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風が少しだけ強く吹くと、湖面が揺れて波立っている。
それを眺めている間に、東屋のテーブルには食事が用意されていた。
「何を見ているんだ?」
「ん?湖の上が揺れてるなぁって。今日はちょっと風が強いね。」
「ああ、明日あたり雨になるかもしれないな。帰るまでは大丈夫だと思うが。」
女王の仕事が忙しくても、年に一度か二度、
クリスとカイルを連れて、三人で王家の森にピクニックに来る。
ここに来る時だけは三人でゆっくりと過ごすことにしている。
カイルからサンドイッチを渡されると、クリスはスープを器に注いでくれる。
いつものように甘やかされることに幸せを感じながら、サンドイッチにかじりつく。
…もうあれから二十二年が過ぎたのか。
魔力が多いせいで、私とクリスとカイルは老いるのが遅い。
私は三十歳を過ぎたくらい、クリスとカイルは四十歳手前に見えている。
年々、私たちの歳の差をあまり感じなくなっていく。
その一方、周りは揃って歳を取っていく。
高齢になって王宮の仕事を辞めていくものも多くなった。
「ねぇ、そろそろいいと思うんだ。」
「いいって、退位するのか?」
「そう。ジュリアンももう少ししたら二十二歳。私が即位した歳になるもの。
レオンも支えてくれるし、アニエスの婚約も済んだし。
もう私たちがいなくても大丈夫なんじゃないかと思うの。」
「確かにな。もう手を離してもいいかもしれない。」
エディとディアナの子、ジュリアンは十六歳で王太子になった。
エディに似た大きな身体と身体能力、ディアナに似た責任感の強さと聡明さ。
王太子になるかは本人に選ばせるつもりだったが、ジュリアンから申し出があった。
私を後継者に選んでください、と。
学園の卒業時に妃を娶り、もうすでに王子が二人産まれている。
二歳下のレオンは最初から王弟となってジュリアンを支えるつもりだったらしく、
学園はルジャイルに留学し、昨年帰ってきている。
ユーギニスのためにも他国を見てきたいという希望だった。
帰国してきてからはジュリアンの側近として仕事をしている。
結婚はジュリアンの子が少し大きくなるまで待ってからするつもりだという。
レオンから四歳離れた妹、アニエスは婚約を決めるまでに一苦労あった。
アニエスの婚約相手はダグラスの息子ルーカスだ。
今年二十六になるルーカスと十五歳のアニエスは十一歳も離れている。
王女だとはいえアニエスにも政略結婚させるつもりはなく、
年頃になったら選ばせるつもりでいたのだが、
六年前、二十歳になって王宮を出て侯爵家に戻ることになったルーカスに、
九歳だったアニエスが離れたくないと泣いて嫌がったのがきっかけだった。
仲の良い兄がいなくなることを悲しんでいるのだろうと思っていたが、
アニエスの想いはそうではなかった。
まだ九歳であっても、生涯を共にする相手としてルーカスを選んでいたのだ。
ルーカスはその想いに気がついてはいたが、
降嫁を申し出るのは自分の立場では無理だと思っていたらしい。
そして、ルーカスの考えていた通り、貴族たちから反発が相次いだ。
王配になったダグラスのテイラー侯爵家に王女が降嫁するのは、
テイラー侯爵家の力が強くなりすぎるというのが理由だった。
だが、王配となっても女王である私は子どもを産んでいない。
王配が力を持つのは、次代の国王の父となるからである。
それができないのだから、侯爵家にアニエスが降嫁することも問題ない。
そう貴族たちを説得するのに六年もかかってしまった。
ようやく先月ルーカスとアニエスの婚約がまとまり、
王族の子で残されているのはエミリアとイシュラ王子の子コリンヌだけだが、
コリンヌは結婚には興味が無いと報告が来ている。
どうやらコリンヌはイシュラ王子に似て、魔術具の開発に興味があるらしい。
それならそれで好きに研究してくれたらいいと思う。
…もう次の世代に任せても大丈夫だと自信を持って言える。
あの時お祖父様が私に譲位した後、半年で離宮に行った理由も今ならわかる。
