国境の騎士
アディード王国では、当主が代替わりをしても、前当主は爵位で呼ばれる。
ここアコードでは、現当主が辺境伯、前当主は伯爵と呼ばれている。
エミル・アコードは二十歳。現当主の一人息子だ。父によく似た大柄で頑強な体を持ち、ひとには強面と言われる。
子は神の恵みゆえ、育ってくれただけでよい。そう祖父は言う。
けれど、エミルはそんな呑気に構えてはいられない。
父には弟がふたりいる。エミルには歳の近い従兄弟が五人もいるのだ。優秀でない者はいない。その従兄弟たちより、エミルは常で上でなければならない。
アコードは国境の街、国を守るための最前線である。力ある当主が必要だ。
エミルが力不足と判断され、五人の従兄弟たちの誰かが次の当主になることもありえるのだ。
幼いころからそう思い、常に学び、兵たちに混じり訓練をした。
王都へ行くことはあまりない。
この国境の城砦暮らしとのあまりの違いに、社交場では、堂々としているようにと常に自分に言い聞かせなければいけない。次代の当主として、社交界で顔を繋がなければいけないことはわかっているが、疲れる。
そしてその間にも、五人の従兄弟の誰かが、アコードの兵たちの信頼を勝ち取ってしまうのではないかと思い落ち着かない。
エミルは、アコードの現当主のたった一人の息子なのだから。
春一月十七日。
陽が落ちる前に、セアラ・ディパンド一行が現れた。
エミルはその一報を自室で聞いた。訓練を終えて、帰って来たところだった。
「もう来ただと?」
アコード辺境伯宛に、アディート王都の宰相から急ぎの連絡がきたのは昨日の昼前のことだ。
『セアラ・ディパンド嬢がそちらに行く。十四日に出立する。よしなに頼む。』
エミルは、その行間からセアラへの『不審』を感じた。いっそ『不信』と言ってもいい。
セアラ・ディパンドは、誰も気づいていなかったザッハ砦の異常を、王都に居ながら言い当てた女だ。
普通、そんなことはできない。
エミルの父アコード辺境伯は、セアラ・ディパンドはリザルの間諜と繋がっているのかもしれないと考えている。だがアコードにいた自分の弟にそんな情報を云ってくる、ということは、そうと知らず利用されている可能性があるとも聞かされた。
本来なら、王都の大将軍に報告をしなくてはいけない。
しかしザッハ砦についてのこちらの見落としを正直に告げる必要もないだろう。
それに彼女は内宮で行儀見習い侍女をしていると、彼女の弟から聞いている。
内宮が、間諜と繋がっている女を、気づかず身近に置くだろうか。
ないだろう。敵をあぶり出すために、泳がせているのかもしれない。それなら自分たちが不用意に動くのはよくない。
父もエミルも、そう考え、セアラ・ディパンドのことは口を噤んだのだ。
ただ一応探りは入れてみた。祖父は代譲りをしてから王都にいることが多い。さり気なくハルジェス・ディパンドの姉の事を尋ねたのだ。
祖父は、内宮の侍女として信頼されていると言った。なかなか覇気のあるお嬢さんだと、笑った。
女に覇気があってもしかたないだろうと、エミルは思ったが、反論はしなかった。祖父の話が長引くだけだからだ。
ザッハ砦のことは、棘となってエミルの胸の中に残ったままだが、何事も起こらない日々に、忘れることも多くなっていた。
そこへ飛び込んで来たのが、第一王子のご乱心だ。ローザ王女のために、帰らないと言い出した。
その第一王子の一行の中に、エミルの中の棘を刺激する名があった。
ディパンド。
怪しいと疑わない方がおかしいと、エミルは思う。
彼が王子に害をなしているのではないか。
朝夕、王子に出立を促す使者を出したが、エミル自身も確かめに行った。
結論から言うと、ゼフィル・ディパンドはただのいい奴だった。
事を大きくしているのは、どうやらアレド・カガンドのほうだ。
