運命のつがいは消えました
獣人という存在は人よりも優れた身体能力を持つ者たちであるが、数はそこまで多くなかった。
それでも人間側からすると充分な脅威である。敵対しているのであれば、特に。
大陸に暮らしていた獣人たちの里は点在していて、一か所に集まっていたわけではないが今までそれが有利に働いていた。各々が自身の能力を最大に活かし遊撃隊のように動き、そうして人間側の兵士たちを翻弄し、時に倒してきたからだ。
獣人たちには運命のつがいと呼ばれるものがあり、それが同族同士であるのならまだいいが、時折人間の中にその『運命』が現れる事があった。
その時の獣人たちは、運命であるからというのを免罪符のようにしてつがいを連れ去っていく。
けれども人間側からすればそれはただの誘拐でしかない。
国は何度も獣人たちと交渉した。表立って事を構えると多くの犠牲が出るために、慎重に。
つがいとして連れ去られた人間一人を助けるために、百人以上の血を流す事になっては本末転倒である。
場合によっては結果として人間の国が消える可能性すらあった。
消えるだけで済めばいいが、敗戦国の人間たちが獣人たちの奴隷や捕虜として扱われるような事になった場合、完全に自由を失う。そのような立場に落ちた時に獣人と運命のつがいである、と発覚した時点でその相手は完全に生殺与奪の権までをも握られてしまうといっても過言ですらなかった。
たった一人が国にとってかけがえのない存在であるのならまだしも、王族でもなんでもない単なる平民であるのなら見捨てる事も有り得たけれど。それをそのまま良しとしていてはいずれ獣人たちがつけ上がりやりたい放題になるかもしれない。けれど平民一人のために争うつもりは国としてもない。国の上層部としてはそんな思惑も確かにあった。
争えば多くの血が流れるからこそ、人間たちは辛抱強く、獣人たちとの交渉に臨んでいたのだ。
けれども獣人たちとの交渉は上手くいかなかった。
価値観の相違。
折角みつけたつがいを引き離すような事になる、となればその獣人がそれを良しとするはずもない。
結局のところ、人間たちが避けようとしていた争いは、先延ばしにしただけでどのみち起きる事となってしまった。
だがその頃には、周囲の小国が帝国の属国となっていた。
今まで人間側の足並みも中々そろわなかったのが、ここに来て統率がとれるようになったのである。
人間たちの足並みがそろったからなんだというのか、と侮っていた獣人たちは裏をかかれ捕まり捕虜となった。
それだけなら、別に獣人たちもそこまで困る事はなかっただろう。
帝国の人間が捕虜である獣人に『つがいを認識できなくなる薬』を投与しなければ。
今までの獣人たちとて、誰もが皆つがいを見つけられていたわけではない。
けれどもつがいが見つからない事と、つがいを認識できないという事とでは獣人たちからすると天と地ほどの差がある。
見つからないのなら、いつかは見つかるかもしれない。
けれども認識できないとなれば、仮に目の前につがいがいたとしてもそれがつがいだとわからないのだ。
獣人たちにとってそれは大層恐ろしい事であった。
知らぬ間に自らの魂の半分を砕かれたようなものである。
既につがいを見つけていた獣人などは、少し前まで確かにつがいだと思っていた相手から何も感じ取れなくなって戸惑い、じわじわと不安に押しつぶされ、そうして最後は発狂した。
つがいのはずだった。
あれだけ愛していたつがいだというのに、しかし認識できなくなってからは、目の前にそのつがいがいても愛しいという気持ちも湧いてこなければ、あれ程まで求めていた感情すらこれっぽっちも生じなかった。
つがいでもなんでもない相手を前にした時と同じような状態。
つがいがいたはずの獣人は発狂し、つがいをまだ見つけていない獣人たちは発狂までいかなかったがそれでも。
それでも今後つがいを見つける事は叶わないと知って、希望を打ち砕かれたのである。
獣人たちにとってのつがいは子孫繁栄のために欠かせない存在であった。
つがいでない相手とつがいが見つからないから……という消極的な理由で結ばれた者も獣人たちの中には確かにいるけれど、しかしそういった相手との間に産まれた子に、どちらもあまり愛情を持てなかった。父も母も、産み育てて自分たちの子であるとわかってはいても、心から愛しいと思えないのだ。
育ててはいても、どこか取り繕ったような環境。場合によっては親からの愛情を与えられることもなく、結果として、よりつがいという存在に執着する獣人だけが残る形となってしまった。
つがいへの執着は、そういった愛情をあまり注がれてこなかった獣人たちの方がより顕著であった。
愛というよりは最早執着。故にそんな獣人がつがいを見つけた時のなりふり構わずといった態度はあまりにも目にあまるものだったのだ。
人間たちからすれば、それはとても恐ろしいものだった。
ある日突然自分を運命の相手だと言う相手が現れるのだ。
それだけであるのなら、そしてそれが物語の中のものであるのなら、素敵なラブロマンスの始まりを予感させるかもしれない。
