18 フリティラリア公爵の誕生祭 9
魔物に食べられる、と思った瞬間、咄嗟にセリアを突き飛ばしていた。
扉の外の安全な場所に向かってセリアを押したつもりだったけれど、確認すると全然方向が違っていた。
ああ、こういうところが駄目なのよね、決まらないなーと思いながらも、迫りくる魔物に覚悟を決めて目を閉じ……ようとした瞬間、爆音とともに壁の一枚が吹き飛んだ。
「え!?」
驚いて顔を向けると、吹き飛んだ壁の向こう側に空が見えた。
「ええ? た、退路ができた!?」
思わず叫んだけれど、驚いたのは私だけではなかったようで、正に私を頭から食べようとしていた魔物もひるんだように後ろに飛び退った。
そんな中、場違いなほどののんびりとした声が掛けられる。
「やーあ、まいったぞ。完全に威力を間違えた。地面は一部えぐれたし、城の壁は吹き飛んだ。だが、見たところ魔物に襲われて退路を探していたようだし、この穴は間違いなく退路になるし、城の一部を壊したことについては、不問にしてもらえるとありがたいのだが」
その言葉とともに、1階部分の高さから地階であるこの部屋を、穴が開いた壁越しに見下ろしてくる人物の姿があった。
その人物が持つ青紫の髪に、嫌になるくらい見覚えがあることに気付く。
「お、お兄様!」
「やぁ、ルチアーナ、そろそろ帰る時間だぞ。子どもではないのだから、わざわざ呼びに来させるんじゃない。と、魔物と対峙していて、それどころではなかったのだったな。よしよし、命が惜しければ、そのえぐれた土のトンネルを進んでこい。泥にまみれるだなんて、お前に相応しいじゃないか。……む、ご令嬢もいらっしゃるのか」
話している途中でセリアに気付いた兄は、一切のためらいもなく、自身が作った穴を通って地階に滑り込んできた。
そして、私に突き飛ばされて地面に倒れ伏していたセリアの前で紳士の礼を取る。
「初めまして、ご令嬢。ご紹介もなしに声を掛けるご無礼をお許しください。サフィア・ダイアンサスと申します。誠に無礼な申し出であることは承知しておりますが、火急の時なれば、ご令嬢を抱き上げる許可をいただけますか?」
兄は胸に手を当てたままセリアを見つめると、黙って返事を待っている。
……いやいやいや、お兄様。
魔物が目の前にいるの、見えていますよね!?
それ、結構、すごく、強力な魔物ですよー。
命だって危ぶまれるような場面で、紳士道を貫いている場合ではないと思うのですが。
けれど、優先順位が常人とは異なる兄は、黙ってセリアの返事を待ち続け、「は……」と言いながら首を縦に振った(ように見えた仕草を肯定と解釈すると)、静かに微笑みながら両手を地面に向けた。
「魔術陣顕現!」
その言葉と共に、青紫の魔術陣が兄の足元に展開される。
驚いたことに、その魔術陣はラカーシュのそれよりも複雑な術式が施されているように見えた。
魔術陣を敷くことで、使用する魔術の威力が跳ね上がるのは誰もが知るところだけど、跳ね上がる威力の程度は魔術陣による。
一般的に、多くの術式を使用した魔術陣の方が、効果が高い傾向にあった。
兄はそれぞれの魔物に向かって両手を向けると、高らかに魔術を発動させる。
「水魔術 <修の5> 淼渦盾!」
兄のそれぞれの手の平から1枚ずつの大きな渦巻く盾が現れる。
兄が振り払う動作をすると、それらの盾は魔物に向かって移動し、それぞれの魔物の半周を取り囲むような形で停止した。
「さーて、急ぐぞ。魔術陣で強化したとしても、しょせんは僅かな足止め程度にしか役には立たない代物だ」
そう言うと、兄は優雅な仕草で一礼した後に、ひょいっとセリアを抱え上げた。
そして、物凄い急角度の出口を危なげなく登って行く。
……本当に、こういう非常事態に改めて認識するのだけれど、お兄様のスペックって高いわよね。
どうしてこの能力が普段の生活に活かされないのかしら?
対する私は、両手両足を使った這い上るような形で、何とか地階から抜け出すことができた。
わずかな距離だというのに、手や足はもちろん体中が泥だらけになる。
私の後ろには、ラカーシュが続いた。
脱出した先は、城の裏手だった。
城の正面側にあった整備された森とは一味違った、うっそうとした木立の森が続いている。
私は木の幹に手を掛けると、思わずといった風につぶやいた。
「で、出られた……」
けれど、私の横に立ったラカーシュは、脱出口を見ながら不穏なことを言う。
「そうだな。だが、密室ではなくなったというだけで、状況に大きな違いはない」
見ると、2頭の単頭緑蛇が脱出口を這い上がってくるところだった。
魔物はびしょびしょに濡れているものの、怪我をしている風には見受けられない。
私は慌てて木の幹から手を放すと、魔物と応戦すべきか、逃げるべきかを考える。
けれど、一人だけ感覚がずれている兄は、のんびりとした様子でつぶやいた。
「いやーあ、やっぱり時間稼ぎが関の山だったな」
それから、にやりと笑いながら私を見る。
「困ったぞ、ルチアーナ。私は今しがた魔術陣を顕現させたばかりだから、新たなものはしばらく描けない。さらに言うならば、地階からの脱出口を作成するために派手な魔術を使用したから、魔力もほとんど枯渇している。ここにいるのは魔術がほとんど使えない、ちょっとばかり顔が整っただけの男だ。さて、そんな色男にお前は何を望むかね?」
そう尋ねるように口を開いた兄に返せる答えは一つだ。
「もちろん、魔物の殲滅です! あの2頭を退治してください」
「や、ルチアーナ。予想通りの答えではあるが、傲慢な上に他力本願ときては、お前を好ましく思う男性は非常に偏った趣味の者だけとなるぞ。もう少し、個人の魅力を上げるべきだ。……ということで出番だ、ルチアーナ」
兄は顔を寄せると、わずかに声のトーンを落としてきた。
けれど、側にいるラカーシュたちに聞こえない程ではないので、実質的な意味はなく、効果的な演出をしたいだけなのだろうと思われた。
「思い出せ、ルチアーナ。お前がなぜ、わざわざフリティラリア公爵家の誕生会に参加したのかを。ラカーシュ殿を落とすためだろう? だというのに、今のところ、ラカーシュ殿に対して全く好印象を与えていないという体たらくだ。ピンチはチャンスと言うじゃあないか。ここでお前が活躍して、ラカーシュ殿の危機を救ってみろ。ラカーシュ殿が恋する乙女のようになって、お前に懸想すること間違いなしだ。よしよし、心優しき兄がお前にチャンスを譲ってやろう」
兄は一人でぺらぺらと勝手なことを言うと、ばしんと私の背中を叩いて魔物の前に押し出した。