しかし宰相からの手紙を見たとき、エミルは思ってしまったのだ。
やはり、この兄妹は共謀しているのではないか。ゼフィルの良い家臣ぶりは、見せかけではないのか。
彼らはアディードに仇なす者たちではないか。
セアラがこちらにくるという先触れを見たとき、エミルは、必ず彼女を問い質して欲しいと父に願い出た。
父もそのつもりだと言った。
胸の中の棘が、大きくその存在を主張していた。
その宰相から知らせでは、出立したのは十四日だ。
まだ四日しか経っていないのに到着したなど、早すぎる。偽物ではないのか。
「すぐに行く。辺境伯と伯爵は?」
言いながら部屋を出て、知らせに来た侍従に尋ねた。
「辺境伯はお迎えに出られました。伯爵はおでかけから戻られていません。」
セアラ・ディパンドと顔を合わせたことがあるのは、伯爵だけだ。祖父の長話を嫌い、彼女の見た目の特徴を確認しなかったのは失敗だった。
とにかく今は、領主館の正面玄関へと走る。
たどり着いた扉の向こうは、不穏な空気が広がっていた。
まだ陽射しの残る時の中に、馬車が一台。馬が二頭。見えているのは旅装の男が三人。身分を示すような特徴はエミルがいる所からはわからない。皆、同じような髪色をしている。女性の姿はない。馬車の中だろう。
男は三人とも馬車の窓を見上げている。何か話し合いをしているようだ。声は全く聞こえない。
馬車は、屋敷から離れた所に止められている。父がそうしたのだろう。ご婦人なら、文句を言って、馬車から降りない距離だ。
彼ら一行を、遠巻きに、武装した騎士とアコードの兵たちが二重に囲んでいる。
その円の切れたところが、辺境伯の居る場所だ。エミルも父の少し後方に立った。
旅装姿の男がひとり、こちらに向かって歩いて来た。
知った顔だった。近衛騎士のハミル・エイゼンだ。
エミルは、王都へ行った際はなるべく多くの騎士に会うようにしている。彼にも以前、会ったことがある。腕の立つ騎士のひとりだ。
ということは、本当に彼らは王都からやって来たのか。
礼を失さない距離まで来ると、ハミル・エイゼンは近衛騎士の敬礼をした。その胸に近衛を示す意匠の入った飾りがあった。
「アコード辺境伯。近衛騎士団第三隊所属ハミル・エイゼンです。セアラ・ディパンド嬢に同行してまいりました。宰相閣下より先触れがされている事と存じます。お迎えいただき、状況をお聞かせください。」
「なんの状況か。」
父が突き放したように問うた。若い騎士なら辺境伯の貫禄には恐れを持つはずだ。
だが彼は少し驚いたように目を見開いただけだ。
「宰相閣下の先触れに、ありませんでしたか。」
父は返事を返さない。
エイゼンは少し困惑を示して聞く。
「アコード辺境伯、こちらでお世話になれないようでしたら、ただちに立ち去ります。」
あっさりと引き下がろうとする。
「随分早い到着だったな。」
父が言う。エミルと同じ疑問だ。
エイゼンは生真面目な顔で答えた。
「はい。」
それ以上答えない。怪しい。
沈黙が降りた。
この若い近衛騎士はどうするだろうか。エミルに気づき、助けを求めてくるだろうか。
けれど彼は少し困惑を表しただけで、父しか見ていなかった。
「アコード辺境伯。残念ですが、我々は引き取らせていただきます。お忙しいところを失礼いたしました。」
敬礼をすると背を向けた。
「待たれよ。」
父が声を上げた。
そうだ。勝手に行かれては困る。
「ディパンド嬢には尋ねたい仕儀あり。馬車を降りられよ。」
エイゼンが振り向いた。
「恐れながら、アコード辺境伯、ディパンド嬢にお尋ねになりたい事とは何でしょうか。」
「ディパンド嬢は、おわかりのはずだ。」
「尋ねてまいりましょう。」
「お願いしているわけではない。降りよと申している。」
アコード辺境伯の厳しい声、厳しい表情。
けれど彼は全く危機感を見せないまま、言った。
「お伝えしましょう。」
