紛いもの
ノリコはベッドに横たわって、時計を確認した。
ここの世界の時間の単位にはまだ慣れないが、スリープモードに入る時間が近いことはわかった。川畑が彼女を部屋に帰すよう強硬に主張したのは、この時間が迫っていたからだろう。
「(川畑くん……)」
声に出すと"あなた"とかに変換されてしまう名前を、そっと胸の中で呼んでみる。この夢のような数日のことを思い出しながら、ノリコは目を閉じた。隣に彼がいないのがたまらなく寂しい。
「(これ……向こうの私の気持ちじゃないよね)」
この部屋に籠ってずっと一緒に過ごしたあたりから、スリープモード時の記憶の更新が一方通行になっているのを、彼女は知っていた。あちらで学校に通っている記憶は入ってくるが、こちらの記憶はどうも本体には渡っていないようだった。精神的に負荷の高い記憶は更新されないという説明だったので、彼との"新婚さんゴッコ"のアレコレが、"精神的に負荷の高い記憶"として処理されたのかもしれない。
「(たしかに最初のうちは、動悸、呼吸困難、目眩のオンパレードで気絶寸前なことが、多々あったからなぁ)」
さんざん翻弄されて流されまくったので、普通の生活をしている本体に見せるのはどうかと彼女自身も躊躇する記憶ではあった。
その後、こちらから積極的に攻めると、彼は簡単に狼狽してガタガタになるということに気付いてからは、主導権をとれるようになった。が、それはそれで、羞恥心の感覚が麻痺していたこっちのノリコだからできたことであって、やはりそれも本体に教えるのは、はばかられる記憶だった。
彼女は、偽体の中の仮想人格でしかないコピーの自分が、本体からずれ始めているのを自覚した。
こちらの世界での身分を偽装するための"ゴッコ"とはいえ、憧れの彼に好きだと連呼されながら、甘々に甘やかされるという体験は確実に彼女を元の状態から変質させていた。
ノリコはベッドに横たわって、もう一度、時計を確認した。
『キャップ、川畑くんに伝えて』
『なぁに?ノリコ』
『寝る前に伝えておかなきゃって思って』
『いいよ。ますたー、きいてるよ』
ノリコは小さな妖精を見上げて微笑んだ。
『あのね。本物の私には今日の記憶は渡らないから安心して。本物の私は火事も洪水も怖いことなんて何も体験しないから大丈夫』
ノリコは少し瞳を揺らした。
『でもね。本物の私は川畑くんとの"新婚さんゴッコ"の記憶もないの。多分、カジノで遊んだ日までしか記憶は渡っていないと思う。……だから、今度、あっちのノリコに会ったとき、好きだっていったり、キスしたりしちゃダメだよ。あなたの奥さんだった私はこっちの私だからね。忘れないでいて』
ノリコの目の前に、ほのかに青白く輝く川畑が浮かんだ。
『忘れない。でも、どうして……』
ノリコは半透明の川畑に手を伸ばした。川畑は指を絡めるように手を握り返してくれたが、その手の感触はなかった。
『コピーはね、本体と解離が大きくなっちゃうと危険なの。だから、あまりに本体と違う気持ちを持っちゃったコピーはリセットされるんだって』
『そんなに今日、怖いめにあったのか?ごめん!のりこがそんなにつらい思いをしてたなら、体裁だの世間体だの全部無視して助けに行けば良かった』
身を乗り出した川畑をノリコはなだめた。
『そうじゃないの。ワタシが本物の私とずれちゃったのは、あなたへの気持ちなの』
『俺への気持ち?』
ノリコは川畑をじっと見つめた。
『あなたが好き。"ゴッコ"じゃなくて、本当にあなたのお嫁さんになりたい。ワタシ以外の誰か……本物のノリコにもあなたを渡したくない』
彼女は川畑の前髪をかきあげるように手を伸ばした。青白い光がわずかに跳ねたが、やはり触れた感触はなかった。
『あなたが今、そばに居ないことがたまらなく寂しい。ずっと一緒にいたい……自分が紛い物なのが悔しい』
触れない頬を指でなどる。
『こんな事故があったから、きっとこの旅行は終わっちゃうよね。だから最後に伝えておきたかったの』
彼女の目の前で、青白い光が薄れて消えて、実体の川畑が現れた。
『こっちに来ていいの?』
『君以上に守るべきものなんてない』
彼女は祈るように一度目を閉じて、それから川畑を抱きしめた。
『お願いがあるの』
『なんでも言ってくれ』
少し腕を緩めた彼女は額と額をつけたまま、恥ずかしそうに小さくお願いした。
『もしもまた目覚めることができたら、"ゴッコ"じゃなくて、本当の……恋人のキスをして』
彼女はそのまま眠りについた。
「あ、川畑さん。お帰りなさい。どうしたんです?急にすごい形相で転移しちゃって。そうそう、監視機器の類いはちゃんとごまかしておきましたよ。留守番は完璧です。凄いでしょ」
えっへんと帽子の男は胸を張った。川畑は難しい顔をして腕を組んだ。
「何か問題が?」
「この一件が終わったら、偽体のノリコはどうなる?」
「記憶をマージ後に仮想人格は消去、偽体は初期化して素体に戻します。ノリコさんの個性を使い回したりしないから安心してください。もともと偽体は、中の仮想人格が本体と定期的に記憶を一致させないと、稼働できないように安全策が施されていますからね。何かの事故や盗難で局の管理を離れても、定期的にメンテナンスされないと崩壊するから大丈夫です。本体の記憶や個性と著しい差異が発生した場合、長くても1週間から10日で中の仮想人格は消去されますから、洗脳や催眠なんていう悪質な犯罪の被害にあっても、平気ですよ」
帽子の男は安全性を自慢そうに説明した。
「だからこの船さえ無事なら、多少離れた船室にいても大丈夫。ノリコさんのことは気にせずに、船を無事に地球に届ける算段をつけましょう」
川畑は腕組みを解き、作り付けの椅子に力なく腰かけた。
『2つ頼みがある』
「なんですか?」
『1つは、この件が終わるまで偽体のノリコの記憶と本体ののりこの記憶に差異が生じても、偽体のノリコの記憶をいじらないでくれ』
「ああ、なるほど。急に記憶喪失になったり、意識が戻らなくなったりすると、その介護のフリで川畑さんの行動が制限されちゃいますものね。了解です。もう1つはなんですか?」
川畑は目を閉じて、絞り出すように呟いた。
『二度とのりこの偽体は作らないでくれ』