しかし現実は見知らぬ相手に突然そう言われた挙句、こちらの言い分を聞く事もせずに無理矢理連れ去ろうとするのだ。抵抗しても相手が獣人であるが故に、その抵抗はほとんど意味をなさなかった。
連れ去られるつがいとされた人間に恋人や伴侶がいた場合、もっと悲惨な結果となる。
目の前で愛する者を殺された者だって少なくはない。
かくして、そういった獣人たちは愛するつがいから拒絶され、しかし相手は自分の運命。その運命に拒絶されるという事実に耐え切れず、更なる執着を相手に募らせ、一方的な愛をつがいへ押し付ける。そうなればますます相手も抵抗し、頑なに受け入れる事はない。まさしく負の連鎖であった。
そんな状態の獣人に、一度つがいと離れろ、相手をまず家に帰してやれと説得にかかったところでそもそもの話、受け入れられる事がなかった。
そしてそれが結果として国家間での争いへと至ったわけだ。
かつての、帝国がまだ小さな存在で、周辺の小国との足並みもそろっていない頃であったのならば獣人たち相手に仕掛けたところであっさりと負けていただろう。
けれども機は熟した。故に帝国は周辺の獣人たちの里へ侵攻を開始したのだ。
獣人たちの嗅覚を一時的とはいえ狂わせて感覚を鈍らせる香水を兵士たちが纏い対峙すれば、獣人たちは普段通りの力も出せずに面白いくらいに翻弄された。
そうして捕まり、捕虜となった先でつがいを認識できなくなる薬を投薬される。
人間側からすれば当然の処置。
しかし獣人側からすればそれはまさしく脅威であり、獣人たちにとって様々なものを踏みにじる行為であった。
だが、今更情に訴えるような事を獣人側が言ったところでとっくに手遅れであるのもまた事実で。
帝国は粛々と獣人たちに処置を施していったのである。
戦場で獣人たちの能力を一時的に封じ、捕まえた者たちは全て、一切の容赦なくつがいを感じられなくされていく。それで無力化できた者はその後解放されるが、そうでなければ更に獣人の身体能力を著しく下げる薬も投薬される。
そうなれば解放されたところでその獣人の未来は閉ざされたも同然で、たとえ家に無事帰りつけたところでその先の生活はままならなくなる。解放された時点で自棄を起こして暴れたところで、そうなればすぐさま人間の兵士たちに捕まり今度は捕虜ではなく普通に罪人として相応の罰を受ける事だろう。
そうやって獣人たちのほとんどを無力化するまでに、実のところそう長い時間はかからなかった。
戦を仕掛けるまでは長い時間がかかったが、いざ開戦してしまえばそれが終わるのはあっという間の事だった。
戦いに出る事ができる若い獣人たちが無力化されてしまえば、残されたのは幼い子供か老人だ。そういった者たちはそれぞれが里で守りを固めていたが、風上から獣人たちの感覚を鈍らせる香水を使われてしまえばその守りもほとんど守りとは言えないものとなってしまった。
そうなれば、そこで行われるものは戦いというよりは狩りだ。老人も子供も全て変わらず戦場に出た獣人たちと同様につがいを認識できなくされる。
つがいを認識できなくなったことで、連れ去った人間をつがいと思えなくなり、そこでようやく助け出された人間たちもいた。
残念ながら助け出される前に命を落とした者たちもいたけれど。
それでもこれから先にはもうその心配もない。
獣人たちの里を纏めていた長たちを更に統べる立場にあった獣人王に投薬をする事で、今まで続いていた人類と獣人たちとの確執に終止符が打たれる。
それで全てが終わるのだと、人々は安堵していたのだ。
安堵できないのは捕縛された獣人王である。
彼は自らを縛り付けている鎖を忌々しげに睨むだけしかできなかった。
今まではこの程度の鎖など容易く千切る事ができたはずなのに、今はどれだけ力をいれても鎖が千切れる気配がまるでない。感覚も鈍っているせいでなんだかまるで自分が自分でなくなってしまったかのようで。
そのせいでどうにも不安が拭いきれない。
これから自分に待ち受けている事も、既に彼は知らされている。
それもあって余計に気持ちは落ち着かなかった。
かつん、と靴音を響かせて一人の女が獣人王の前に立つ。
それは彼にとっての運命のつがいだった。人間であるけれど、確かに彼にとっての運命で、彼が手に入れようとしていたはずの女だった。
「さて、残すは貴方だけです。これで終わると思うと感慨深いものがありますね」
女は笑う。空を見て「今日はいい天気ね」とでも言うような柔らかな口調であった。
しかし女の手には注射器が握られている。その中に入っているのは言わずもがな、彼から獣人という種の誇りを奪うものである。
「何故」
言葉を発する事はできたため、問う。
「何故? 何故とおっしゃいますか。おかしなものですね。
むしろそれはこちらのセリフだと思うのですが。
何故、運命のつがいだからとて無理矢理貴方たちに連れ去られなければならないの? 運命だから、貴方たちの奴隷に成り下がれと言っているも同然ですのよ?」
「奴隷だなどと……!」
「でも、望んでいない相手を無理矢理攫うのだから、そうでしょう?