馬車への戻って行く足取りにも焦りはない。ゆったりしたものだ。このアコードであんなにのんびり歩く者はいない。辺境の大変さは近衛にはわからない。
エミルは、父にだけそっと言う。
「彼らは、セアラ・ディパンドが怪しい動きをしていることを知らないのではないですか?」
「そうかもしれない。だが、油断は出来ない。」
エイゼンが戻って馬車の窓に向かって話している。
騎士は、三人とも囲みに背を向けている。アコードが害をなさないと信じているのか。
ずいぶんと待たされた。短かったのかもしれないが、風の音ばかりが耳につき、ひどく長く感じた。
この間にエミルの五人の従兄弟も囲みに入って来た。あの一行が見える場所で前列に出ている。
馬車のドアが開いた。
やっと降りる気になったようだ。
まず黒髪の女性が降りて来た。若く美しい。濃いグレーの外套が黒髪に似あっている。
もうひとり、降りてくる。
赤毛だ。この女性も同じような色の外套を着ている。黒髪の女性より年長のようだ。ゼフィルの妹ではないだろう。
では、先におりた黒髪の方がセアラ・ディパンドかと思った時だった。
三人目が現れた。
思わず見入ってしまった。
金色の髪が陽射しを明るく受け止めていた。馬車から下り、こちらを振り返る。その所作が美しい。先程の女性と同じような色の外套を着ているが、目を奪われる。そしてこちらを向いた顔。こんなに美しい女性を見たことがなかった。
笑顔はない。小さくこちらに会釈した。
彼女がセアラ・ディパンドか。
エイゼンがまたこちらに歩いて来たが、馬車からそう離れることなく、声を張り上げた。
「アコード辺境伯、ディパンド嬢は、辺境伯はご婦人に足を運ばせるような無粋な真似はされないはずと仰せです。」
父が不機嫌そうに息を吐いた。
通常なら、馬車寄せにつけて迎える。今回は不信感がこの距離を生んだ。
突きつけてやれる証拠があれば簡単だが、しらを切られたらおしまいだ。
今の時点では、アコードの方が無粋だということになる。
しかし向こうは、こちらの要求を飲んで馬車をおりたのだ。やましいことがなければ、ご婦人がこんな状況で馬車を降りるわけがない。
エミルは自分にそう言い聞かせる。女の顔に惑わされている場合じゃない。
父が大股で歩く。先ほどの近衛とは違う。アコードの速さだ。エミルもそれに続いた。
エイゼンはすでにセアラ・ディパンドの近くに戻っている。
先程エイゼンが声を張り上げた辺りで、父は足を止めた。
すぐにエイゼンが紹介を始めた。
「こちらがルイド・アコード辺境伯です。後ろにおられるのは、アコード辺境伯のご子息エミル殿。」
エイゼンはエミルの事などまったく眼中にないような顔をしていたが、ちゃんと覚えていた。満足感を覚える。
振り返って、今度は自分たちに彼女を紹介する。
「アコード辺境伯、セアラ・ディパンド伯爵令嬢です。」
美しいが、笑わない。
大柄な強面の男二人に見降ろされれば、たいていの女は表情に怯えをのぞかせるものだ。しかし彼女は、落ち着き払って、静かにこちらを見た。
それから思いのほかよく通る声が響いた。
「初めてお目にかかります。アコード辺境伯、アコード卿。宰相閣下は、私たちが出立の日しかお伝えしていないようですね。」
父の後ろにいたため、どんな表情を彼女に見せているのかはわからないが、決して友好的ではないはずだ。恐れない彼女に眉をひそめたくなる。
宰相の手紙が簡潔な事も気づいているようだ。やはり警戒心が湧く。
「お聞かせ頂きたいことがある。」
父が切り出した。
「屋敷にお招きしよう。ひとりなら供を連れて来られてもよい。」
セアラ・ディパンドは返事をしなかった。視線も外してしまう。
赤毛の女性が、エイゼンに何かを耳打ちした。それに頷き、彼が話しだす。
