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捨てらない約束

 金色の髪、茶色の目、優しい笑顔を持ち、美しく聡明で物静か。

 完璧な淑女。

 誰もが、公爵令嬢ヴィエラ・オルゼナをそう評する。

 ヴィエラだって、不機嫌なときはあるし、我儘も言う。仮病を使ってお茶会を突然欠席したことだってある。

 けれど、どうやらそういうことは誰でもするようだ。問題になったことは一度もない。逆にとても心配されて終わる。

 子どもの頃から、ヴィエラは、厳しく躾けられ、王妃の座を意識させられていた。

 次代の王の妃は、アディード王国の貴族からと、王家と貴族院との約束が出来ている。

 二代続いて他国の王女が王妃となっていた。

 王族はアディールドの人ではなくなったという庶民の冗談から始まったその考えは、貴族たちにちょっとした疑心暗鬼を呼んだ。それで、王家と貴族院で契約が結ばれたのだ。

 ヴィエラは、次代の王となる第一王子カディールと同い年だ。

 身分も問題ない。

 その上、カディール王子の方が積極的にヴィエラと居たがるので、対抗しようという令嬢は早々にいなくなった。

 カディールが嫌いなわけではない。

 だけど好きでもない。

 だからヴィエラは、ほんの少し反抗してみた。王立学院に通い始めたのだ。貴族女性として好まれない高等教育を受ければ、王妃候補から外されるかもしれないと思ったからだ。

 でも問題にはならなかった。

 王妃には広い見識が必要だとかで、黙認されてしまった。

 大人は都合よく話をつくる。

 逃れようがない状態になっていた。

 カディールはヴィエラを『運命の人』だと言う。でも嬉しいと思えないのは、気に入られているのがヴィエラの顔だけと、気がついているせいだ。

 見かけが美しいこと。従順なこと。

 それがカディールの『運命の人』の条件のすべてだ。

 美しい令嬢なら他にもいる。例えばセアラ・ディパンド伯爵令嬢。

けれど彼女は五才の時、声掛けをせずに、ぴったりと隣に座ったカディールに頭突きをした。内宮始まって以来の珍事である。誰もが凍りついたその場で、笑いだしたのは王妃と第二王子レンカートだ。幼い子供のした事と許されて、それからも内宮に遊び相手として召されたが、カディールはそれ以来セアラが苦手だ。

 もしセアラがもっと大人しい、優しい振る舞いをする令嬢だったら、カディールは彼女を選んでいたかもしれない。

 あるいは、自分がセアラのように思い切った行動をとれていたら、王妃の座に追いつめられることはなかったかもしれない。

 仕方がない。

 結婚が、自分の望み通りになるとは思っていない。相手がカディールでなくても、親が決めた好きでもない相手に嫁ぐことになるだろう。


 七年前の夏の終わり。

 十五歳だったヴィエラは、自分の運命を受け入れようとし始めていた。

「本当の恋をしていない気がする。」

 夕涼みに出ていた庭園の東屋で、カディール王子がつぶやいた。

 初め、ヴィエラは何を言われているのかわからなかった。それから、心の中にざわめくものが生まれた。

 これを怒らずにいられるだろうか。

 散々ヴィエラを追いかけて来ておいて、本当の恋をしていないと聞かされるとは、どういうことか。

 手が出てしまったのは、セアラがカディールに頭突きをした時のことが忘れられずにいたからかもしれない。

 あれくらいはっきり意志表示がしたかった。

 ヴィエラは隣に座っていたカディールの頬をつまんだ。

「ヴィ、ヴィエラ?」

 驚いたカディールの声に、慌ててヴィエラは手を離す。生まれて初めてこんな乱暴な事をした。

 でもこれでカディールの熱が冷めるかもしれないと少し期待した。

 甘かった。そこには他に三人いた。

 セアラの扇が、カディールの頭に打ち落とされて、いい音が鳴った。

 レンカートが、カディールの向こうずねを思いっきり蹴りあげていた。

「殿下、心にもない事を言わないでください。」

 カディールの向こう側に座っていたゼフィルが静かにお説教を始めた。

「やっぱりヴィエラが一番優しいよね。」

 結局、そこに落ち着いてしまった。

 けれどその時ヴィエラは思ったのだ。

 いつかカディールが、『本当の恋』をしたと言いだす時が来るのではないかと。

 

