269 ときめきの聖夜祭 3
まずい、まずい。
私は数日前、兄が口にしたセリフを思い出した。
『お前の許可も出たことだし、聖夜祭ではお前を狙う男性陣と、正々堂々勝負することとしよう』
それから、フリティラリア公爵の誕生祭の帰り道、馬車の中で兄が楽しそうに言っていたセリフを。
『せっかく外見が美しい妹がいるのだから、多くの男性から申し込みがくるのを楽しみにしていたのだ。何と言っても私の夢は、妹にまとわりついてくる有象無象の若者たちを返り討ちにすることだからな』
兄のことだからおかしな冗談を言っているのよね、と聞き流していたけれど、まさか本気だったのかしら。
その可能性があることに遅まきながら気付いた私は、兄に用心深い視線を送る。
兄の周りでは再び、小さな水球がぱちり、ぱちりと生まれ始めていた。
それらの水球は少しずつ大きくなると、隣の水球とくっつき結合する。
一体何が始まるのかしら、と驚いて見つめていると、兄を中心に数十メートル四方の水の壁が出来上がった。
これは一体何なのかしら、と信じられない思いで兄の周りに張り巡らされた正方形の水の壁を見つめる。
大勢の耳目を集めていることは百も承知だろうに、兄は堂々とマントを払うと、凛とした声を出した。
「北チームの騎士、サフィア・ダイアンサスだ! 我がチームのプリンセスと話がしたい者がいれば、まずは私がお相手しよう!!」
どういう仕組みなのか、兄の声が辺り一面に大きく反響する。
びっくりして目を丸くしたけれど、響いたのは辺り一面どころではなかったようで、周りにいた生徒たちが驚きの声を上げた。
「すごいな。恐らく、今の声は学園内の隅から隅まで届いたぞ!」
「ああ、北チームの宣戦布告だ!!」
どうやら兄は魔術を使用して、音を遠くまで伝達させたようだ。
すごいことができるのねと感心していると、今度は水の壁を確認していた生徒たちが、大きな声を出した。
「信じられないな! この水壁は完璧に魔力を遮断するぞ!! それを四方にぐるりと張り巡らせるなんて……これほど簡単にバトルスペースができるものなのか!?」
「この壁はサフィア殿の魔力で作られているんだよな? 一辺が二十メートルはあるぞ!」
「この壁を保ちながら戦うとしたら、とんでもない量の魔力が必要になるんじゃないか!?」
いくらお兄様が卓越した魔術師だとしても、水の壁を保ちながら戦うのは、ハンデが大き過ぎるのじゃないかしら。
そのことに気付き、眉尻を下げる。
魔力を遮断する壁ということは、周りで戦いを観戦する生徒たちを守るためのものだろう。
そうであれば、兄は自分が傷付いたとしても、魔力が不足したとしても、絶対にこの壁を保とうとするはずだ。
そんな状態で戦うのは不利だから、止めるべきじゃないかしらとオロオロしている間に、さっそく一人の男子生徒が走り寄ってくると、兄が造り上げた水の檻の中に足を踏み入れた。
「東チームのデイル・ロードデンドロンだ! サフィア・ダイアンサス殿、お相手願おう!!」
見ると、男子生徒の腕には♣マークが添付されていた。間違いなく東チームのメンバーのようだ。
「ロードデンドロンだって? 3年の火魔術ナンバー1の実力者じゃないか!!」
「ロードデンドロン伯爵家は代々、火魔術に優れているからな! えっ、いきなりガチ対決か」
盛り上がる観客たちを前に、私は焦った声を上げる。
「ま、待って! これは学園内のイベントにおける余興よね? 本気で戦うわけじゃないわよね!?」
私の希望的観測が当たってほしいと思ったけれど、挑戦者の顔は真剣だし、兄が造り上げた水の壁はすごく厚く、激しい戦いを予想しているように見える。
どうしよう。本気の対決に見えるのだけれど、と焦って一歩踏み出そうしたところで、聞き慣れた声が響いた。
「まあ、お姉様を巡って対決ですか! さすがですね。相変わらず、すごい人気ですわ!!」
驚いて顔を向けると、なぜか東チームのセリアが立っていた。
兄と対峙している男子生徒も東チームだったから、彼に付いてきたのかしらと思ったものの、その疑問を口に出す前に、全ての意識がセリアの格好に持っていかれる。
「わあ、高潔な黒百合の妖精だわ!」
私の目の前に立っていたのは、「黒百合の妖精」としか表現しようがない、凛とした美しさを持つ黒いドレス姿のセリアだったからだ。
「撫子の妖精そのもののお姉様からそのようなことを言われても、恥ずかしいだけですわ」