「アコード辺境伯、未婚のご令嬢は、侍女なしで、そして護衛役となる者抜きで、初めてのお宅を訪ねることはありません。」
初歩的な礼儀だ。エミルはふいに顔に熱が集まった。
田舎者だと言われたも同然だ。
だが、父は動じなかった。
「もとより、侍女は頭数に入っておらぬ。」
すっとセアラ・ディパンドの視線が戻って来た。
ぎくりとした。何かがさっきと違う。
目だ。視線の強さだ。突然、彼女が態度を硬化させた。
淡々とした声が彼女から出る。
「残念ですが、旅の先を急ぐ身です。ご招待は遠慮させて頂きましょう。ごきげんよう。」
セアラ・ディパンドは切れのある所作で背を向けてしまう。
馬車のドアが大きく開けられた。
気まぐれで行動されてはかなわない。エミルの足が思わず一歩出そうになった時だった。
父の声が彼女の背を追った。
「都合の悪いことでもあるのか。」
セアラの足が止まる。ゆっくりと振り返った。そして変わらず落ち着いた声が言った。
「アコード辺境伯、思わせぶりな言い方はやめて頂きたく存じます。お聞きになりたいことがあるなら、今どうぞ。」
「では聞こう。」
父が二歩、前に出る。
周りの兵や騎士たちの囲みが小さくなってきていた。風向きや馬車に邪魔されない位置によっては、話が耳に入っているだろう。
けれど父は躊躇わなかった。力強く断罪するように告げた。
「ザッハ砦の事だ。」
セアラ・ディパンドの表情が、一気にうんざりしたものに変わった。
これはどういう反応だ。罪を見破られたと、認めるのか。
彼女は目を閉じ、一つ大きく息をついている。それから視線を上げ、初めてまわりを囲む者たちを見た。けれど、やはり恐れは見せない。出て来たのは、冷たい声だった。
「ザッハ砦のなんですか?」
「わかっておられるだろう。」
父の声に不審が増している。険しい顔になっているだろう。
だが、セアラ・ディパンドが怯むことはなかった。
そして、エミルは気がついた。彼女と共に来た者たちが妙な顔をこちらに向けている。
騎士三人は視線を上に、それぞれ違う方向へ向けている。黒髪の侍女は澄ました顔をしているつもりだろうが、口の両端が上がっている。赤毛の侍女は何かをあきらめたかのように眉尻を下げている。
なんでそんな顔を向けられるのか、エミルがそう思った時だった。
セアラ・ディパンドが一歩動いた。
まわりを囲む者たちの方へだ。
「ザッハ砦について聞かれました。」
女性としては低めの声は、腹から出ているのがわかる。良く通る落ち着いた声だ。言いながら、兵と騎士たちを見まわしている。
質問したのは父だ。彼女は何をするつもりなのか。
「ザッハ砦は、アディード歴六五六年に建てられました。」
は?
なんだそれはと、エミルは少し驚いて、彼女の後ろ姿を目で追う。
セアラ・ディパンドは話しながら更に数歩彼らに近づくと、今度は兵たちの円形に沿ってゆっくりと歩を進める。エミルたちとは反対方向だ。
「正式名称は『前哨砦』です。その二年後六五八年に、我がアコード王国とリザル王国の間で戦争が起こります。我々は、戦場となった、ここアコードの名を取り『アコード戦役』と呼んでいますが、リザルでは『アディード第二次戦役』と呼ばれています。さて、ではどうしてリザルでは『第二戦役』なのでしょうか。」
ぴたりと足を止めたのは、騎士の前だった。
この感じ、覚えがある。家庭教師に質問されるのに似ている。
セアラ・ディパンドに、真ん前に立たれた騎士は少しのけぞっている。彼女がゆっくりと聞く。
「どうして、リザルでは『第二戦役』なのでしょう。」
騎士が顔を引きつらせて二、三度口を開け閉めしてから、やっと小さな声で答えた。
「その時の、リザル王の二度目のアディード攻めだったから。」
「そうです。さすがアコードの騎士、これくらいの事は知っていて当然ですね。その王の名は。」
