209 王宮舞踏会 2
王宮の入り口から中に入ると、まずは2階の控室に通された。
部屋の中にある大きな鏡に姿を映し、馬車に乗っている間にドレスや髪が乱れていないかを確認する。
それから、大きく数回深呼吸をすると部屋を出て、待っていてくれた兄の腕に手を掛けた。
「準備はいいか?」
覚悟を決めてうなずくと、兄とともにホールに続く大きな階段に向かって歩を進める。
私はできるだけ背筋を伸ばすと、美しく見えるようにと足さばきに集中した。
「ダイアンサス侯爵家令息サフィア殿、ならびに息女ルチアーナ嬢!」
私たちを紹介する声が階下の会場に響き渡ると、ホールに集まっていた人々がこちらを見上げてくる。
それらはただの確認作業だったけれど、私の髪に目を止めた途端、全員がびっくりした様子で目を見開き、まじまじと見つめてきた。
心構えをしてきたつもりだったけれど、大勢の紳士淑女が突然、私だけに視線を定め、ジロジロと眺めてくる様は、想定以上の緊張感をもたらす。
そのため、大きな失敗をしてしまったような気持ちになるとともに、どくどくどくと自分の心臓の音が耳元で聞こえ始めた。
「大丈夫よ」と自分に言い聞かせながら一歩一歩踏み出すも、その音はどんどん大きくなり、しまいには自分の心臓の音以外何も聞こえなくなったように感じてしまう。
そのため、動揺して足がもつれそうになったその時、―――兄が上体を倒すと、私の耳元に口を近付けてきた。
「ルチアーナ、この場にいる全員が、瞬きもせずにお前を見つめているぞ。どうやらお前の美しさに、度肝を抜かれているようだな」
「えっ?」
思ってもみない、そして、事実は全く異なることを口にされたため、驚いて思わず兄を見上げる。
すると、兄はいつも通りの楽しそうな表情を浮かべていた。
その表情を目にしたことで、強張っていた全身からふっと力が抜けていく。
同時に、兄の発言は皆の視線から私の意識を逸らすためと、私の緊張をほぐすために行われたものであることに気が付いた。
お兄様はいつも絶妙のタイミングで助けてくれるのね、とありがたく思うと同時に、夢から覚めたような気持ちになる。
……ルチアーナ、しっかりしなさい!
高位貴族の令嬢の中に、私のような短い髪の女性は1人もいないのだから、興味本位に見つめられたり、陰口を叩かれたりすることは覚悟していたはずでしょう。
これくらいで怖気づくようでは、悪役令嬢なんてやっていられないわ!!
私はそう自分に言い聞かせると、もう1度兄に視線を移した。
普段と変わらない兄の表情を目にすることで、早鐘のように打っていた鼓動が少しずつ静まってくる。
私はごくりと唾を呑み込むと、震える唇を開いて声を紡いだ。
「私ではなく、……この会場でも5本の指に入る、ぴかぴかの装飾品に目を奪われているのではありませんか?」
私が返事をしたことに対して、兄は称賛するような笑みを浮かべる。
「ルチアーナ、お前は素晴らしいな。有象無象の貴族たちがお前の足を引っ張ろうと、鵜の目鷹の目で観察しているにもかかわらず、彼らの雰囲気に飲まれることなく、きちんとこの場に立つことができているのだから。それだけではなく、しっかりとした言葉まで発すことができたのだから、これはもう称賛に値するな」
……兄の評価基準は、あまりに低過ぎるんじゃないだろうか。
立っているだけで素晴らしく、言葉を発することで称賛されるなんて、どう考えても基準が甘過ぎるだろう。
そう呆れていると、兄が優しい目をして言い聞かせるかのような声を出した。
「ルチアーナ、お前のことを知らない者たちは、知らないがゆえにお前のことを面白おかしく語るだろう。しかし、知らない相手に何を言われたとしても、気にすることはない。お前のことをよく理解している者たちは、決してお前を悪く言うことはないのだから。今夜は友人の言葉にだけ耳を傾けるのだ」
お兄様ったら、何ていいことを言うのかしら。
兄の言葉に完全に同意しながら階段を下り切ると、同じフロアに立つ大勢の貴族たちが私に視線を向けてきた。
大抵の者は貴族の常として上手く感情を覆い隠していたけれど、口元を扇で隠しながらくすくすと笑う者や、蔑むような視線を送ってくる者もそれなりにいる。
そんな貴族たちを見たことで、私は改めて貴族社会の恐ろしさを目の当たりにした気持ちになった。
……ああ、本当に彼らは容赦しないのだ。
隙あらば私を引きずり下ろし、貶めようとしてくる。
このような貴族社会であれば、ゲームのストーリー通りに大貴族の不興を買った場合、断罪されて没落しても不思議はないだろう。
けれど、お兄様の言う通り、貴族の全員がそのような者ばかりではないことも、今の私は知っている。
私のことを大事に思ってくれる方々も、少ないけれど確かにいるのだ。
だから、私は自分を恥じて俯いている場合ではないわ。
そう自分に言い聞かせると顔を上げ、真顔のまま私を見ている人々に視線を向けた―――私が真顔でいると、傲慢そうに見えることを十分承知しながら。
すると、私の正面に立ち、これ見よがしにくすくす笑いをしていたご令嬢たちが、焦ったような表情を浮かべる。
私は彼女たちに向かって冷笑を浮かべると、さらに首を巡らせた。
今度は、聞こえよがしな嘲笑の言葉を口にしていた紳士が、私と目が合った途端、言葉に詰まった様子を見せる。
さらに、興味深げにジロジロと私の全体を見回していた人々は、恥じるかのようにさっと目を伏せた。
そんな風に悪役令嬢としての傲慢さを前面に押し出して、周りの人々の馬鹿にするような態度を牽制していたところ、隣にいた兄が笑い声を上げた。
