酒とクラゲと男と女
自分の部屋に帰って来たミラは、客室の明かりをつけた。
"お客様へのお詫び"と"緊急時の対処方法"の自動メッセージが流れるのを無視して、バスルームに直行して湯を張り始める。多少は復旧したらしく、通常よりは弱いが遠心力による重力が戻ってきていた。
リビングに戻ったミラは、ソファーに疲れた身を横たえ、小さく息をついた。ふと、自分がまだ好みじゃない水着を着たままだったのに気付いて、ミラはクロゼットルームの扉を開けた。水着を脱ぎ捨て、荒れたクロゼットの中を探ってナイトガウンを羽織る。室内履きはヒールの高い真っ赤なものを選んだ。
赤毛をかきあげながら、ミラはクロゼットルームを出て、バーカウンターに向かい、ベッドルームに向かって声をかけた。
「ねぇ、出ていらっしゃいな。再会を祝して一杯いかが?」
ベッドルームの扉が開いた。
「驚いた。君とまた会えて嬉しいよ」
栗色の髪の男は、脱いだ上着を片手に持ったラフな格好だった。
「私もよ。またあなたの優しい声が聞けて幸せ」
ミラはグラスを2つ用意した。片手に2つのグラス、もう片手にボトルを持って、ミラは艶然と微笑みながら男に歩み寄った。
「どうぞ」
男にグラスを渡すと、ミラはボトルを揺らしながら、中で揺れるお酒を見て目を細めた。
「ねぇ、どうしてこの部屋にいたの?」
「笑わないで聞いてほしいんだが……」
男は渡されたグラスを差し出しながら、苦笑した。
「ここにいれば、また君に会えるんじゃないかと期待したんだ」
ミラはボトルを揺らすのを止めた。
「そう……」
男はミラに一歩近づいて、ささやいた。
「君を待ちながら、君の無事を祈っていた」
「では、この再会はあなたの願いが起こした奇跡ね」
ミラは2つのグラスに酒を注いだ。
「奇跡的な再会に」
ミラは、顔の高さにグラスを掲げた。
男が軽くグラスを当てて乾杯しようとした時、ミラは自分のグラスを強くぶつけて、相手のグラスの分まで中身を男の顔にぶちまけた。
咄嗟に顔を背けて避けた男に、逆さに持ちかえた酒瓶を、おもいっきり振り下ろす。頭を狙った酒瓶は上着を抱えていた方の手に防がれて割れた。ミラは間髪入れず、ガードが空いた男の鳩尾を蹴り飛ばした。
「あー、すっきり・し・た」
ミラは長い髪を払って、畳み掛けるように回し蹴りを叩き込んだ。
「こんのアマ……」
「いい顔。私、あなたが嘘をつくときの優しい声が好きだけど、その本音の顔も嫌いじゃないわ」
男は酒瓶の破片のついた上着を、ミラに投げつけた。ミラは手元に残った方の割れた瓶で、そいつを払いのけながら飛び退いた。
男は上着の下に隠し持っていた銃をミラに向けた。
「いつから気付いていた」
「男が嘘をつくときの声音ぐらいわかるわよ、私、耳はいいの」
「それなのに何の警戒もせず、いいように利用された挙げ句、ノコノコ一人で帰って来たのか。バカな女だ。どんな幸運で助かったのかは知らないが、その運もこれまでだな」
「どうかしら?」
ミラは銃口を見つめながら、ジリジリと後ずさった。リビングの奥の壁一面に投影されたクラゲの映像が、ゆっくりと形を変えながら青白くたゆたった。バスタブに湯を張る音がくぐもって響いている。
ミラはふっと笑った。
「あなたにもう一度会いたかったの」
男は口の端で笑った。
「俺に惚れたか……だとしたら、残念だな。俺はお前みたいな女、だいっ嫌いだ」
「フフン、虚飾を外した自分自身を晒したかったのは、あなただったというわけね」
「うるさい!そんな目で俺を見るな、死ね!!」
銃声が響き、クラゲの映像が粉々に砕け散った。
青白い細片がゆっくり落下する向こうから、真っ直ぐ銃を構えたエザキ捜査官は、冷静にもう2、3発、犯人の腕と脚を撃った。
ミラは男の手から落ちた銃を、遠くに蹴り飛ばした。
「ホント、騙した女の部屋にノコノコやって来るバカで助かったわ」
「危ないから離れてろ」
エザキは、バスタブの端を乗り越えて、リビングのカーペットを濡らした。
「土足でバスタブに入ったの?お湯はり直さなくちゃ」
「本当に風呂に入るつもりだったのか。どのみち破片だらけで入れねーよ」
犯人を手早く拘束し、血止めの応急手当てだけしながら、エザキはミラを見て顔をしかめた。
「酷いカッコだな。今のうちに服を着てこい」
ナイトガウンを羽織っただけのミラは、鼻で笑った。
「どうせバスルームの壁越しにこっち見て、鼻の下伸ばしてたんでしょ。介入遅かったわよ」
「湯気と水音で状況がわかりずらかったんだ」
エザキは、周辺通路の監視映像とミラの供述から、手負いの男がミラの部屋に隠れたと推定した。空調センサーで男がベッドルームにいることを特定できたので、踏み込もうとしたのだが、ミラが先に一度相手と話がしたいと言い張るので、しぶしぶ同行を許した。ミラと一緒に部屋に入り、バスルームに隠れて、半透過式にセットした壁越しに様子をみていたのだが、ミラが大立ち回りを始めてしまい、しばらく困惑していたのだった。
「でも、いいタイミングだったわ。ちょっとカッコよかったわよ」
「そりゃどうも」
「私もこいつを1度おもいっきりぶん殴れて、すっきりしたしね」
「……その後、蹴りまくってなかったか?」
エザキは犯人を床にテープで固定しながら、半目でミラを見上げた。
ミラは真っ赤なハイヒールを履いたすらりとした脚を高く上げた。
「ちょっとしたおまけみたいなものよ」
エザキは仏頂面のまま、目を逸らせた。
「もう撤収するぞ」
ぶっきらぼうな命令をよそに、ミラは履きものの踵を摘まんだ。
「いやぁね。ヒールが折れてるわ。お気に入りだったのに」
ミラは脱いだハイヒールを部屋の向こう側に放り投げると、エザキに手を差し出した。
「何だ?」
「抱き上げて」
「はぁ?」
「床が破片だらけで足を怪我しちゃうわ」
エザキは立ち上がると、しぶしぶミラを抱き上げた。ミラは獲物を捕まえた猫のような顔で、エザキの首に両腕を回した。これまでの不調が嘘のように感覚が冴えて、男の鼓動はもちろん、血のたぎる音まで聞こえそうだった。
「いい感じ。このまま連れてって」
「どこへ?」
小首を傾げたミラは、エザキの耳元に口を寄せた。
「あなたの部屋なんてどう?」
そういうことになった。