言いながら、セアラが歩く方向を変え、兵たちを見る。全員が目を逸らした。彼女は構わず続けた。
「ゲンゼンです。『第二戦役』は、アディードの王が変わったばかりの頃を狙われました。最終的には、この戦争では国境は動かず終わりましが、アディード優勢になりかけた時、リザルの役に立ったのが『ザッハ砦』です。『前哨砦』の名にふさわしい役目を果たしました。その時、この砦の隊長だったのがザッハと言う名の騎士です。今、私たちも、リザルの人たちも当たり前のように『ザッハ砦』と呼んでいますが、正式名称は変わっていません。『前哨砦』です。興味深いと思いませんか。たった四十年程で、私たちは正式名称ではなく、かつて敵だった騎士の名で、あの砦を呼んでいるのです。」
また一人の騎士の前でぴたりとセアラ・ディパンドが足を止めた。エミルの、ひとつ年上の従兄弟の前だった。
「どうして、正式名称で呼ばないのでしょう。」
問われて、従兄弟は堂々と答えた。
「その騎士の見事な働きぶりに、敵ながら称える価値ありと思えたからでしょう。」
「なるほど。とても騎士らしいお言葉です。たとえ敵であろうとも、見事な采配をみせたなら尊ぶべきということですね。では、何故通称のままなのでしょうね。」
セアラ・ディパンドはそこまで言うと、また向きを変えて歩き出す。
「それだけの働きをしたのなら、リザル王は、砦の名を『ザッハ』に変えてもいいと思いませんか。今や通称の方を誰もが使っています。勇気ある者を称え、何十年も経ってから、通称を正式名称にする例は、歴史上いくつもあります。リザルにも、アディードにもです。だけどそうではない。」
立ち止まった。ちょうど最初に歩き始めた場所だ。
「何故か。」
言いながら、ゆっくりと馬車を囲む人々を見る。誰も彼女と視線を合わせようとしない。
そんなこと考えたこともない。エミルも心の中でこっちを見るなよと思ってしまった。
けれど、こういう時に限って敵はこちらを見つけるものなのだ。
こちらを見たセアラ・ディパンドに、父が先制攻撃をした。
「私が聞きたいのはそんなことではない。」
セアラ・ディパンドが大きなため息をついた
「よく考えてください。あの砦の目的を。何のためにあるのですか。ベグニタ城砦のためでしょう。」
息が詰まった。エミルの胸に、何かとても大きなことを見落としているのではないかという焦燥感がせり上がって来る。
「ザッハ砦はベグニタ城砦の前哨の要。ベグニタは築二八七年、前回の大補修は八七年前です。そろそろ、あちらこちらに不都合が出ているでしょうね。」
まさかベグニタ城砦を増強しているのかと、今度はエミルの背筋に冷たいものが走る。
「ザッハ砦の話をしている。」
父の厳めしい声が、エミルの心を平常に戻してくれた。
「正式名称『前哨砦』ですわね。」
セアラがそう返したのに、とうとう父が怒りをあらわにした。
「どうしてザッハが増強されていることを知った! お前はリザルの間諜か!」
相手が女でなければ手が出ていそうな勢いだ。
普通の女なら逃げ出しているだろう。
けれどセアラ・ディパンドの態度は変わらない。どうしてそう平然としていられるのか。疑問に思った時だった。
馬が近づく音が聞こえた。すぐに祖父だとわかる。
「何をしている!」
大声が響き渡った。
囲いが開かれる。
馬を降り、側にいた者に手綱を預けると、祖父が驚きを隠さずやって来た。
「セアラ? セアラ・ディパンドか? どうしてここにいる。」
エミルは父を見やった。父は祖父の姿に気づいたとたん、口を閉ざしてしまった。
「お久しぶりです。アコード伯爵。宰相閣下からの先触れ、ご覧になっていませんか?」
「宰相?」
祖父が訝しげに父をみる。父が何も言わないから、エミルを見てくる。
もう、エミルも祖父を真っ直ぐには見ることが出来ない。
鋭い眼力で自分たちを見てから、祖父はご婦人に視線を和らげて聞く。