「ははは、ルチアーナ、お前はいつだって予想外の行動に出るな! 今日のお前の美しさは格別だから、凛とした表情で人々を黙らせるかと思いきや、高慢な態度で皆を黙らせるとは思いもしなかった」
私は兄を見つめると、至極真面目に返す。
「『悪役令嬢』というのは、私が16年間掛けて獲得したスキルです。そうであれば、使わない手はありません」
兄は元気付けるかのように、私の手をぽんぽんと軽く叩いた。
「何ともまあ、私の妹は『悪役令嬢』であることに前向きになったものだな」
兄に指摘されて気付いたけれど、確かに以前の私は「悪役令嬢」であることに後ろ向きだった。
けれど、それは仕方がないことだろう。
突然、乙女ゲームの世界に悪役令嬢として生まれ変わったため、そこには恐怖しかなかったのだから。
けれど、そんな私に兄を含めた多くの方々が教えてくれたのだ。
たとえ悪役令嬢だとしても、きちんと私を見てくれて、想ってくれる人はいるのだと。
だからこそ、この世界はゲームとは異なっていて、断罪されないルートがあるはずだと、未来に希望を持つことができたのだ。
この世界にもいいことはたくさんあるはずだわと考えていると、大股で近付いてくる女性の姿が目に入った。
びくりと一歩後ろに下がりながら確認すると、予想通りその女性は顔を紅潮させたお母様だった。
「やあ、見つかったか。母上は社交に余念がないから、何か面白いことはないかと会場中に目を光らせていたのだろう。そして、お前は人目を引くほど美しいから、その際に気付かれたのだろうな」
兄がのんびりした声で推測を述べたけれど、もちろんその内容は事実と異なっていた。
「い、いや、お兄様、もちろん違いますよね! お母様が目を止めたのは、私の短い髪にですよ!!」
私が言葉を言い終わると同時に、目の前に怒りでぶるぶると震えている母の姿が立ちふさがる。
「ル、ル、ルチアーナ!!」
私の髪が短くなったことを知り、その髪型を堂々とさらしている姿を見て怒りに震える母は、高位貴族のご夫人として正しい感覚を持っていると思われた。
そんな母の目の前に立った私は一瞬で悟る。
『あの大変な日々に比べたら、お母様に怒られることくらい大したことないわ』と考えた私が間違っていたわ!
怒っているお母様は滅茶苦茶怖いわよ!!
「ひ、ひいいい、お母様!! ええと、ええと、その、き、今日もとってもお美しいですね!!」
焦った私は、母への褒め言葉を口にすることしかできない。
そして、咄嗟に出た言葉ではあったものの、実際に母はとても美しかった。
侯爵夫人として日々、適切な手入れをして整えられた髪はつやつやと輝いているし、できる限り日に焼かないようにしている肌は真っ白で、実際の年齢よりも10歳は若く見えるのだから。
けれど、怒り心頭な母は、褒められたくらいでは感情が切り替わらなかった。
恐ろしい表情のまま、私の短い髪にひたりと視線を定める。
「ルチアーナ、あなたは一体何をやっているの!? その髪……髪……」
怒りのあまり言葉が続かない様子でぶるぶると震え始めた母を見て、恐ろしさに首を竦めていたところ、母の後ろから手が伸びてきて、しっかりと母の手を掴んだ。
母を止めようとしてくれているこの手の主はもしかして、と期待を込めて視線をやると、予想通り、私の父であるダイアンサス侯爵だった。
「お、お父様!!」
父の姿を見て、思わず安堵の声が零れる。
久しぶりに目にした父は、いつも通りびっくりするくらい若かった。
母が実際の年齢よりも10歳若く見えるのならば、父は20歳若く見える。
そして、髪色こそ違うものの顔立ちは兄そっくりなので、知らない人が見たら、親子ではなく兄弟だと思うことだろう。
ただし、父は兄とは違い常識的な行動を好み、突飛な行動をすることはない。
穏やかでにこやかな紳士の鑑で、誰からも好感を持たれている……のだけれど、ゲームの中でルチアーナが断罪された際、一緒に道を踏み外したのがこのダイアンサス侯爵だったのだから、本性は過激なのかもしれない。
「そうだったわ、父の動向にも注意しなければいけないのだったわ! 私が悪役令嬢として断罪されないために、色々と気を付けて予防すべきことがいくつもあるのだった!!」
はっとして小声で呟いていると、父が私の短い髪に視線を定めた後、隣にいる兄に視線を移した。
父は顔をしかめると、兄に苦情を言う。
「サフィア、お前は少し甘過ぎないか? なぜ僕のお姫様が大変なことになっているのに、お前は加害者を断罪しなかった?」
父が何を判断基準にしたのかは不明だけれど、私の短くなった髪を見て、『それは誰かの仕業で、さらにその誰かを兄が見逃した』と推測したようだ。
その推測のどちらもが当たっているところが実に恐ろしい。
穏やかな口調ながらも咎められたというのに、兄は気にした様子もなく、朗らかに言い返した。
「父上、その質問に答える前に、1つ訂正します。ルチアーナは『父上のお姫様』ではなく、私の姫君です」
兄の言葉を聞いた父は、不同意を示すかのように顎を上げる。
一方の兄は、そんな父の前に一歩も引かない様子で立っていた。
そんな2人を見て、このような場面において、一体父と兄は何を張り合っているのかしら、と私は頭を抱えたのだった。
いつも読んでいただきありがとうございます!
9/7(木)ノベル6巻&コミックス3巻が同時発売予定です!!
詳細が決まり次第お知らせしますので、よろしくお願いします。







