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理想郷で恋を編む  作者: 稲井田そう
天才の初恋
33/35

後悔しない明日と、もう戻らない昨日について。

 美術室を後にした私は、特に行く当てもなくオレンジ色に染め上げられていく廊下を歩いていた。大家先生は一人になりたいかと思って美術室を出てしまい、さらに階段までは一本道だからと歩いてきてしまったけれど、この後、正直どうしていいか分からない。


 ここで、誰かが美術室の展示を見に行くことを止めたほうがいいのだろうか。というか、やっぱり警察に通報すべきでは……悶々と悩みながら歩いていると、ふと校庭に真木くんらしきパーカーを着た生徒を見つけた。


 私は慌てて駆け出して、上履きから靴へと履き替え、校庭の中央、真木くんがいた辺りへと急いだ。けれど、看板を持っていたりする呼び込みの生徒や、食べ歩きをする人も多くて中々たどり着けない。やがて、この人だ! と思う背中を叩こうとすると、その背中に書いてある文字をみて絶句した。


「く、クラスパーカー」


 私が真木くんだと思ったその人は、クラスパーカーを着た他のクラスの生徒だった。四組、たしかに紫のクラスパーカーを買ったと言っていた気がする。私のクラスも作るか話になったものの、売上が赤字になったらクラスの子達から代金を徴収しなきゃいけなくなるし、そもそも衣装を着るからとナシになっていた。


 となると、真木くんと入れ違いに……? 一応たこ焼き屋さんをしているクラスのブースを覗いても、真木くんの姿は見えない。戻らなきゃ、と思って踵を返そうとすると、後ろから腕を掴まれた。


「めーちゃん、待って」


「ま、真木くん!」


 真木くんが、少し汗をかきながら私の腕を掴んでいた。「つかれた……なんで動くの……」と不満げな顔で、「ごめん」と謝る。でも、流石にどうして動いてたか、何をやっていたかは伝えられなくて口籠ると、「ああ、俺もごめんしなきゃ」と真木くんは頭を下げてきた。


「たこやき、買い方分かんなくてめーちゃん探してたんだ……だからまだないの。ごめん……」


 真木くんは自分の手を開いて、「なんもないの」と呟く。


「大丈夫だよ、これから買いに行こう? まだどこのお店も売ってるよ」


 そう言って、私は真木くんの腕を引いた。その瞬間、わっと声が上がる。


「風船だ! 綺麗!」


「バルーンリリースって今だっけ?」


「スマホ出さなきゃ、写真! 写真!」


 それまで、各々違う方向を見ていた人たちが、一斉に空を見上げた。空にはふわりと流れていくいくつものバルーンが浮かんでいて、風を受けて広がっていく。


「あれ、真木くん風船飛んでるね……」


「俺が飛ばした……」


「えっ」


「うそです……」


「真木くん駄目だよ! 疑われちゃうからそういうこと言ったら!」


「むぅ……」


 真木くんは、唇を尖らせた。そして手遊びをするように、私の手を握る。


「そう言えば、俺に言いたいことってなに?」


「え」


「昨日、明日言いたいことあるって言ったじゃん。もう今日になったよ。なに……」


「それは……ちょっと……」


 流石に、さっきの今だし、ここは人通りも多いし、言いづらい。私が口籠ると、真木くんは「いたずら、ですか……へぇ」と今までにない口調で責めてきた。


「違う、いたずらじゃなくて……」


「じゃあなに。新手の、詐欺?」


 真木くんは、拗ねるように私を見た。「後で――」と誤魔化そうとしていると、不意のバルーンリリースに目を奪われている人混みの中、空に釘付けになっている大家先生を見た。先生の周りには、東条さんや乃木さんがいる。やがて先生は、自分を見ている私に気づいた。先生は最後に優しい笑みを浮かべて、私やバルーン、文化祭を楽しんでいる皆に背を向けて去っていく。


「あの人、死刑になるんでしょ」


 ぼそり、と隣にいた真木くんが呟いた。


「え?」


「あの人なんでしょ、犯人。乃木さんとか、東条さん、いるし」


 真木くんはどうやら、乃木さんと東条さんが猟奇殺人専門の刑事さんと勘違いをしているらしい。どう答えようか迷っている間に、「もう、大人だしね」と続ける。


「お腹すいた。めーちゃんとバルーンのやつ見れたし、もうたこやき食べておうち帰る」


「だ、駄目だよ真木くん! ちゃんとお昼食べて、喫茶店戻らないと」


「えぇ……めんどう……」


 真木くんがふわぁと大きな欠伸をした。私は慌てて「起きて」と、真木くんの肩を叩く。やがてバルーンは粗方飛んでいってしまったのか、生徒たちは視線を下ろし、各々文化祭を楽しみ始めた。もう見向きもされなくなってしまった空を、私はもう一度見つめる。


