202 サフィア・ダイアンサスの宣戦布告 3
正解が分からないながらも、このまま兄とともにこの場を去るとまずいことだけは理解していたため、目の前に立つ3人の顔を交互に見やった。
見上げた先で、王太子とラカーシュは緊張した表情を浮かべており、兄の発言に大きな衝撃を受けている様子だ。
一方の兄は、いつも通りの穏やかな表情を浮かべ、声だって決して荒らげてはいないのだけれど、怒りを覚えていることは明らかだ。
兄の発言内容から推測するに、普段にない態度の原因は私の火傷と短くなった髪で、その場に居合わせながら防げなかった王太子とラカーシュに憤りを覚えているようだ。
けれど、……それだけのことで、ここまで兄が普段と異なる態度を見せるだろうか。
火傷は既に治ってしまったし、髪はいずれ伸びるのだから。
そう不思議に思っていると、意を決した様子のラカーシュが兄に向かって声を上げた。
「サフィア殿、私はこの地におけるルチアーナ嬢の身の安全を君に約束した。しかしながら、実際には彼女に多くの火傷を負わせたうえ、美しい髪を失わせてしまった。そのことに対して君が憤る心情は理解できる。そのため」
けれど、ラカーシュが話している途中で兄が笑い声を上げる。
緊張した様子で口を噤んだラカーシュが見つめる中、その場の雰囲気にそぐわない楽し気な笑い声をおさめた兄は、それでもおかしそうな表情を浮かべていた。
「私の心情を理解できる? できるはずないと思うがね。同じ場面に遭遇しても、私と君では異なる行動を取る。そうであれば、同じ場面における私と君の考えは異なっていると考えるのが自然だろう。私の心の動きを理解できるはずもない」
そう言うと、兄はわずかに目を細めた。
「君たちの言葉は軽すぎる」
それは2人がこれまで誰にも言われたことがない言葉であると同時に、最も言われたくない言葉だったに違いない。
なぜならエルネスト王太子とラカーシュは、誇り高く真面目で、責任感が強いからだ。
そんな2人はいつだって、自分たちが口にしたことは必ず守ってきたはずだし、そのことに誇りを持っていたはずだから。
体を強張らせる2人に視線をやることなく、兄は淡々とした声を出した。
「今回の件を除き、ルチアーナはこれまでに2度、危険な目に遭った」
「……ああ」
半拍ほど遅れて、ラカーシュが兄の言葉に相槌を打つ。
唐突に私の話を始めた兄の意図は読めなかったけれど、確かにその通りねと、私も心の中で兄の言葉に同意した。
1度目はフリティラリアの城で双頭緑蛇に、2度目はカドレア城で東星に襲われたのだから。
でも、それが今の状況と何の関係があるのかしらと考えていると、兄はさらりと言葉を続けた。
「しかし、そのどちらにおいても、ルチアーナは傷一つ負っていない」
それも兄の言う通りだ。
どちらの場面にも兄が居合わせて、最終的には私を助けてくれたのだから。
そう考えて、またもや兄の言葉に同意していると、兄は当然のことのように言葉を続けた。
「それが、守るということだ」
兄の声は静かだったけれど、その言葉には力があり、兄が発言し終わると同時にその場に重苦しい沈黙が流れる。
悔いる様子でうつむく王太子とラカーシュを見て、私は慌てて兄を振り仰いだ。
い、いや、お兄様、その通りですけど!
全くの正論でぐうの音も出ませんけど、それは要求すべきことではないんですよ!!