現に里から救出した人たちは助けられた事を喜びこそすれ、つがいである獣人たちがつがいだと認識できなくなった事を悲しんだりなんてしませんでしたよ」
勿論皆が皆素直に喜んだわけではない。
中にはどうしてもっと早く助からなかったのか、と嘆く者もいた。
だが、そのような嘆きを発した者たちも、彼らに対しての情などどこにもなかったのだ。
無理矢理連れ去られ、そこでつがいだからと言われ望まぬ子を作る事となり、人としての尊厳を奪われた者は一人や二人なんてものではない。
今まで人間たちにしてきた行いが、今少し意味を変えて自分たちに降りかかっている。女からすれば――いや、人間たちからすれば、そういう事でしかない。
「このような事をして……獣人を滅ぼすつもりか!」
「滅ぶ? 滅ぶというのならそうなのでしょうね。
ですがこちらからすれば、畜生を人間にしてさしあげているのですよ。獣人、と人と同じような種を名乗っておきながらその実態はただの畜生でしかない貴方たちに、本能よりも理性を優先できるようにする薬を与えたに過ぎないのですから」
「畜生だと!? どこまでも我ら獣人を愚弄するか!」
「えぇ。えぇ、愚弄しますとも。貴方たちは獣人としての誇りを失ったただの畜生です!
――たった一人を除いて全て畜生でした」
そう言い切った女の目には、深い失望だけが浮かんでいる。
「私だって、運命のつがいに憧れがなかったかと言われれば、ありましたよ。祖母のように、素敵な運命があったなら、と幼い頃は思っていました」
「……祖母? では、そなたの祖母は」
「生憎と運命のつがいと結ばれてはいません。でも、だからこそ。私は運命のつがいに憧れていた。
実際貴方がこうして捕獲され、そこで運命だとのたまった時には失笑しか出ませんでしたけれど」
失笑というより嘲笑としか言えない笑みを浮かべる女は、獣人王から視線を移動させる。
一足先にここに来た自分を追いかけてやって来た相手を見て、
「ごめんなさい、まだ終わらせていないの」
そう告げる。
「ニーナ、貴方がわざわざやる必要はないのよ」
「そうだとも。それこそ他の者に任せるべきだろうに」
遅れてやって来たのは、二人の老人だった。
一人は女で一人は男。
獣人王から見れば、すっかりと年老いているその二人は今までであれば殺そうと思えば簡単に殺せるであろうくらいちっぽけな存在である。
けれども自身の運命である――ニーナと呼ばれていた――女がそんな二人に、自分には向けないくらい柔らかな目を向けたものだから。
自分に対してそんな風に見ないくせに、何故――と思わず恨みがましく思ってしまう。
「ごめんなさいね、おじいちゃん、おばあちゃん。でもあの時、救護班として参加していた私を見て、後先考えずに運命のつがいだと突っ込んできた無謀なおバカさんと、少しだけ話をしてみたいと思ったの。
結果として、やっぱり畜生だったなって思うだけだったけど」
運命の相手に人として見られていない事に獣人王は咄嗟に反論しようとして、しかしそこで思いとどまる。
ニーナの言葉を思い返すと、今やって来た老人二人は彼女の祖父母だ。
祖母には運命のつがいがいたと先程言っていた。
だが、祖母の隣にいるのが彼女の祖父ならば。
「そいつは人間だろう。では、祖母の運命はどうした?」
獣人の能力を低下させる薬品の数々は、近年開発されたものだ。祖母が年頃の女性であった頃にはまだなかった。
であれば、祖母と出会った運命のつがいは彼女と結ばれていてもおかしくはないはずなのに――
「おかしなことを言うものね。必ずしも運命だからといって結ばれるとは限らないものよ」
獣人王の疑問を、祖母は困ったように受け流す。運命のつがいであるニーナよりも、彼女の祖母の方がまだ態度としては柔らかいものだった。
「懐かしいな。彼の事は今でも鮮明に思い出せるとも」
そして祖父がそんな風に呟く。
獣人王は余計に理解ができなかった。
もし祖母と出会い、運命のつがいだと察知した獣人がいたのなら、間違いなく結ばれるために行動に出るはずだ。そうなれば、その時他の相手がいたならば確実にそいつは邪魔者とみなされる。
生きていたとしても怪我をする可能性は高く、下手をすれば命を落としていても何もおかしくはない。
獣人王からすれば、自分の運命の相手に纏わりつく邪魔者という認識でしかないので、そういった相手を排除する事に躊躇う必要などどこにもないのだ。
自分のつがいだ。それでもそのつがいを手に入れたいと思うのならば、どちらがより強いかを証明して――戦って勝ったならともかく、そうでなければ敗者は去るのみ。
獣人王だけではない。ほとんどの獣人たちにとってそれは常識である。
そんな風に言えば、確実にニーナはそういうところは獣と一緒なのね、と吐き捨てそうだが。
事実それを口に出せば、ニーナは不快そうに表情を歪めた。
「獣人と言うくらいなのだから、獣の特性を持っていても別にそれはおかしな話じゃないとは思うの。でも、獣でありながら人として認めろ、は違うとも思うのよ。私はね」
人として接してほしいのなら、人としての常識や倫理観を持ち合わせるべきだとニーナは言う。
獣人王はそんなニーナの言葉を解せぬものとして聞いていた。
「人であろうに」
「普通の人はね、嫌がる人を無理矢理攫っていったりしないの。そんなの、人の中でも犯罪者だわ。
それを良しとしている獣人たちを、私たち人間種族が受け入れないのは当然じゃない。そしてその行いを改めようともしない貴方たちを、私たちが受け入れる事はない。
ただそれだけの話なのよ?」