 その、カディールの『本当の恋』は、リザル王国にあったようだ。

 留学中のカディールに宛てた手紙への、返事がなかなか届かなくなった。

 ヴィエラに、カディールとリザル王国のローザ王女との噂を教えてくれる、親切な人達は大勢いた。その度に、ただの噂でしょうと微笑んで返しつつ、強い憤りが湧きあがるのを必死でおさえた。

 カディールに恋をしていたわけではないが、彼が、婚約者である自分に対する義務を放棄したことが許せない。

 淑女として完璧であるようにと言い聞かされてきたヴィエラが、怒りを表しても大丈夫な相手はひとりしかいない。

 王子相手でも容赦のないセアラ・ディパンド。

 彼女の私室に、ふたりきりでこもって、ふたりで怒った。その時間がなかったら、ヴィエラは婚約を破棄して欲しいと騒ぎを起こしていたかもしれない。



 春一月十二日、夜。

 ヴィエラと父、オルゼナ公爵は、内宮の王の私室のひとつに招かれた。

 カディールが帰国していないという話はすでに聞いている。

 父は、何が起っているのか詳しく説明してもらえるのだろうと言っていた。

 案内された部屋のドアから室内が見えた時、ヴィエラは思わずたじろぎ、足が止まった。

 国の重要人物が揃っていたのだ。

 テーブルはなく、ソファや椅子が円を描くように配置されている。

 一番奥に国王夫妻、王のもう一方の隣には王太后、その並びに王弟夫妻が座っていた。王妃側は第二王子レンカート、その妹王女リリエルがいる。ヴィエラから見て一番手前の左側、王弟妃の隣に宰相、右のリリエル王女の隣に大将軍。

 この方々を前にしたら、眠っていても出来そうな型通りの挨拶でも緊張する。

 なんとか乗り切って、用意された椅子に座った。ヴィエラの隣は、厳めしい顔をした大将軍だ。これでこの場にいる人達は、完全に円を描くことになった。

「見当はついていると思うが、カディールの事だ。」

 目の前にいる国王陛下、自らが本題を切り出した。

「手紙を送って来た。ローザ王女と結婚したいと言っている。もちろん許さない。」

 短い言葉の連なりに、ヴィエラはただ唖然とした。

 つまりカディールが本気で心変わりをしたということだ。けれど予定通り結婚しなければいけない。

 王妃が心配そうな顔で話しかけてくれた。

「ヴィエラ、こんなことをあなたに話さなければいけないことを、とても辛く感じています。けれどもう、すべては決まっていることです。強い気持ちを持ってくれることを望みます。」