セリアはそう言うと、言葉通り恥ずかしそうに頬を染めた。
その姿が何とも愛らしい。
セリアが救いを求めるように隣を見たので、つられてそちらを見ると、そこには新たな花の妖精が立っていた。
「うわあ、何て鮮やかな菫の妖精かしら!」
茶色をベースにして、色々な鮮やかな色をまとった清廉な美しさを持つ「菫の妖精」姿のユーリア様だった。
彼女は西チームのはずだけど、どうして北の領地にいるのかしら。
不思議に思って首を傾げると、セリアとユーリア様はいたずらっぽく笑った。
「お姉様は北チームのプリンセスになったと聞きました。そうであれば、自ら領地から出るのは難しいだろうと思って、こちらから誘惑に来ましたの」
「ふふふ、女性相手であれば、サフィア様も少しは見逃してくれるのじゃないかと期待しているのよ」
確かに相手が女性であれば、兄は紳士的に対応するだろうなと思いながら視線をやると、魔術戦の最中だった。
「えっ、いつの間に戦いが始まったのかしら!」
驚く私の前で、勢いよく炎の玉が弾ける。
もちろん、炎の玉は水の壁に当たると消えてなくなり、その熱さも効果も、壁のこちら側にはこれっぽっちも届かなかったけれど、ものすごく真剣に魔術戦をやっているわと目を見張る。
「あの、教師がいないところで戦ったりして大丈夫ですかね?」
兄が勝手に魔術戦を始めたことが心配になり、隣にいる2人に質問すると、セリアがおっとりと答えた。
「普通に考えたら、大事になる可能性があるのでダメでしょうね」
セリアの言葉は私の考えと一致していたので、そうよねと言葉を続ける。
「で、ですよね! だったら、止めないと……」
ちっとも焦る様子を見せない2人を不思議に思いながら、兄のもとに走っていこうとすると、ユーリア様がのんびりした声を出した。
「サフィア様の方がわずかに勝っていますね。サフィア様は滅多に実戦に参加しませんが、学園の授業でもこうですのよ。どんな方を相手にしても、サフィア様がわずかに勝つんです。恐らく、相手の力に合わせているんでしょうね」
セリアがユーリア様に同意する。
「僅差で勝つというのは一番難しいんです。よほど実力差がないとできないことですわ。サフィア様の強さは分かっていたつもりですけど、ここまでとは驚きですね。きっと、学園の生徒であれば、サフィア様の相手になる方はほとんどいないのじゃないかしら」
「あの、つまり、このまま魔術戦を続行してもいいんじゃないか、と言っているんですか?」
2人が暗に示していることを理解し、恐る恐る質問すると、その通りだと頷かれた。
「サフィア様側は固定のようですから、そうであれば問題はないでしょう。サフィア様に怪我を負わせられる者はいないでしょうし、サフィア様であれば相手を怪我させないよう手加減するでしょうから」
「それにほら、水壁の端に上級ポーションが並べてありますわ」
セリアの指差す方向を見ると、確かに高そうな瓶が1ダースほど並べてあった。
その用意周到さに感心したけれど、それ以上に兄に絶大な信頼を寄せる2人の言葉に驚き、私は目をぱちくりさせる。
「あの、お2人は兄が強力な魔術師だということをご存じなんですか?」
私の質問に、セリアが笑顔で頷いた。
「ええ、フリティラリア公爵家の誕生会で、サフィア様の魔術を見せていただきましたもの。サフィア様は滅多にないほど優れた魔術師でしたわ」
そうだった、お兄様はセリアの前で魔術を披露したのだったわ、とその時のことを思い出す。
一方のユーリア様は悪戯っぽい表情を浮かべた。
「私はサフィア様と同じクラスですからね。サフィア様が参加する実戦の授業は少ないといえ、毎回僅差で勝つのは不自然だと思っていたんです」
それから、ユーリア様は楽しそうに私を見つめた。
「とはいえ、サフィア様は決して自らの魔術をひけらかすようなことはなさらなかったから、誰もが『サフィア様は強いかもしれないな』程度にしか、思っていなかったでしょうけど」
そうよね。学園内での兄の評判は、決していいものではないものね。
納得して頷いていると、ユーリア様が言葉を続けた。
「サフィア様はもうすぐ卒業ですよね。それなのに、ルチアーナ様がこれほど美しくて刺激的な姿を見せたから、サフィア様が焦ってしまったのでしょう。ですから、サフィア様がいなくなった後も、滅多なことではルチアーナ様に手を出さないようにと、警告を込めて実力を見せることにしたのじゃないかしら」







