上は大水 下は大火事
ノリコは急に傾いて横倒しになった劇場で、下手側に滑り落ちないように、フラムと一緒に必死に座席にしがみついた。ずり落ちそうになる体を左隣の席にいた親切な男の人が下側で支えてくれたので、彼女達はギリギリ落下を免れた。
客席の頭上に下がってた豪華なシャンデリアが大きく傾いだ。人々の悲鳴に混ざって、どこかで破裂音が聞こえ、シャンデリアが、人々が折り重なっていた壁際に向かって落下した。大きな悲鳴と怒号が響いた。ライトを仕込んだクリスタル風の樹脂素材のはずなのに、落下したシャンデリアの一部は砕けてそこから火の手が上がった。
すぐに自動の防火設備が作動して消火剤がかけられた。しかし、発火したのは特殊な溶剤のようで、火のついた液体が、倒れた人々の間を恐ろしい速さで流れて広がった。
「椅子にしっかり捕まって。いいかい、お嬢さんたち。できるだけ煙を吸わないように。ゆっくりでいいから、そちら側の通路沿いに舞台の方に移動するんだ」
「エントランスホール側のが近いよ」
フラムは黒髪の若い男に尋ねた。
「あっちはダメだ。先に避難した奴らで混乱してる。舞台から楽屋に抜けてスタッフ用の通路を使った方が、狭い分、縦横がおかしくても動きやすいはずだ」
騒然とした場内で、椅子を伝って移動していると、構造材が軋む音がして、断続的に床の傾きが変わった。
揺れる度に方々で悲鳴が大きく上がった。
ノリコは怖くてたまらなかったが、煙を吸わないように、悲鳴を噛み殺して、耐えた。
何度目かの揺れのあと、床の傾きはかなり元通りになったように思われたが、片側に体が引かれるような不快感が残っていて、まっすぐ歩くのが難しかった。重力がいつもより少し弱いせいで、強く蹴ると思いがけず浮きそうになる体をもてあましながら、ノリコとフラムは男に従って、舞台の袖に上がった。
「水だ!」という誰かの叫び声と大勢の悲鳴と破壊音が、エントランスホールの方から聞こえた。
振り向くと、開け放たれた入り口から、大量の水が流れて込んでくるところだった。
「ええっ!?沈没してる!??」
「そんな、宇宙船でそんなのあり得ない!」
黒い奔流は、非常灯と燃え広がる炎に照らし出された劇場のあらゆるものを押し流しながら迫って来た。
「ヤバい!逃げろ!!」
若い男はノリコとフラムの手を引いて、大きな歩幅で跳ぶように走り出した。
「防火壁がしまってる」
「あっちからも水が」
「そこの梯子を登れ!」
3人が舞台の奥の梯子を登り始めたとき、それより奥の暗がりから、助けを求める女性の声が聞こえた。
「そこに誰かいるのね。助けて!ドレスが挟まって動けないの」
それはさっきまで舞台で歌っていた女性だった。
「ちっ、嬢さん達、先に上ってろ」
男は浅く溜まり始めた水をはね飛ばしながら、歌い手のところに向かった。
「くそっ、がっちり噛んでてとれやしねぇ」
女のドレスは、落下したらしい機材の間に挟まって、金属の噛み合った部分に引っ掛かっていた。
「あんた、これ脱げ!」
「ええっ!?」
「丈夫な生地だから破くこともできねぇ。ドレスと心中は嫌だろう!」
水位はどんどん上がってきていて、このままだと彼女のいる位置がほどなく水没するのは明らかだった。
「ああもう!仕方ないわね!」
彼女は悪態をつきながらドレスを脱ぎ捨てた。
「急げ」
「触らないでよ!」
「んなこといってる場合か!」
二人は罵り合いながら、ノリコとフラムが先に避難した梯子を上った。
「どこからこんな水が来たのよ?」
「プールだ。内輪層のプールの水がエレベーターシャフトから流れ込んで来ているんだろう」
「なんでそんなことに」
「よくわからんが爆発っぽい振動があった。ハブか内輪層の一部が破壊されて、プールの水を浮かせてた制御が切れたんだろう。そこへこの加速だ。想定外のGがかかってあちこちがいかれたんだと思うが、普通に考えたら、このクラスの客船ではそんなことにならないように何重ものセーフ機構があるはずなんだ」
「手抜きなの?!」
「そうと決まった訳じゃない。船の構造をわかってる奴が破壊工作をした可能性が……」
「待って、火が!」
「火が水の上を走ってる」
上昇する水面に、油膜のようなものが激しく燃えながら流れ込んできた。舞台脇の幕に引火して煙と炎が噴き上がる。
「登れ!煙が充満する前に照明用のフレームを伝って上手側に行け」