「もちろんです。王妃さま。」

 答えたのはヴィエラではない。父、オルゼナ公爵だ。

「すべての儀式の準備は始まっています。ヴィエラに不都合はございません。」

「オルゼナ公爵に万事心得て頂けているとわかれば、何も問題はありません。」

 宰相はいつも通りの静かな面持ちで父に軽く頭を下げる。

 大将軍が父を見た。

「どうかご心配なきよう。カディール殿下には無事にご帰国して頂きます。」

「大丈夫なのですか?」

 少し眉を寄せた父に聞かれ、宰相が答えた。

「陛下からのお返事があれば、殿下もご理解なさるでしょう。」

 ヴィエラの心の中を、ゆっくりと怒りが占めて行った。息苦しささえ感じる。

 これは一体何なのだろう。

 ヴィエラの頭越しに話が進む。誰もヴィエラの言葉を聞こうとしない。

 カディールがこんな騒動を起こすかもしれないとは思っていた。けれど今感じている怒りの相手は、ここにいる人達だ。

 王妃は言葉をかけてくれた。けれどヴィエラの返事がいらないのなら、こんな場所に呼び出されたくなかった。

 元々勝手に決められた結婚だ。勝手に後始末をして、結果だけ知らせてくれればよかった。

 視線を落とし、俯きかけた時だった。

「誰が行くのですか?」

 まだ十四才のリリエル王女がそう尋ねた。

「誰が、兄上に、陛下のお返事を持って行くのです?」

 ヴィエラの視線が思わず上がった。まさか自分に行けとは言わないだろうが、集まった人々すべてを視界に入れる。

「そのようなご心配は無用です。リリエル王女、お任せください。」

 宰相が微笑みを浮かべている。

「言えないのは、決まっていないと言うことですか?」

 さすがは王女。宰相といえども臣下だ。恐れることなく問いただしている。

 そこに王弟妃も入って来る。

「確かに聞かせて貰えなければ安心できませんわ。内密に進めるのでしょう。信用できる人物でなければ。」

 王太后が、宰相と大将軍を順に見ながら言った。

「私は、宰相と大将軍が使者を決めるとしか、まだ聞いていませんよ。決まったのですか。」

 宰相は笑顔を崩さないまま、王女と妃たちに頭を下げる。

「ご心配には及びません。お心安らかにお待ちください。」

「ローゼル侯爵。」

 王妃が宰相の名を呼んだ。声は静かな声だが、厳しい目が宰相に向けられている。

「心配せずにいられるとお思いですか? 私がリザルの王女であったことが、そなたの口を噤ませるのなら、席をはずしましょう。皆に説明をしなさい。」

 早々に立ちあがろうとした王妃を、国王がそっと手で制した。

 口を開いたのは国王の弟だ。声は冷たい。

「説明をせよ。宰相。適任者を見つけると言ったのは君だよ。時間がないのはわかっていたことだろう。」

 宰相が、大将軍を見た。けれど大将軍は壁を見たまま動かない。

「決まっていないのね。」 

 そのふたりを遠慮なく見比べていた王女が、決めつけて追及する。

「お兄さまと一緒に入るのは、三人の学友だけじゃないでしょう? 護衛についているのは貴族出身の近衛騎士だし、従僕も貴族ばかりよね。かなりの年長者もいたはずよ。アコード辺境伯も尽力してくれているのに駄目なのでしょう。意見できる人がそれだけいるのに、連れて帰れないなんて、お兄さまは相当頑固に言い張っているということだわ。今、王城は儀式の準備でどこも人手不足よ。お兄さまに影響力があって、しかも内密に動かせる人なんているの?」

 王女の疑問は、ヴィエラの疑問でもあった。言ってもらえて、怒りで一杯だった頭が少し冷えて来た。

 もしかして、本当にまだ何も決まっていないのではないか。

「陛下のお返事があれば、殿下は納得されるはずです。」

 宰相の顔にもう笑みはなかったが、真摯さだけは感じられる。ただ返事はずれている。

「まさか陛下がお手紙を書かれるなどとは思っていないでしょうね。」

 王太后が指摘した。

 本当にまさかだ。こんな醜聞に陛下手ずからのお手紙など残せない。

 宰相の顔色が悪くなってきた。

「使者を送るには、それなりの理由が必要です。そうでしょう。大将軍。」

 とうとう話を大将軍に投げた。

 代将軍は、最初の厳めしい表情を変えることなく言う。

「陛下のご命令あっての我らです。」

 やはり何も決まっていないのだ。新たな怒りがヴィエラの胸の内に起る。

 一体何のために自分を呼び付けたのか、気持ちを強く持てと言いたいだけだったのか。説明をして安心させてくれるためではなかったのか。安心しろと言われただけで、その通りにできると、本当に思っていたのだろうか。

 根本的な問題が明らかになったところで、国王陛下が口を開いた。

「カディールの国境超えを手助けする者を、今、決めよ。」

 陛下の声がいつもより低い。自然とヴィエラの背筋が伸びた。それはヴィエラだけではないようだ。

 皆が王を見つめたままだ。

「カディールの旅程における全権を与える。」

「全権、ですか?」

 大将軍が聞き返している。

 全権とはどれほどの範囲を示すのか、ヴィエラは考えをめぐらす。この場合、カディール以外に、同行者に命令を与える人が出来るということだろう。

「責任もその者に負わせる。」

 これ以上旅程が伸びれば、カディールでなくその人が責めを負うことになる。

 内密の話なのに、責めを負うもないものだわと、ヴィエラは思いつつなりゆきを見守る。

「適任者がいますか?」

 王太后が尋ねる。その目は、宰相と大将軍だけでなく、父のオルゼナ公爵にも向いている。

 いるだろうか。

 ふたつの大きな儀式を前に、忙しくしている人たちがほとんどだ。急に姿を消しても怪しまれず、秘密を守れて、全権に溺れず、責任を負う覚悟を持ち、カディールに影響を持つ人物。