薬液の入った注射器をニーナは獣人王の目にハッキリと見えるように軽く振ってみせる。
「安心して。おばあちゃんが作った薬はちゃんと、貴方たちを人間にしてくれる」
「我らから力を奪う事の何に安心しろと言うのか!」
身を捩ってどうにかして自分を縛り付けている鎖から解放されようと抵抗を試みる獣人王だが、しかし鎖が音を立てただけでやはり千切れるような事はない。
仮に外れたところで、この場にいるのはニーナとその祖父母だけではない。
兵士たちも数名がこの場にいて、獣人王が何かをしたところで速やかに対処ができるよう、油断なく武器を構えていた。
「誇り高い獣人はね、かつては存在していたわ。けれども今の獣人たちはどうかしら?」
そんな中、ニーナの祖母が穏やかな口調でそんな風に言った事で。
「愚弄か?」
「いいえ、事実よ」
咄嗟にそちらを睨みつけるが、しかし老女は動じた様子もない。
「そうね、一つ、昔話をしましょうか。年よりの戯言だと思っても構わないわ」
獣人王が何をどう言ったところで、彼女にとっては些細な事なのだろう。
穏やかに、まるで寝る前のこどもにお伽噺をするように彼女は語りだした……
リーシャは当時、どこにでもいるような平凡な娘だった。
薬師である親から薬師として将来自分もやっていけるようにと様々な知識を教わり、自身もまた親のような立派な薬師となれるようにと努力する、ただの娘。
そんなリーシャを支えてくれたのは、近所に住む猟師の息子であるザックだ。
彼はリーシャが森へ薬草を採りに行く時には護衛のようについていって、ついでにウサギや鳥を狩り獲物の一部をリーシャの家へおすそ分けをしたりしていた。
リーシャもまた、ザックの家に傷薬などの薬をお返しに渡したりしていて、両家の仲は良好でもあった。
小さな村だ。村人全員が家族のような距離感。
その中でもリーシャにとっての一番はザックで、ザックにとっての一番はリーシャである。ただそれだけ。
そんな二人が成長して、年頃になった時に自然と結婚する流れになったのは、当然と言えば当然の流れだった。
結婚して、二人は一緒に暮らすようになった。今までだって家族同然に過ごしてきたが、夫婦としてはまだ初々しさがそこにはあった。
そんなある日、ふらりと村を訪れた旅人は、ウサギの獣人である。
ニーノと名乗った彼は、リーシャを運命のつがいだと言った。
だが既にリーシャはザックと結婚している。いくらニーノが運命だと言ったところで、ザックと別れてニーノと結ばれるつもりはリーシャにはない。
困りながらもそう告げたリーシャに、ニーノは落胆した様子だった。
出会う順番が違っていたなら、もしかしたら……そんな可能性はあったかもしれないが、しかしリーシャとザックは生まれた時からの付き合いだ。そんなもしもの可能性すら、とても低いものでしかなかった。
獣人について何も知らないわけではない。
実のところリーシャもザックも内心でニーノの事を警戒はしていた。
もしザックを害して無理にリーシャを連れ去ろうとするのなら、その時は命にかえてもリーシャだって抵抗するつもりでいたし、ザックも死ぬかもしれなくても戦うつもりではいたのだけれど。
二人のそんな警戒をよそに、ニーノは、
「リーシャは今幸せ?」
そんな風に聞いてきたのだ。
「え、えぇ。勿論。とても幸せよ」
それに対してリーシャは素直にそう返した。
幼い頃からずっとずっと好きだったザックがこれからも隣にいるのだ。幸せでないなんてあるはずがない。
「そうか。なら、良かった」
ニーノの声はどこか震えていたけれど、それでも彼は素直にリーシャの幸せを祝福した。
「つがいが幸せなら、それでいい」
そう言って。
てっきりその後は立ち去るのかとも思ったが、ニーノは村で暮らし始めた。
つがいとして結ばれる事ができなくても、せめて友人になりたい。
そんな風に言って。
もしかして、そう言ってるけど二人を引き裂くつもりかも……なんて悪く受け取ってしまった事もなかったとは言えない。リーシャとザックが暮らす村は小さくて、外の話はあまり入ってこないけれどそれでも獣人に関する噂は聞こえていた。気をつけろ、と警戒を促す言葉はいくらでもあった。
ニーノ本人は穏やかな気質で、最初こそ村人からも警戒されていたがリーシャとザックの仲を引き裂くような事もなく、本当に友人として接しているのを見て警戒は徐々に薄れていった。
友人になりたい、と言っていたのはリーシャに向けてであってザックとはそうでもないのかと思ったが、ニーノはザックとも友人と呼べるまでの仲になっていた。
「だって、彼女が認めた相手なんだ。きっと素晴らしい相手だと思うしそうであるのなら、是非とも友人になりたいと思うのはおかしな話じゃないだろう?」
てっきり自分とは関わりたくないのかもしれない、と思っていたザックが、しかし友好的に接してくるニーノに向けて疑問を口にすれば、ニーノはそんな風にこたえた。
世間から聞こえてくる獣人たちの悪い噂しか知らないザックやリーシャ、それから村人たちにとって、ニーノという存在はそんな噂を塗り替えるくらいに良い奴であった。
リーシャが親から受け継いだ薬師としての店の手伝いを時にしたり、ザックについて共に森で狩りをしたり。
村の中で困っている相手にも、ニーノは優しかった。快く手を貸して、あっという間に村の一員として認められていた。
ニーノ曰く、リーシャが生まれ育った場所なんだから、きっと皆良い人たちだから、と屈託のない笑顔で言われた事で村人たちが内心で彼の悪い部分を探そうとしていた事に罪悪感を抱いたことすら気付いていないようだった。