 大家先生は、決して許されないことをした。四人も人を殺したのだ。許されて良いはずがないし、一生償っても、償いきれないことだ。死刑になって、当然だと思う。もし、真木くんが殺されていたらと思うだけで、怖くて仕方なくなる。


 でも、それでももっと、いじめが起きていなかったら、ふつうに先生は皆に慕われるいい先生だったんじゃないかと、そんな風に思ってしまう。そして、もし自分が大切な人を殺されてしまったら、絶対復讐しないなんて、言い切れない。でも、復讐によって真木くんが殺されるかもしれない。だから、簡単に否定出来なくて、悪であるはずの殺人を真っ向から否定できないことに、やるせなさを覚える。


 私は先生のお姉さんを想いながら、真木くんと文化祭を歩いていったのだった。


◇◇◇


 文化祭が成功し家に帰ると、晩餐川連続猟奇殺人事件の犯人が正式に捕まったことで、ニュースは持ちきりだった。沖田くんのお兄さんが捕まったときは、確定的な証拠が出なかったけれど、犯人の自白があるからと先生の名前は出されていて、クラスのトークグループでは大家先生が捕まったことで、これからどうなってしまうのかと混乱が起きていた。


 でも、他ならぬ沖田くんの、『今は憶測で何か言う時じゃないだろ。変にマスコミみたいに騒ぎ立てんのやめようぜ』という言葉により、落ち着きを取り戻している。


 私は、ふとスマホから視線を離し、窓へと近づいた。カーテンを開き、窓を開けて、そっと真木くんの部屋に声をかける。


「真木くん、もう、寝た?」


 近所に迷惑になるからそっと声を潜ませるけれど、真木くんの部屋の窓はいつも開いているから聞こえているはずだ。やがて彼の部屋のカーテンがシャッと音を立てて開かれ、窓も開かれる。


「起きてる……おめめばちばち……」


 真木くんは両手で目をかっと開いた。その姿がなんだか子供の悪戯みたいで、自然と笑みが溢れる。彼は満足げに笑った後、「なあに」と笑った。


「突然、だけどね、真木くん」


「うん」


「なんか、大家先生が捕まったりして、こんな時に言う話じゃないと思うんだけど……」


「うん」


「私、真木くんのこと、好きだよ」


 今日、初めて理解したんだと思う。身近で、いつも当たり前にいるはずだった存在が消えることが、本当にあるということを。私は真木くんが、彼が自分から離れていく以外であったなら、そばにいて当たり前の存在だと思っていたのだ。そんなことは、ありえないことなのに。真木くんが明日、突然病気で死んでしまうかもしれない。突然、殺されてしまうかもしれない。私が死んでしまうかもしれない。二人とも、いなくなることだってある。


 それなのに、私はただ真木くんが自分から離れていくことだけを考えていた。そんなことありえないのに。過去も未来も大切だけど、今だって、同じように大切にしなきゃいけないのに。


「私、真木くんと一緒にいたい。ずっと、ずっと」


「いいの? 芽依菜は、それで」


「いいよ。もう何でもいい。私じゃ真木くんを幸せにしてあげられないとか、真木くんを置いていった私なんかが、とか、そういうの考えるのはやめる。ちゃんと私が真木くんを幸せに出来るように頑張るから、どうやったら私が真木くんを幸せに出来るか考えるようにして、そういうので悩むようにする」


 試すような真木くんの言葉に深く頷く。私じゃ真木くんが幸せになれないじゃない。私が真木くんを幸せにする。考えるのはそれだけでいい。悩んで自己嫌悪して、傷付かないように真木くんの言葉を信じないのはもうやめだ。傷付いてもいい。閉じた世界でも、私は二人で幸せになりたい。


 もう一度、私は真木くんに気持ちを伝えようと、顔を上げた。けれどそれより速く真木くんはベランダを飛び越えてきて、私の隣に立った。


「俺は、芽依菜の隣が一番幸せだから。芽依菜が笑ってくれたら、なんにもいらない。俺も、好き」


 ぎゅっと、抱きしめられる。その体温も抱きしめ方も、子供の時のそれとはまったくかけ離れていて、真木くんはいつの間にか、どんどん成長していたんだと実感した。がっしりした手つきも、抱きしめる強い力にも全部安心して、私はぶかぶかのパーカーが弛む背中に腕を回したのだった。

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