 ヴィエラの頭の中に、幼い日の内宮の庭の記憶が浮かんだ。

 カディールに頭突きをして、怒った顔をした女の子。以来カディールが苦手としている相手。そして誰よりヴィエラのカディールへの気持ちを知っている人。

「セアラ。」

 口からこぼれ出てしまった。部屋中の人の注目を浴びてしまう。

 こんな出過ぎたことをヴィエラは今までしたことがなかった。思わず息がとまる。

 でも、中途半端には終わらせられない。

 謝って引き下がるか、言い切ってしまうか。

 答えはすぐに出た。

 ヴィエラは、誰とも視線を合わせず、大きく息を吸った。

「ディパント伯爵家のセアラが、適任と考えます。」

 後者を選んだ。

 国の重鎮の前で、自分の意見を言える機会はもうないかもしれない。それなら自分らしい提案をする。

 緊張のあまり、涙が出そうだ。必死で堪えた。いつもの優しい笑顔の侯爵令嬢ではない。口元を引き締め、緊張で肩が強張っている。

 隣にいた父が、自分から体ごと引いているのがわかった。

 沈黙が、不思議なほど長く続いた。

 そして、その場の人々が顔を見交わし始める。

「彼女なら、武力にものを言わせることは絶対にないな。その手段がない。」

 最初に肯定するような事を言ったのは、王弟殿下だった。

「今回の件は、誰が任を得ようと武力には訴えません。」

 それに反論した大将軍の声は、さっきまでと違い、どこか力が抜けていた。

 そこへリリエル王女が独り言めかして言った。

「お兄さま、セアラによく殴られてたわよね。」

 王弟妃が訂正を入れる。

「それは誇張しすぎですわ。軽く後ろ頭を叩かれていたくらいでしょう。」

 どこか遠い目をして王妃が言った。

「私は、扇で叩かれているところを見たわ。」

 王太后は微笑む。

「少々乱暴なのは、カディールに対してだけのようですから、そこはいいとしましょう。」

 いいのですか王太后さまと、心の中でヴィエラは思うが、誰も駄目でしょうと言わない。

 ただ宰相だけが疑問を呈した。

「未婚の令嬢に全権を渡すのですか。もし外に漏れたら、陛下が殿下にお手紙を出されて、それを知られた場合より醜聞になりませんか。」

 大将軍が呆れて言う。

「そのご令嬢を学者にしたのは宰相でしょう。」

「あれは事故です。」

 さらりと言い逃れてる。

「儀式のために、皆、忙しくしていますからね。」

 言いながら、王太后が、集まった人々の顔をゆっくりと見渡した。

「名のある者たちは、誰が動いても、周囲の注意を引く。けれどセアラなら問題はない。丁度、内宮の行儀見習い侍女期間が終わり、儀式に関して何の担当もない。実家でゆっくりと過ごしていると皆思っているでしょう。」

 これは本当にセアラに決まってしまうのではないか。

 あのセアラが何と言うか。ヴィエラの心に焦りが湧いてきたが、出してしまった提案を、なかったことにはもう出来ない。

「ご令嬢に、急ぎ仕事が出来ますか?」

 大将軍は真面目に検討している顔をみせた。

 王太后の顔が曇る。

 時間がない。それも大きな問題だ。カディール抜きでは進まない準備が待っている。

「責任は、迎えに行く者だけしか負わないのですか?」

 それまで何も言わなかったレンカートが、唐突に話を戻した。

「どんなに急いでも、もう王都到着予定には間に合いません。その責任は今、兄上の側にいるものがとるべきでしょう。」

「留学に同行した者たちを退任させよと?」

 仕方がないと思っているのだろう。宰相の問いはただの確認に聞こえた。

「いいえ。」

 レンカートが否定する。

「兄上が起こした騒動は、全部なかったことにするのでしょう。旅程はアコードを経由して帰って来ると言う以外、非公開です。到着日を知っている者もいませんから、退官をさせる理由がありません。けれど『学友』は役職ではありませんから、退いてもらいたい。」