リーシャにとってもザックにとっても、ニーノはすっかり一番の親友と言っても過言ではない。
ザックなどは内心で、もしかして、本当に自分ではなくあいつと結ばれた方がリーシャは幸せになれたんじゃないか……なんて思う事だってあった。けれどもリーシャが選んだのはザックで、リーシャも幸せであるという事を隠しもしていないものだから、そんな弱音を吐く事はなかったのだ。少なくとも、この時は。
ニーノにとっては運命のつがいが幸せであれば、自分が選ばれなくても構わないという事だった。
だから、もしザックがリーシャを幸せにできないようなら攫うという手段をとる事もあったのかもしれない。
けれどもリーシャもザックも幸せで、日々充実していたものだから。
ニーノはそんな二人の幸せな姿を一番近くで見ていただけだった。少なくとも、村人たちが見た限りニーノの笑みに陰りがあった事はない。彼を疑う事の方が悪いような気がするくらいに、ニーノもまた幸せそうに日々を過ごしていたのである。
リーシャとザックの子が胎に宿った時も、ニーノはおめでとう、元気な子が生まれるといいね、と祝福を送っていた。
赤ん坊が大きくなれば今までのように行動できなくなるから、とリーシャはまだ動けるうちに森で薬草を多めに採取するのだと決めて、ザックもそれに付き従った。まだおなかはそこまで大きくなっていなくても、二人の子がそこには確かにいるのだ。目を離した隙に万が一の事があったら悔やんでも悔やみきれない。
二人だけではもし何かあった時に困るかもしれないから、とニーノもそれに付き合った。
日々に変化が生じていても、三人の関係は変わる事がないのだろう……そんな風に思っていたのを、リーシャもザックも否定はしない。
けれどもそれはあっさりと壊れた。
普段は姿を見せない魔物が森に現れたのだ。
一匹くらいなら、そこまで珍しい話でもない。
けれどもその時は違った。群れで現れたのだ。
数が少なければザックとて手にした武器で仕留める事はできたかもしれないが、数があまりにも多すぎた。
リーシャを村へ逃がして自分が時間を稼ぐにしても、きっと自分は助からない。
そう、確かに確信できてしまった。
けれども今ここにはリーシャだけではなくニーノもいる。
彼と二人で戦えば……いや、むしろ彼にリーシャを村に連れて逃げてもらえば確実にリーシャは助かる。
リーシャ一人を先に逃がしたとしても、村に戻るまでの間に他の魔物に遭遇しないとも言い切れないのだ。だったら、一人よりは二人で逃げてもらった方が万が一のことがあってもリーシャが助かる可能性は高くなる。
ザックがその考えを口にすれば、リーシャは勿論否定した。
子供が産まれた時に父親がいないなんて、想像したくもなかったのだ。
けれどニーノ一人に残って時間を稼いで、なんていう考えもリーシャにはなかった。
リーシャの中ではザックもニーノもどちらも大切な人だ。
ザックは夫として。ニーノはかけがえのない友人として。
もしニーノと出会ったばかりの頃ならこんな風には思わなかったかもしれない。まだ獣人という種族に対して警戒をしていた頃なら、囮に使う事を躊躇わなかったかもしれない。
けれどもリーシャもザックもニーノはすっかり親友になってしまったので。
誰を失う結果になってもいけない。
皆で、助かる方法はないかと二人は必死に考えを巡らせていた。
あまり悠長にしていられる時間はない。わかっている。
その焦りもあって、中々いい考えは浮かばなかった。
そしてその時間に終わりを告げたのは、ニーノだった。
「行って」
「え?」
「僕が時間を稼ぐから、二人は先に逃げて」
「でもそしたらニーノは」
「わかってる。でも」
でも、とそこでニーノは一度言葉を区切った。
「僕にとって一番大切で大好きなリーシャが幸せでいられるのなら、それが一番だから。
リーシャが幸せでいるためには、ザックがいなくても困る。
それにね、ザックも僕にとっては大切な友人だから。
だから……早く逃げて。それから、できたら応援を呼んでくれると助かるな」
そう言って笑う。二人を安心させるように。
リーシャもザックもすぐに言葉を発する事ができなかった。
確かに彼が残れば自分たち二人はきっと助かる。けれど、その考えを二人はすぐさま打ち消したのに。
思い浮かんでも決して実行するつもりのなかった事を、ニーノは真っ先に選んだのだ。
「そんな……何か、他の方法を」
「そんな余裕はきっとないよ。早く行って」
リーシャの言葉を否定して、ニーノはザックの身体を押した。
リーシャに先へ行けと促すために押し出すような事をして、万一のことがあったらと考えた結果だった。
そんなニーノの考えを、二人ともが察してしまった。
「早く行けっ!」
声を荒げた事のないニーノが、二人の前で初めて鋭く強く言った瞬間だった。
その声に弾かれたようにザックはリーシャの腕を引き駆け出す。
リーシャも初めは戸惑った様子だったが、すぐに足を動かした。
それを確認したのと同時に、ニーノは反対側――魔物たちがいる方へと駆け出していく。
それが、リーシャが最後に見たニーノの姿だった。
結果から言うとニーノは助からなかった。
急いで戻って、ニーノが言ったように村の人たちに二人は助けを求めた。
村人たちもニーノを助けるために、急いで武器を手に森へと向かった。
けれど村人たちが向かった時そこには数匹の魔物の死骸と、無惨なニーノの姿があるだけだった。
