113 虹樹海 15
ダリルが魅了の継承者でいたくないと考えていたことが、ジョシュア師団長にとって驚きだったように、師団長が魅了の継承者になりたいと望んでいたことは、ダリルにとって驚きのようだった。
そのため、ダリルは両目を零れんばかりに見開いていたけれど、師団長の真剣な表情からその言葉が真実だと理解したようで、心から嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、ジョシュア兄上」
すると、師団長も嬉しそうに微笑んだ。
「ダリル、私も礼を言う。ウィステリア公爵家を任せてくれて感謝する」
それから、師団長は素早く立ち上がると、ちらりと東星に視線をやった。
「だが、お前の手の甲の紋を消すのは後日にしよう。ここを無事に脱出することが先だ」
そして、遠慮がちに付け加える。
「……もし、お前の気が変わったならば、いつでも言いなさい。私はお前の気持ちを優先すると決めているのだから」
ダリルは師団長を見上げると、子どもらしい表情を作った。
「兄上が仄めかしているのが、ウィステリア公爵家の紋を消すことなら、僕の気持ちは変わらないよ。僕はお姉様と、だらだら自由に生きていきたいんだから」
「……だ、だらだら自由に。そうか」
生真面目な師団長は、不思議な言葉を聞いたとばかりにダリルの言葉を繰り返した後、分かったという風に頷いた。
そんな師団長に対し、ダリルが言葉を続ける。
「それに、公爵家にはそろそろきちんとした継承者が必要な時期だと思う。ウィステリア公爵家の特殊魔術は、新たな継承者が生まれると、先の継承者の能力は失われるでしょう? つまり、現時点で魅了が使えるのは僕だけだ。でも、僕はまだ6歳だから、成人するまでの10年ほどは、十分にこの能力を使いこなせない。公爵家には兄上が必要だよ」
ダリルをうちの子にしたい私も、ここぞとばかりに援護射撃する。
「ダリルの言う通りですよ。そもそも生まれた時から身に着けているべき『魅了』を、成人してから継承するのは大変なことなので、魔術師団長として十分な経験を持つジョシュア師団長くらいにしか制御できないはずです。師団長が引き受けられるのが、1番いいと思いますよ」
「……なるほど」
師団長は短い返事をした後、私に向かって頭を下げた。
「ルチアーナ嬢、あなたがしてくれた全てのことに礼を言う。ダリルを預かってもらうことにもなるし、後日、ダイアンサス侯爵家に改めて挨拶に行く」
師団長の言葉を聞いた兄は、疲れたように頭を振った。
「……全てが収まるべきところに収まったようだな。では、帰るとするか。カドレアからは完全に殺気が消えているし、今なら私たちを素直に戻してくれるだろう。枯れ木に花が咲いたことで、少しは満足したはずだ」
そして、先ほどから同じ姿勢で世界樹を眺め続けている東星に対し、声を掛けようとした正にその瞬間、―――それは起こった。
つまり、何の予告もなく突然、東星の両手から魔力の塊とも言うべき力が放出されたのだ。
放出した瞬間、東星が驚いたように目を見開いたので、恐らく彼女が意図した行動ではなかったのだろう。
魔力暴走とでもいうべき強大なエネルギーの塊が2つ、東星の手からそれぞれ異なる方向に放出される。
2つのうち1つは、私たちと全く関係がない方向に飛んでいったのだけれど、運の悪いことに、もう1つは私たち目掛けて一直線に飛んできた。
それは―――もう大丈夫だろうと、その場の全員が緊張を解いた直後の出来事だった。
ラカーシュはびくりと体を強張らせたけれど、その原因が何かを感知する前に、魔力の塊はラカーシュの横を通り過ぎた。
それから、ルイスとジョシュア師団長が身構えることもできない間に、2人の横を通り過ぎた。
そして、物凄い速さで私へ向かってきた。
「……え?」
『誰だって、自分にとって大事なものが何か分かっている。咄嗟の場合に、それが選び取られるだけだ』
―――幼い頃に言われた言葉を、突然思い出す。
そして、考えるよりも早く、頭を庇うように両手を上げていた。
……ああ、本当だわ。体の中で1番大事なのは頭だもの。体が勝手に動くものね。
けれど、迫りくるのは桁違いの魔力だった。
私の両手を犠牲にしたからといって、頭が無事に済むとは思えないエネルギー量だ。
私は両手に力を入れると、ぐっと奥歯を噛み締めた。
そして、恐怖で目を瞑ろうとした瞬間―――私の目の前に1本の手が差し込まれた。
「ルチアーナ!!」
焦ったような兄の声とともに視界に映ったのは、鮮やかな青紫の撫子が描かれた手の甲だった。
その手が大きく開かれ、私に向かってきた魔力の進行を阻止しようと動く。
兄の手は見て分かるほどに大きな魔力をまとっていたけれど、魔術発動の呪文が発せられていなかったため、魔術でコーティングされてはいなかった。
どれほど強力であろうとも、一定のルールに縛られた魔術師である兄が纏う剝き出しの魔力には、それほどの力はないはずで―――……。
「くっ!」
それでも、瞬間的に兄の腕にぶわりと発光するほどの魔力が集まり、その手が直接受け止める形で東星の魔力を掴み、消滅させた。けれど、……その代償として、ばしゅっ! と音を立てながら、兄の腕自体も消滅した。
「……っ!」
見開いた私の目の奥に、消滅した兄の手の甲に描かれた青紫の撫子が、鮮やかな残像として残った。