なぜなら兄が要求したことは、兄が持つ圧倒的な魔術があって初めて可能になることで、普通は誰も実行できないことだからだ。
「お兄様、お2人は学せ……」
それを学生の身の2人に言っても……と思ったけれど、兄自身も学生の身だったため、これは言えないことだわと開きかけた口を閉じる。
それから、別の角度から考え直すことにした。
そもそも2度の危機において、私は怪我をしなかったけれど、代わりに兄が大きな怪我をしたのだ。
つまり、自分を犠牲にして初めて成り立つ行動のため、そんな行動を要求すること自体が間違っているのだ。
しかも、相手は次期国王のエルネスト王太子と、次期筆頭公爵のラカーシュだ。
この2人こそが、大勢の者から身を守られるべき高貴な存在なのだから、私を守っている場合ではないだろう。
「お兄様、お2人は王族と高位……」
それを超高位者の2人に言っても……と思ったけれど、兄自身も次期侯爵という高位者だったため、このことを口にしても説得力がないわねと開きかけた口を閉じる。
うーん、こうやって考えれば考えるほど、兄の存在自体が非常に希少なものに思われる。
というか、これほどハイスペックで、本人自身に高い価値があるにもかかわらず、自らの身を投げ出してまで私を守ってくれる者なんて、兄以外にいやしないのじゃないだろうか。
そう考えたところで、突然ありがたみが胸に染みてくる。
「うっ、何だか感動したわ」
兄から大事にされていることを実感して、じんとしたのだ。
お兄様が2人に要求していることは度が過ぎているけれど、それは全て私を想ってのことだと分かったため、申し訳なくも嬉しい気持ちになる。
「ううう、お兄様、心配してくれてありがとうございます。私も絶対にいつか同じ思いやりをお返しします」
兄にそう約束すると、私はもう1度兄の腕をがしりと掴んだ。
お兄様の私を想う気持ちが行き過ぎて、エルネスト王太子とラカーシュに憤りを感じているのならば速やかに解消すべきよね、と強く思いながら。
だって、優しい気持ちから発したものが、相手を傷付けるなんて間違っているもの。
「お兄様、心配していただきありがとうございます。でも、エルネスト王太子殿下とラカーシュ様は必死で私を守ってくれたんですよ」
兄が目にしなかったであろう場面を、分かってほしくて説明する。
「…………」
私の言葉は聞こえているだろうに、兄は返事をしなかった。
恐らく、努力をしても結果が伴わなければ意味がないと思っているのだろう。
おかしいわね。普段であれば、結果が伴わなくても努力を認めてくれる兄なのに、と首を傾げる。
私が炎に包まれているところを見たため、普段とは異なる精神状態にあって、思考回路も普段とは違うものになっているのだろうか。
そう考え、今すぐに兄を全面的に納得させるのは諦めることにする。
代わりに、私は兄が叶えやすい願いを口にした。
「お兄様、王太子殿下に話があるので、少しだけ……ほんのちょっとだけ待ってもらってもいいですか?」
つい先ほど、同じような願いを口にしたときは却下されたけれど、今回は『少しだけ』と強調したのがよかったのか、兄は小さく頷いた。
「ああ」
そのため、私は兄の気が変わらないうちにと、急いで王太子に向き直る。
「王太子殿下、ありがとうございました」
勢い込んでお礼を言うと、王太子は眉間に深い皺を刻んだ。
「……何だって?」
しんとした夜の会話だ。
王太子は絶対に私の言葉が聞こえただろうに、聞き返されてしまう。
私は感謝の気持ちが伝わるようにと笑みを浮かべると、王太子に向かって言葉を続けた。
「殿下の聖獣のおかげで、兄の腕を治すことができました。本当にありがとうございます。それから、聖獣と契約できてよかったですね。おめでとうございます」
私の言葉を聞いた王太子はたっぷり3秒ほど黙った後、信じられないとばかりに首を横に振った。
「……何を他人事のように言っているんだ。全ては君のおかげだろう」
「えっ?」
「君のおかげで、私は宿願だった聖獣と契約することができた。このことは私の人生を懸けた願いだったから、私の方こそ心から君に感謝する」
そう言うと、王太子は―――王以外には絶対に頭を下げるべきではない世継ぎの君は、私に対して深く頭を下げた。