「上手からキャットウォークに抜ければ奥の扉から楽屋裏に出れるわ」
「急げ!」
ノリコは梯子の上端から、照明が吊るされたフレームを見た。フラムが個人端末のライトを点けてくれた。背後の赤い炎と、白いライトの明かりにフレームが黒々と浮かぶ。
帆柱から落ちた時のことを思い出して、ノリコの体は強ばった。血の気が引いて手足の感覚がなくなる。
『ノリコ、だいじょうぶ。ぴょん!ってすればいいよ。ボクがささえたげる』
キャップは、ノリコのボレロ風の上着の肩に乗って、ノリコの頬にキスをした。
『ますたーのかわり』
ノリコは体の芯が熱くなるのを感じた。梯子を握り締め過ぎて白くなった指先に感覚が戻る。
『さぁ、ぴょん!』
妖精の掛け声にあわせて、梯子からフレームに飛び移る。思ったより体は大きく飛び、ゆっくり落ちた。ノリコが乗るとフレームは少し軋んで揺れたが、落ちる気配はなかった。
「そのままどんどん渡れ!」
助けた女性と一緒に、梯子を登って来た男に急かされて、ノリコは四つん這いのまま、揺れるフレームの上を進んだ。
背後で明かりが揺れる。フラムがフレームに飛び移ったようだった。自分の動き以外でのフレームの揺れに、ノリコの動きが止まった。
『ノリコ、だいじょうぶ。へいき、へいき』
キャップに励まされながら、ノリコはなんとかフレームを渡りきった。
キャットウォークを抜けて、奥の扉を開けると、そこは物の散乱した小部屋だった。
「水はない。早く入れ。煙が入って来る前に閉めるぞ。嬢ちゃん、中を照らしてくれ」
「僕はフラム。嬢ちゃんって呼ばないで」
「わりぃ、フラム。俺はMMだ。他に出入口はあるか?」
「向かいに扉がある」
MMはキャットウォークに続く扉を閉めると、振り替えって、フラムが照らした扉を見た。
「おい、姉ちゃん。あの先は?」
「ミラよ。公演見に来たならアーティストの名前ぐらい覚えて。あの先は通路よ。楽屋とかスタッフの会議室とかに繋がってるわ」
「隣の区画に行く通路は?」
「あったと思う」
「行ってみよう」
小物を避けて部屋を抜け、通路に出たところで、また体にかかる重力が変わった。
「や、落ちる!」
「落ちてんじゃない。加速が止まっただけだ」
MMは浮き上がりかけたノリコの腕を掴んで引き寄せた。
「ミラ、どっちだ」
「左よ」
目的の通路は、隔壁が降りて封鎖されていた。
「手動で開けるか」
「待って、MMさん。これたぶんこの向こう繋がってないよ。ここのランプが赤くなってる」
「ただの防火壁じゃないのか」
「気密確保用の非常隔壁だよ。船内ツアーで教えてもらった。たぶんさっきの加速で、加速期間の形態に遷移した時、連結部に異常が発生したんだ」
「どういうこと?」
「このシャッターの向こうは通路じゃなくて宇宙空間ってこと」
ミラは眉を寄せて「戻るのはごめんだわ」と身震いした。
「乗員用のエレベーターはどこかな?他の階層の通路なら繋がっているかも」
「災害時にエレベーターは使えないし、さっきの話だと水が落ちて来てるんじゃないんですか?」
「乗員用の方は大丈夫かもしれない。幸い加速が止まって微小重力環境になってる。エレベーターシャフト内を移動するのはそんなに難しくない」
「こっちよ」
乗員用のエレベーターには、一見異常はなかったが、"ご利用できません"の表示が浮かんでいた。
MMが扉をこじ開けると、暗いシャフト内を覗けた。
「行けそうだ」
「どちくしょう!行かせてくれ!のりこがピンチなんだよ」
「うるさい。ちょっと黙ってろ」
保安係は川畑の口に医療用のパットを張り付けた。
川畑は、手足の粘着テープを剥がされないまま、急患用のストレッチャーにうつ伏せに拘束されていた。
船長は結局、川畑を解放しなかった。保安係の方だけ解放して立ち去ったのだ。保安係は幸い怪我はしていなかったようで、カウンターに入っていた救急キットに入っていた無針注射器で、船長に何かの薬剤を射ってもらい、意識を取り戻していた。加速による重力が消失すると、保安係はストレッチャーに川畑を固定して、乗員区画のどこかの狭い部屋に運んだ。
「ここでおとなしくしてろ」
ストレッチャーを床の金具に固定すると、保安係は鍵を閉めて立ち去った。
MMが主役ムーブしてます。
ビジュアルも気質も彼の方が主役向きなのでしょうがない……主人公は身動き取れないせいでこのままだといいとこなしで終わるが、大丈夫か?