「宰相がセアラの先触れを出す、ということは、殿下の件か。なるほど、これは面白い考えだ。」
楽しげにいう祖父に、セアラは無愛想に言う。
「おっしゃっている事の意味がわかりません。私たち、四日でここまで来ましたのよ。どれほど疲れているかお察しいただきたいものです。」
「四日で来たのか?」
祖父が驚いている。
「はい。正直に申し上げて、もう倒れそうです。ですのに辺境伯は、ザッハ砦のことをどうのこうのと持ち出され、私のことを間諜だと言われるのです。」
「間諜? セアラが? 間諜?」
祖父が笑いながら言っている。
父が、肩を怒らせて声を上げた。
「ではどうしてザッハ砦の増強のことを知っていたんだ。」
祖父が笑いを納めた。
「そうだな。それは私も聞きたい。」
セアラがこめかみに手を当て、ため息をついてから、父に感情の見えない目を向けて言ってきた。
「ならば私もお聞きしたい。ザッハ砦が増強されていると知っていて、王都の大将軍に知らせがないのは何故ですか?」
エミルは息を飲みかけた。なんとか平静を装う。
どうして、そんな事を知っているのだろう。
思いながら、彼女の弟ハルジェス・ディパンドに、父が律義にザッハ砦の様子を知らせる手紙を書かせていたのに気づく。
大将軍はすでに知っていると言うことか。
祖父が、父を睨んでいる。父の表情は、後ろにいるエミルにはわからない。
突然セアラが、あぁと何かを思い出したように小さく言って、また囲んでいた者たちに向かって数歩進んで話しだしだ。
「先ほどの騎士殿のザッハ砦の名に関するお考え、敵に対しても敬意払うお気持ち、潔いと思います。けれど『ザッハ砦』と呼び続ける事で、ただの小さな見張り役砦だとしか思えなくなっていませんか。ベグニタ城砦の前哨砦であることを忘れていませんか。ベグニタ城砦の現状を把握できていますか。」
他の者はどうか知らない。父が何か手を打っていたかもしれない。けれど、エミルはベグニタ城砦のことは考えていなかった。目の前のザッハの増強の意味にばかり気を取られていた。
セアラの語りかけは終わっていない。
「どうすればいいか、考えてください。」
それから後ろに下がり始めた。
「みなさん、お仕事、頑張ってください。」
セアラを見ていた者たち全員が、虚をつかれたような顔をした。
こちらに向かって不機嫌そうな顔で歩いてくるセアラの背を、全員が目で追っている。エミルは、この時セアラ・ディパンドが微笑んだのだと後で聞いた。
「アコード伯爵。」
セアラが祖父に呼びかけた。
「私たち、今夜はアコード城でお世話になるつもりでいました。」
そうして、恐るべきものをこちらに向けて来た。エミルは思わず一歩下がってしまう。
「どうかそのまま動かないでください。私たちは旅の目的も、命じた方も明かせません。」
セアラ・ディパンドがこちらに向けた左の掌に、国王陛下の紋章を刻んだペンダントがあった。陛下の勅命によって行動をしている証だ。
父の顔が見えなくて良かったと思う。彼女を間諜だと告発したのだ。王の勅命を受けた者をだ。どれくらい問題になるのか、見当もつかない。
「伯爵。」
セアラは掌を下げると、もう父は見ず、祖父だけを見上げた。
「私たちの安全を、伯爵が保証して下さい。お屋敷で休ませていただけますか?」
問いかけに、祖父が大きく頷き、まわりに聞こえるように、朗らかに声を響かせた。
「歓迎しますぞ。セアラ・ディパンド伯爵令嬢。そして、ご一行の方々。ここまでは、少々出来の悪い余興だったとお許し願いたい。ようこそアコードへ。我が屋敷にご案内しよう。」
祖父はもう当主ではない。
言葉通り、本邸ではなく、祖父が今住んでいる別邸に彼女たち一行を案内してしまった。
どれくらい、まずい状況なのだろう。
エミル・アコードはその先を考えられなかった。