魔物の死骸の数から、最初リーシャたちを取り囲んでいたよりは少ない事だけはハッキリしたが、それはニーノが抵抗した結果、これ以上犠牲を出すのは不利であると悟って逃げ出したのだろう、という結論に落ち着いた。
その後もしばらく村では魔物に対する警戒をしていたけれど、結局数日経過しても魔物が襲ってくるような事もなかったので、ニーノを襲った魔物の群れの残りは他の場所へと行ったのだろう。
ニーノは村で手厚く葬られた。
すっかり村の一員となり、家族も同然になっていたニーノの死を悲しんだのはリーシャやザックだけではない。村の者皆が涙を流した。
もしニーノがいなければ。
リーシャとザックは今頃生きていないかもしれなかった。
もしザックがリーシャを逃がしたとしても、きっとザックではニーノ程魔物の群れを相手に持ちこたえる事はできなかっただろう。
そうなれば、逃げていたリーシャが他の魔物に追いつかれ襲われていたかもしれないし、村に辿り着いていても同時に魔物もリーシャに追い付いていたかもしれない。そうなれば村での犠牲だってきっと出てしまったはずだ。
生まれてきた子供に、リーシャは英雄譚のようにニーノの事を語って聞かせた。
自分たちを救ってくれた親友。
自分を運命の相手だと言って、でもリーシャに既に大切な人がいるからとリーシャの幸せを願い、傍で見守ってくれていたニーノの事を。
実のところ、獣人が運命のつがいを感知する能力を抑える薬をリーシャは手掛けていた。
この頃のリーシャはまだ若く、薬も決して完璧とは言えないものではあったけれど。
それでも、運命の相手だとわかっていながら結ばれる事のない相手の近くに居続けるのは苦痛ではないのか――そんな風にリーシャが思う事は何度だってあったのだ。
リーシャが幸せそうにしているのを見て、蕩けるように笑うニーノを見るたびに胸が痛まなかったか、と聞かれれば確かに痛む事もあった。
しかしだからといってニーノと結ばれる事もできなかった。ザックと別れるという選択肢をリーシャは持ち得ていなかったので。
経過がどうあれ結果的にリーシャがニーノを選ぶ事に、ニーノ本人がどう思うかはわからない。リーシャが自らニーノを選んだ、というのならそれでいいのかもしれない。けれども、リーシャがそうしてニーノを選ぶ場合、それはきっと同情とか、そういった恋とも愛とも言えないものでしかない。
だからリーシャは一度だけ、ニーノに聞いたのだ。
つがいの事を感じ取れなくなる薬が完成できたら使うつもりはあるか? と。
けれどもニーノは頷かなかった。
もしそうなれば、今までリーシャに感じていた自身の想いも薄れ、友人でいる事すら難しくなるかもしれない。
だから、やめておく。
どこか困ったように笑って言うニーノに、リーシャだってそれ以上何も言えなかった。
ニーノはリーシャを運命のつがいだと認識し、だからこそリーシャと仲良くなりたいと願った。
既にリーシャに伴侶がいても。つがい以外の関係でも、傍にいる事を選んだ。
だが、そのつがいだという部分を薄れさせてしまえば、何故ニーノがリーシャと仲良くなりたいと思ったのか、根本的な部分さえ消えてしまうかもしれない。
そうなれば、確実に今の関係は変わる。
ニーノが友人でいる事に意味を見出せずに村を出るかもしれないし、村に残ったとしても今までのように良好な関係性を築けなくなるかもしれない。
故にニーノが選んだのは、今のままの関係であった。
ニーノは必要ない、と言っていたけれど。
それでも、もしかしたら。
いつか、結ばれない想いを捨てたくて、つがいの事を忘れたくなる獣人だって現れるかもしれない。
そんな風に考えて、リーシャはニーノが死んだ後も薬の研究を続けていた。
そしてザックも、その研究の手伝いをするようになった。
生まれた子供にリックと名付け、彼もまたすくすくと成長し自然とリーシャの研究の手伝いをするようになり、学校へ通うようになった。
小さな村には学校なんてなかったけれど、リックが望むのなら、とリーシャもザックも教育にかけるお金は惜しまなかった。
街の学校へ通い、そこでできた友人たちと切磋琢磨し、恋をして。
そうして学校を卒業した時に、リックはお嫁さんを連れて帰ってきたのだ。
その後結婚し、生まれてきた孫がニーナである。
幼い頃に何度も聞かされた英雄のようなニーノにあやかって名前をつけた、と言われた時、少しばかり複雑な気持ちになりはしたけれど。それはさておき。
リックの妻となった相手は、幼い頃に従姉が獣人に無理矢理連れ去られたクチだった。
だからこそ獣人にいい感情は持っていなかったけれど。
それでも、ニーノの事は否定しなかった。そういう獣人ばかりなら、運命のつがいという言葉をもっと素敵なものだと思えたのに……と言った時の表情は、リーシャもザックもリックも忘れられそうになかったけれど。
だからこそ、彼女もまたリーシャの研究に興味を持ち、自然と手伝うようになっていった。
その研究の途中で他にいくつかの薬ができてしまい、それが帝国のお偉いさんの耳に届く結果となったのは、リーシャも予想はしていなかったのだ。帝国に限った話ではないが、獣人たちに運命のつがいとして無理矢理連れ去られる人間の被害は決して少なくはない。
だからこそ、何らかの手を打つためにとリーシャたちは帝国に呼ばれる事となったのである。
本当は、一家全員で行く予定だった。
けれどもニーナが熱を出し、馬車で移動するには難しいとなって一足先にリックと妻が向かう事となった。
ニーナは熱が下がってから、リーシャとザックと共に出発する。
帝国で、合流する予定だったのだ。