 確かに一番近くにいて助言ができるのは学友たちだ。

「それでゼフィル・ディパンドが学友でなくなれば、セアラを私の妻に迎えることに障害がなくなります。」

 ヴィエラはまたもや唖然とさせられた。

 その場の全員が言葉を失って、レンカートを見ている。

 今、何の話をしていたのか、一瞬見失う。

 ゼフィル・ディパンドは忍耐強い人だ。このままカディールの近侍になり、将来は侍従長にと嘱望されている。

 もしレンカートが本当にセアラを妻に迎えたいのなら、兄であるゼフィルの侍従長への道は閉ざされる。王家に嫁いだ方の家は、その方が亡くなるまで要職につけないからだ。

 でも何の非もないゼフィルを退けることは出来ない。しかし彼がカディールに仕え続けるなら、レンカートとセアラの縁談の成立は難しい。

 話がねじれて、ヴィエラには何だかおかしなことになっているように感じた。

 そう思うのはヴィエラだけではなかったようだ。

 大将軍は、表情こそ変えないが、困惑が少しばかり声にでている。

「恐れながら殿下、何やら話が混乱しておりませんか?」

 同じような声で宰相が続く。

「ゼフィル・ディパンド卿の責任問題はともかく、セアラ・ディパンド嬢は、問題の多い方です。殿下のお相手としては如何なものかと存じます。」

「問題がある方がいいでしょう。」

 レンカートは淡々している。重大な話をしているはずなのに、気負った様子が見えない。

「リザルなど、王太子が決まってもまだ王位継承権を競っている者たちがいる。今回で兄上は随分と評判を下げただろう。私も同じように下げないと、いらぬ争いが起らないとも限らない。」

