のひとつよ。」
実の兄にも厳しいのかとナイールは思ったが、すぐに考え直した。兄だからこそ、酌量の余地ありと誰にでもわかる実績を示して欲しいのだろう。
「それと、殿下には私が行くことは言わないようにとも伝えたわ。辺境伯が余計なことをしなければ、殿下は私を見て驚くはず。」
「主導権を握るわけですね。」
ハミルが納得したように言う。クランが確認する。
「もし辺境伯が、邪魔をしたらどうします?」
「邪魔の仕方に寄るわね。」
セアラが浮かべた笑みが怖い。
「どちらにしてもアコードの失敗ははっきりしてる。それよりアレド・カガンドよ。私の想像だけで済めばいいのだけど、本当に彼が、殿下を煽るような言動をしたとわかった時は、みんなに証人になって欲しいの。彼は責任をとらなければならない。」
クランが少し声をひそめた。
「本当に、東の国境へやるんですか。」
「私は本気だけど、大将軍に預ける。」
大将軍なら本当に東の国境、つまり今アディードで最も危険な最前線に送り込んでしまいそうだ。
ふいに、セアラの視線が宙に浮いた。
「辺境伯の息子も、東の辺境を一度体験しておくべきかもね。」
昨日、ずっとエミル・アコードは父親の後ろにいた。何かを言いたそうにしながら、父である辺境伯に何も言えなかった。
将来彼は、国境を守るため、特別な裁量を持つ身となるのだ。しっかりして欲しい。緊張感のある東の国境線を知るのは良い事かも知れない。
「これも大将軍に報告して、裁断は任せるわ。」
セアラの視線が戻って来た。
「話を戻すわね。殿下にお会いしたら、まずお考えを話して頂きます。笑いそうになっても、怒りたくなっても我慢してね。もし、私の説得に応じない時は、力ずくで馬車に乗せます。」
「力ずくですか。抵抗されたらどうします?」
クランが厳しい表情になって聞く。
「いくら殿下でも、女性に手は上げないでしょう。」
このセアラの言葉に、ナイールは思わず護衛役侍女二人を順に見る。
ふたりとも初めて聞かされたのか驚いている。
「片腕ずつがっちりつかんで連れ出しましょう。大丈夫よ。私も手伝うわ。殿下の困り果てた顔が目に浮かぶわね。」
セアラが微笑んでる。楽しそうだ。ちょっと怖い。
ハミルが大きくため息をついて確かめる。
「それは最終手段ですよね。」
「もちろんよ。クランが頑張ってくれたお別れのお手紙を、是非とも役立てなくては。殿下としっかりお話しあいをします。」
「無茶はしないでください。」
言い聞かせるようにハミルが、セアラを真っ直ぐ見る。
「もっと我々を頼りにして下さい。我らはそのためにいるのです。」
もちろんナイールにも、それに否やはなかった。
ありがとうと言ってこの時セアラが見せた笑顔は、この旅でナイールが見た一番きれいな笑みだった。