だが、帝国についた時、リーシャとザックはリックとその妻が死んだ事を聞かされた。
運命のつがい。
そう言う獣人が現れて、無理矢理連れ去られかけたのである。
けれども二人は抵抗した。その事に激昂した獣人が勢い余って二人を殺したのである。
運命のつがいに死なれてしまったその獣人はその後、救助にかけつけた兵士に捕らえられたがその時点で二人の命の灯火はとっくに消えた後だった。
世間で噂されている獣人たちに関しては、きっと一部の悪評が大きく取り上げられているのだろうと、リーシャはそう思っていた部分もあった。
けれど違った。ニーノだけが、異質だったのだ。
獣人たちにとっては運命のつがいは自分と結ばれて当然であると信じて疑っていないし、そのつがいに別の異性が近づいているのならそれは邪魔者でしかない。邪魔者は排除して然るべき、というのが多くの獣人にとっての考えだと、リーシャは突き付けられたのだ。
ニーノとの思い出も、リーシャやザックの獣人たちへの感情も、全てが踏みにじられた気分だった。
ニーノが獣人であるのなら、それ以外の獣人はケダモノでしかない。
運命の相手を無理に従わせる他の獣人たちとニーノを同列で語る事はしたくないし、他者に語られるのも複雑な気持ちだった。
亡くなった息子と義娘はニーノという獣人がいたという話から、他の獣人とも分かり合えると信じたかったのだろう。だが、結果は早すぎる死である。
リックに事前に持たせていた獣人たちに作用する薬はどれも服用しなければ効果を発揮しないもので、けれどそれがどれだけ無意味であるかをリーシャは今更のように理解したのだ。
飲めと言われて素直に飲む獣人などいない。
であるのなら、それ以外の方法で摂取させるしかないのだ。
あまりにも早く両親に先立たれてしまったニーナを育てながら、リーシャたちは帝国で研究を重ねた。
そしてようやく実用に足る薬が完成し――今に至る。
その功績によって帝国で貴族としての身分が与えられたけれど、そんなものは大した事ではない。
その身分と今までの成果があるからこそ、こうして獣人王とニーナたちは相対する事ができたとは言えども。
「人のつもりであるのなら、せめて相応の理性を持って人間と接するべきだった。
……そうね、貴方たちがどこまでもケダモノの流儀で人に関わろうとし続けてきた事こそが。
貴方たちを苦しめる薬を生み出す結果となったの」
世の中の獣人たちが、皆ニーノのような者であったなら、無理に人を攫うような者がいなければ。
つがいを感じ取れなくなる薬の効能を高めようとすることはなかったかもしれない。
その逆に、人間の方こそがつがいを感じ取れるようになる薬を作ろうと思ったかもしれない。
けれどもそうならなかった。
ニーノ以外の獣人たちの横暴な振る舞いによって、リーシャたちの研究はどこまでも突き詰められる形となった。
一方でそんな話を聞かされた獣人王からすれば、そのニーノという獣人は腰抜けに他ならなかった。
そんな腑抜けの話を聞かされても、反吐は出ても賛美の言葉など出せるはすもない。
けれどもそれこそが、本能優先の考え方こそが、ニーナたちにとってはケダモノ同然である、となるのだとも理解はできた。だからといってそれを言葉にするつもりは獣人王にはなかったが。
価値観の相違。考え方の相違。
どこまでいってもそこは変わらないのだ。
「その表情からすると、ニーノの事は腰抜けとか腑抜けとか思っていそうね。
……私はニーノと直接会った事はないけれど、それでも彼はとても理性的だった、と思っているわ。
貴方がそういう人であったなら、私も貴方と歩み寄るつもりがなかったわけじゃないのにね」
微苦笑を浮かべ、ニーナは手にしていた注射器を獣人王の首筋に刺しこんだ。そうして遠慮も躊躇いもなく、中の薬液を注入していく。
細い針。それが刺さっただけと言えばそうではある。
けれども普段、彼ら獣人たちが怪我をするような時とは異なる痛みに獣人王は思わず顔をしかめていた。
運命のつがいと、それ以外の人間がいる場所でみっともなく泣きわめくような真似だけはしてはなるまい、というのもあった。それでも、慣れない痛みと体内に入ってくる薬によって相当な不快感が確かに存在していたのだ。
時間にしてほんの数秒。
注射針が刺さり、そして抜けるまでの時間は本当に一瞬と言ってもよかった。
その一瞬で。
(あれ……なんだ? 彼女はつがいのはずなのに……)
先程まで感じていた焦がれる程の想いが、輪郭を失うようにぼやけていく。
「終わったよ、おばあちゃん。私は後始末をしてから戻るから、おじいちゃんと一緒に先に戻ってて」
「えぇ、そうね。あとは頼んだわね」
「うん」
ニーナの声を耳にしても、獣人王は先程まで確かにあったはずの熱のようなものが消えているという事実に愕然として、知らずその耳を伏せていた。
正体のわからない不安が胸のうちでぐるぐるととぐろを巻いている。
老人のうち、男の方が女の手を引いてゆっくりとした足取りで戻っていくのを、獣人王はうまく認識できなかった。二人の足音を耳が拾っているはずなのに、しかし自分の耳は相変わらず伏せたままだ。まるで見えない敵を恐れているかのように。
「獣人たちを統べる長がこれじゃあねぇ……そりゃあ人間との共存は無理なわけだわ」
老人二人の姿が見えなくなってから、ニーナが吐き捨てるように呟く。
それすらも、水面越しに聞いているような、どこかぼんやりとしたものでしかなかった。
「ねぇわんちゃん、貴方たちは人間をどう思っているのかしら?