 妙な理屈だと思うが、変に説得力も感じるのは何故だろう。

 カディールに軽い言動が多すぎるせいだと、ヴィエラは少し遠いところを見てしまう。

 大らかなカディール殿下は人に愛される王子で、冷静なレンカート殿下は人望がある王子だ。

 王の資質を論じ始めたら、果てしなく拗れる気がする。

「私には、詭弁に思えます。」

 宰相が毅然とした態度で異を唱えた。けれどレンカートは怯まない。

「では、セアラが役目を見事果たしたならどうだ? 出立後十日以内に兄上が帰ってきたら、セアラを私にくれ。」

「ですから、詭弁だと申し上げています。」

 宰相の声が少々大きくなったところで、王妃が扇を開いた。

 美しい細工の入ったそれが、王妃の顔を隠してしまう。

「私はレンカートに賛成します。」

 顔は見えないが、声に笑みがにじんでいる。

「陛下のご意見はいかがでしょう。」

 いきなり国王陛下の裁可となった。

 その答えも待つことなく帰ってきた。

「伯爵家の娘なら問題はない。」

 陛下の表情にも特に変わりはない。

 眉を寄せたのは宰相だ。

「ディパンド嬢ですか? セアラ・ディパンド嬢なのですか?」

 額に手を当ててしまった。

 王弟が楽しそうに言った。

「条件付きだろう。セアラには、レンカートとの話は言わないでおく。それで、十日以内にカディールを王都へ帰らせたら、レンカートの評判を落とそう。」

 大将軍がとうとう表情を変えた。呆れている。

「賭けで妃殿下をお決めになるのですか?」

「資質を見る、ということでしょう?」

 王弟妃は、夫と同じようににこやかだ。

 リリエル王女が、兄のレンカートの方に身を乗り出した。

「セアラが、役目を引き受けるとは限らないでしょう? 賭けなどしたら、不利ではないの? いいの? お兄さま。」

 それには王太后が答えた。

「引き受けるのではないかしらね。ディパンド伯爵は真面目だから、王命なら否とは言わないでしょう。」

 ヴィエラは、呆然とした面持ちでそれらを見ていた。

 自分の一言から始まってしまったことではあるが、思わぬところに連れて来られた気がする。

 知ってはいた。レンカートがセアラを好きなこと。セアラもレンカートを好きなこと。だけどふたりは想いを打ち明けあってはいないことも。

 これでいいのかしらと、自問するが、答えは出ない。

「明日の夜、もう一度この場にて会おう。明日は、ディパンド伯爵とセアラも呼ぶように。」

 陛下が結論を出し、席を立つ。

 反射的にヴィエラも立ち上がる。退室する陛下に深く腰を落として礼を示す。

 王族の方々が次々とその後に続かれ、その場には、宰相と大将軍、父とヴィレラだけになった。

「ディパンド嬢に行ってもらうとなると、侍女をつけなくてはいけないな。護衛役侍女がふたりほど必要か。護衛役は近衛から選出済みだが、馬車も使うことになるのは想定外だ。すぐに手配しよう。」

 大将軍が実務的な話を始めた。

 宰相が不機嫌を隠さずに、大将軍を見る。

「彼女を妃殿下にすることに手を貸すつもりか。」

「十日で帰ってこれるか? 無理だろう。」

 あっさりと言い、大将軍は一歩後ろへ引く。

「では明日。ヴィエラ殿、公爵殿、大荒れの夜を覚悟しましょう。」

 軽く手を上げ、出て行ってしまった。

 セアラの名を最初に出したヴィエラは、宰相の顔が見ることが出来ない。けれど絶対に謝りたくない。自分の意志を表したことを悪いことだと思いたくない。

 すぐそばで深いため息をつかれたが、ヴィエラは固く口を閉じていた。

「妙案でした。」

 宰相の声に、嫌な気分は混じっていなかった。

 つい顔をあげてしまう。

 あきらめたような、けれどどこか優しい顔で宰相がヴィエラを見ていた。

「確かに、カディール殿下に厳しく出来るのは、王家の方と、儀式のために忙しくしている者たち以外には、セアラくらいしかいないでしょう。殿下の側には、兄のゼフィルもいる。もし、彼女が国境に向かっているのが知られても、兄を心配してのことだと押し通しましょう。」

 最初、全く自分を見ていなかった宰相が、今は自分に向かって話してくれている。

「明日の夜、セアラが荒れなければいいが。ヴィエラ様も、説得に協力して下さいますよう、お願いいたします。」

「はい。」

 情けないことに一言しか出てこない。

 それでも宰相は大きく頷き、公爵とヴィエラに頭を下げてからその場を去った。

 広い部屋で、父とふたりきりになって、やっとヴィエラは大きな息がつけた。

 けれどすべてが穏やかに終わったわけではない。出過ぎた事をしたと、父には叱責されるだろう。

「ヴィエラ。」

 呼びかけられ、ヴィエラは覚悟して父を見上げた。

 父は自分を見ていなかった。王家の人たちが通って行ったドアを見ている。その姿は、厳しいだけでなく、どこか悲しそうに見えた。

「王妃になれるか。」

 ヴィエラに不都合はないと自分で答えていた父が、そう聞いてきた。

 ここは内宮で、誰が聞いているかわからないのに。

 息を整えてから、ヴィエラは言った。

「婚約がととのう前に聞いて頂いていれば、違うことが言えたかもしれません。けれど今では何の意味もない質問です。」

 先に一歩踏み出す。

 今さら遅い。

 内宮の廊下を、ヴィエラは足早に歩いた。

 結婚が、自分の望み通りになるとは思っていない。相手がカディールでなくても、親が決めた好きでもない相手に嫁ぐことになるだろう。

 王妃になれるかですって?

 なってみせるわ。

 初めて前向きに思った。

 『本当の恋』をしているのは、セアラとレンカートだ。

 妬ましくなるくらい、うらやましいけど、手助けしてあげる。

 だからセアラ、義妹になって、私を助けて。

 ヴィエラ・オルゼナは、強い気持ちを瞳に込めて、口元を引き締めたが、それは微笑みになっていた。

 この夜から、ヴィエラは、従順なだけの淑女ではなくなった。


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