終章 ラベンダーのいる世界で
ソフィと僕は、不老を対価にして過去に戻った。ラベンダーが生きている世界に。
けれども、いくつかの記憶も対価になっていたことに僕たちは気がつかなかった。
ラベンダーの呪いのことが、頭の中からすこんと抜けていたのである。
それを思い出していたなら。彼女をもっと早く救ってやれた。怖い目に合わせずに済んだのに。
名無しの魔法使いは、僕の身長が伸びたことに気がついた。
不老を捨てたことに気づかれた! 動揺したせいで、奴の魔法を食らってしまったのは誤算だった。
けれども、記憶の欠片が飛び出したことで、僕は、僕たちは完全にすべてを思い出した。
ぽろぽろと涙が落ちる。
「ベリィ……?」
不安げに僕を呼ぶラベンダーの声がする。
「なにやってるのよ! 相変わらず詰めが甘いんだから!」
ソフィが突風を奴に浴びせる。
奴は俺に気を取られていたらしくーー奴のほうが詰めが甘いと思うーー、木の葉のように吹き飛んでいった。
そのまま彼女は茨を編み出して、奴の手足を拘束した。
僕とソフィは顔を見合せた。そして、うなずく。
「ーーひとつ聞いていいか?」
奴はにこにこして顔をあげる。
「いいよー!」
「おまえは、死ぬと必ず生まれ変わる魔法をかけたんだよな?」
「うん!」
「それは絶対になのか?」
「絶対って言われると困るけど……義姉さんの呪いのケースもあるからね。
でもまあ確実だと思うよ」
名無しの魔法使いは、誇らしげに言う。
「じゃあ、逆に死ねないと困るのか?」
僕の言葉に、奴ははじめて動揺を見せた。
「しねない……?」
「ーー”譲渡” ”不死”」
ソフィが奴に狙いを定めて、黒い光を投げつける。
僕はそこですかさず詠唱した。
「"時氷・改”」
エンツィアン・パンセだったものは、死ねない体になった。そして、時を止める膜の中に包まれた。
「不死が対価にならなかったときは残念だったけど、自分から切り離せるようになったのよね。あげるわ」
ソフィは、時氷の膜に包まれた奴に話しかけている。
奴に浴びせたのは、時氷の失敗作だ。
中にいる人間の体の時間は止まっているが、意識はある。声も聞こえるはずだ。
「大変!」
ソフィが言った。
「あたし、もう死ぬ事ができるのよ?」
「あぁ」
「ーーあたしたちが死んだあと、名無しのの監視、どうするの?」
「魔法が使えないようになっていればいいんじゃないか?」
「時氷を通して魔力を吸い出す仕組みを作って、それを北の大地に流すとかはどうかしら? 花が咲きやすくなるんじゃない?」
これは、少し後の話。ーー北の荒れ地に巨大な深い深い穴を彫り、時氷を三重にかけた奴を閉じ込めておいた。
もし時氷の魔法が解けても、そのころには奴には魔力など残っていないだろうし、そもそも不死であって、不老ではない。
きょとんとした顔のまま固まる男を眺める。どこかで見たような、と記憶を探り……遡る前の生で時氷をかけた男が、エンツィアンであったことに気がつく。
術者が死ねば呪いがとけることはある。完全に動けない場合はどうだろう?
もしかして、過去のラベンダーが時折気丈な姿を見せたのは、呪いに綻びがあったからなのかもしれない。
僕はソフィに奴をまかせて、彼女のもとへ走った。
ラベンダーは血の気のない顔でぐったりと倒れていた。あわてて抱え起こす。額に口づけを落とす。
「ラベンダー、ーー君を愛している」
口ぐせのようになってしまった言葉を、今日も伝える。
まいにち、何度でも。
これまで一度も返事はなかった。仕方のないことだと割り切っていた。
僕たちの重ねた時間を、今の彼女は知らない。でも、どんな君でも……。
「私も、ベリィのことをお慕いしています」
「ーーえ?」
「子どものころからずっと憧れでした。
これからも、ーー妻として、あなたを支えていきたい」
ラベンダーはふわりとほほ笑んだ。
自分に自信がない、不安げな目をしていた彼女はもういない。
彼女は僕の頬に手を伸ばす。
「背が、伸びたんですね」
「うん」
「私の知らないところで無茶したんじゃないですか?」
僕は目を逸らした。
「食べないのはだめですよ」
「うん」
「暗いところにいるのも」
「うん」
「眠らないのも」
僕の目からぽろぽろとこぼれ落ちる涙を、ラベンダーはそっと拭う。
「『不潔なのも』」
僕たちの声が重なった。
ラベンダーは驚いたように目をぱちぱちとさせる。
「秘密はいやです」
「うん。……全部話すよ。家に帰ろう」
「はい」
朝目を覚ますと、バターのいい匂いが屋敷中に満ちていた。
僕は身支度もそこそこに、階段を駆け降りる。毎日確かめずにはいられない。
「ラベンダー!」
大切な人を抱きしめた。同じくらいの身長だった彼女は、今では腕にすっぽりと収まるくらいに小さい。
これからも、何度だってきみの名を呼ぶ。
僕は、きみと年を重ねていく。
『ラベンダー!』 完