大した力も持たない非力な種族? それでも運命のつがいなら、子を産むための最適な道具?
そうよね、寿命だって他の種族と比べて短い分、繁殖力はそれなりにあるものね。一度の出産で生まれてくる子は少なくても。動物みたいに繁殖期が決まってるわけでもないから、産む時期を計算すれば厳しい季節を避ける事も可能だもの。
調べたけど、貴方たち獣人の中のいくつかは産む時期が丁度厳しい冬の一番寒い時期になっちゃうのもいるものね。そのせいで、出産しても死産の場合が多いとか。それでもその季節に産まれる事が多いってわかってるなら対策とかそれなりにとれそうなものなのにね?
まぁそこはどうでもいいわ。
確かに獣人と比べて人間は弱いけれど。でもね?
でも、それでも負けない部分だってあるのよ?
たとえば――そう、悪意とか」
にこり、と人畜無害そうな笑みを浮かべるニーナの事を、獣人王はどこかぼんやりとした目で見ていた。
今まで自分に向けられていた熱のある視線が消えたことで、余計にニーナの笑みが深くなる。
「ロクな抵抗もしないでやられるばかりだと思った人間に、種族の存亡を握られてる気分はどう?
ほとんどの獣人たちはもうつがいがいてもつがいだとハッキリわからなくなった。つがいじゃない相手と子を作っても、愛情が持てないとかマトモに育てられないとか、おかしな話だとは思うけれど。
でも、これから先の獣人たちはみぃんなそうなるの。つがいでない相手と義務みたいに子を作って産んで、そうする事でしか種を続けていけなくなるの。
これが貴方たちが本能のままに振舞った結果よ。
おばあちゃんが語ってくれたニーノみたいな獣人が王様で、他の獣人も彼みたいだったらこうはなってなかったでしょうに、ね?」
わんちゃん、と犬のような扱いをされても獣人王が何の反応も示さなかったことで、ニーナは空になった注射器に視線を落とす。
祖父母には言っていなかったが、本来の薬以外の物も混ぜていた。
もしかしたら身体が耐えられないかもしれない……と思ったが頑丈な獣人の身体は少々無茶な配合の投薬にも耐えきったらしい。
「まぁもう貴方には関係のない話ね。
安心して? これから先、獣人たちは我らが帝国の陛下が上手く管理してくれるから」
研究を続けた結果、本来の目的とは異なる結果が出る事はよくある話だ。
つがいを認識できなくなる薬とは別の、つがいでない者をつがいだと誤認する効果のある薬だって実のところ生まれている。
帝国の管理下におかれた獣人たちはきっとこれから、それらの薬を使われた上で繁殖し、帝国の便利な道具として育てられていくのだろう。
偽りであれ、一時的につがいだと思えた相手とならば彼らとて喜んで繁殖するだろう。
完全に反応しなくなった獣人王にニーナは言うだけ言うと、もう用はないとばかりに踵を返す。
「じゃあねわんちゃん、もう会う事はないと思うけど」
そうかけられた声ですら。
獣人王の耳は伏せたままで、その音を拾おうともしなかった。
これが――この日こそが。
獣人たちが帝国の奴隷となった瞬間であった。
まろやかなロボトミー手術っていう単語が浮かびまして。
いやアレにまろやかも何もないじゃろがい、って思いながらできた話がこれです。
次回短編予告
異世界に聖女として召喚された女はしかし、別段冒険の旅に出るとかそんな事もなく日々を過ごしていた。いずれ帰れるとわかっていたから。
だが、留まってほしい者たちの思惑によって聖女の周辺には常に人が集まっていた。そしてそんな聖女を良く思わない者たちも。
けれども、やっぱり聖女からするとそんな事はどうでもよかったので。
次回 異世界産聖女の悪気の有無
彼女は思った事を素直に告げただけだった。
道端に落ちてた犬のう●こにテンション上げてはしゃいでたキッズを見て浮かんだ話です。