心配だから見守りたいけれど、次の王の邪魔になってはいけない。
「少しずつジュリアンに国王の仕事を引き継いで、
譲位したらどこかに移り住もうと思うの。」
「…なぁ、もういいんじゃないか。」
「え?」
「ソフィアはこの国のためにずっと生きてきた。
だから、譲位した後はもう好きに行きたいところに行って、
自由に生きてもいいと思う。」
「私の行きたいところ?」
「姫さんのしたいことを言えばいい。俺たちはそれについていくよ。」
「そっか…ありがとう。」
もう好きにしていい、国を、民を守るために生きなくてもいい。
お祖父様から受け継いだ王位、ちゃんと責任は果たせただろうか。
目を細めて柔らかく笑うクリスと子どもの時と変わらず頭を撫でてくれるカイル。
三人で、好きなように、自由に。
「…リリアに会いに行きたい。」
「リリアに?どこにいるのかわかるのか?」
「ううん、わからない。どこにいるのか、もういないのかもわからないけれど。
だから、いろんなところに探しに行きたい。」
「旅に出たいのか。それもいいかもな。
姫さんの知らない魔術を探しに、他国をまわってもいい。」
「あぁ、それは楽しそうだ。」
「じゃあ、決まりね?」
これからしばらくは忙しくなる。
引継ぎや戴冠式の準備、私たちが退位した後に住む屋敷の手配。
さすがに旅に行くからというのは止められてしまうだろうから、
国内で住む場所は決めておかなければいけない。
いろんなところに行って、またユーギニスに帰ってきて、
たくさんの報告を王家の墓で眠っているお祖父様やお父様にしよう。
いつか私がそこで眠る日まで、何度も何度も。
こんなにも私は幸せです、と。
世界最大の魔術国と言われるユーギニス国は最初から魔術大国では無かった。
転機は小さな賢王と呼ばれたソフィア女王が治めた時代、
ルジャイルのイシュラ王子と共同で行われた研究は他国にない進化を遂げた。
だが、ソフィア女王に関する歴史書の記述は少ない。
ソフィア女王の次の国王が従兄弟王子の子だったことから、
本当は女王は存在しなかったのではないかとする研究者もいたほどだった。
その説が覆されたのは、近年になってから。
ソフィア女王の王配ダグラス侯爵の孫娘が遺した日記が発見されたことによる。
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お祖父様から聞く話はどれも面白かったけれど、
一番面白かったのはソフィア女王の話だった。
ソフィア様は退位した後、王家の森に小さな屋敷を建てて、
王配のクリス様とカイル様と一緒に住んでいたらしいけれど、
気がついたら三人ともいなくなってしまっていた。
お祖父様はきっとソフィア様たちは旅に出たんだろうって。
いつだったかソフィア様が会いたい人がいるって言ってたのを覚えているからって。
ソフィア様はとても綺麗な方で、退位する時は五十近かったのに、
その時もまだ少女のように若く美しかったって。
さすがにそれは嘘だろうって思ったけれど、お祖父様も最後まであまり老人には見えなかった。
魔力が多いと老化が遅くなるっていうのなら、きっと私もそうなるに違いないわ。
お父様もお母様もまだまだ若いんだもの。
あぁ、でもうらやましいな。
クリス様とカイル様の絵姿を見たことがあるけれど、本当に美しい男性だった。
その二人から唯一と愛されたソフィア様の絵姿もまた美しかったけれど、
三人で一つなんてことが本当にあるのかと疑ったのも事実。
本当にそんな風に争わずに愛し合えるものなのかな。
お祖父様は王配だったけれど、ソフィア様の夫では無かったってこっそり教えてくれた。
お祖父様の唯一はお祖母様だったから問題なかったらしいけど、それも素敵よね。
きっとソフィア様は最後までクリス様とカイル様と一緒だっただろうって。
それを想像するのは楽しくて、何度もお祖父様に話を聞いたの。
もしかしたら、いつかユーギニスに戻って来てくれたら会えるかしら。
誰からも愛された素敵な女王様に。
(アンリエット・テイラーの日記より抜粋)




