見た目準拠だとわからないこともある
エリザベートは公爵家に生まれた。家柄や他家の女児の年齢を鑑みるに、彼女が将来的に王家に嫁ぎ、王妃、国母となる可能性は極めて高かった。
フェールグリン公爵は愛情深い男ではなかったが、上流貴族としてのドライな判断力で、エリザベートを大切に育てた。もっとも、この場合の"大切に"というのは、優しく可愛がることを含まない厳格な管理を指したので、彼女の幼少期は子供らしい無邪気さとは縁遠かった。
だから、誘拐事件がキッカケで始まったこの森の中での奇妙な生活は、彼女にとっては初めて体験することばかりだった。
まず、きちんと教育された上級使用人が一人も同行せずに、素性がよくわからない男と二人きりで人里離れた森の中の一軒家に放り込まれたこと自体が衝撃だった。当初は新手の誘拐犯に騙されているのではないかと疑ったぐらいだ。
だが、誘拐犯のならず者にしては、彼女をここに連れてきた男は立ち居振る舞いにどことなく品があった。それでいて人前で靴を脱いで裸足で歩き回るような行儀が悪いことも平気でするし、彼女に適切な敬語も使わない。実にチグハグな印象の男だった。
男はどうやら上流階級の言葉を知らないというわけではなさそうだった。むしろ語彙は広く、高位の貴族のような言い回しや抑揚で話す上に、上級司祭がするような食前の祈りを諳んじてみせたことすらあった。
にもかかわらず、彼は食前の祈りどころか、就寝前や朝の礼拝すら不要だと言って行わなかった。家の中の唯一の成人男性の指示なので、身分はさておき女児の身であるエリザベートは従わざるを得なかったが、何もしないというのはひどい冒涜で堕落した気分で、どうにも落ち着かなかった。
男は背が高く力も強そうで、やや威圧的だった。エリザベートはその手の男性の権威に従順に従うように教育されてきたので、その事自体に特に抵抗感はなかったが、男の方は子供に何かを命じて従わせること全般が苦手なようだった。彼はエリザベートに細かく指示は出さず、放置して好きなようにさせ、彼女が何をしても、危険なこと以外は文句も言わなかった。
エリザベートは習慣的な信仰と権威から切り離された自由な生活というものに、戸惑いと不安を覚えた。
どうしていいかわからず萎縮していた彼女の支えになってくれたのは、奇妙なことに信仰と社会的権威の真逆の存在だった。
「チミ〜、おいで〜」
その真っ黒な生き物は、犬でも狐でも狼でもなかった。艷やかな短い毛並みに覆われたしなやかな身体と細長い尻尾。三角形の耳の先にはクルクルした巻きひげ。「うにゃん」だの「みゅうみゅう」だの可愛らしい声で鳴くこともあるが、基本的には静かで大人しい。
最初はその見慣れぬ獣の仔を不気味に思ったが、次第に可愛らしく感じた。そして、小さな生き物は彼女の心細くてさみしい気持ちを心配するかのようにそっと隣に寄り添ってくれたので、つい触ってしまった。
柔らかい手触りと優しい温もりはエリザベートの心を癒した。
身支度の用などで使用人の手が少し触れる以外には、他者との接触の経験がほぼなかった彼女にとっては、それは人生で初めて生き物と触れ合う体験だった。
膝の上にのせたチミの背をゆっくり撫でたり、抱え上げてぎゅっと抱きしめたりすると、嫌な気持ちが溶けていく気がした。
「チミはもうおっきくならないの?」
小さな声で耳うちすると、チミはぴょこんと尻尾を揺らした。
「ふふっ、わかってる。内緒なんだよね。大丈夫、ちゃんと秘密にしてあげる」
この不思議な黒い獣は、どういうわけか一夜にして大人の男性よりも大きな姿になることもあった。新しい侍女が来た途端にまた小さくなってしまったところを見ると、大きな姿は見つかると都合が悪いのだろうとエリザベートは理解していた。
たしかにあの姿の未知の獣が居たら、普通の人は悲鳴をあげて逃げ出すか、討伐を命じるだろう。
でもエリザベートは大きなチミも綺麗で素敵だと思っていた。
「私はおっきなチミも大好きだよ」
こっそり教えてあげると、チミは何やら得意そうな顔をして、小さな前足でエリザベートの手をポンと叩いた。
チミが小さくなってしまったので、食事やエリザベートの身の回りの世話は侍女のティーラが行うことになった。
専属の侍女が付いてくれるのは元の生活に近くて安心できたが、この侍女が料理までできてしまうのには驚いた。公爵家の使用人は専門分野が決まっていたので、オールマイティに何でもできる使用人というものには馴染みがなかった。よく考えると、オールマイティに何でもできる謎の獣の方が不可思議な存在なのだが、チミはもう存在自体が非常識なので、そういうものだと思っていたところがあった。
ティーラはよくできた侍女で、器量もよく、何でも手早く完璧にこなした。当初はそれでも少し緊張していたのか表情が硬く、護衛のアルともいささか強めの物言いで衝突しかけていた。しかし、その日の午後にはもうすっかり馴染んで、以降は始終笑顔で上機嫌な様子だった。
「ねぇ、チミ。ティとアルってお似合いよね」
就寝時の部屋割をどうするかで話し合っているらしい二人を、奥の小部屋から覗きながらポツリと言ったエリザベートの腕の中で、小さな獣はふぎゃっと変な声を上げた。
「思わない? アルはティのこときっと意識してるし好きになりかけてるよ。……ティは女らしくて美人だから」
抱えられ方が気に食わないのか、尻尾をブンブン振るチミをエリザベートは抱え直した。
エリザベートは夕の食卓を思い出した。
公爵家の娘という身分は伏せている建前なので、シシィと名乗ることになった彼女は、本来なら食卓を囲む身分ではない二人と一緒にテーブルについて食事をとった。アルとティは穏やかに談笑し、食事は大変に美味しかった。エリザベートは庶民の暮らしはまったく知らなかったが、森の中の一軒家でお父さんとお母さんのいる生活というのは、こういうものなのではないかと思った 。
エリザベートの親というには、この護衛と侍女は若すぎたが、二人で並ぶと大変サマになるので、若い娘が考える理想の若夫婦像にはぴったりだったのだ。
彼女は憧れと幾ばくかの羨ましさのこもった溜息をついた。
「チミ……お休みしようか」
心配顔で自分を見上げている小さな友人をキュッと抱きしめて、エリザベートは寝台に向かった。
「あっ、お嬢様。お待ち下さい」
チミを抱えたまま横になろうとしたエリザベートに、侍女のティーラはいささか焦った様子で待ったをかけた。
「チミをベットに持ち込んではいけません」
「でも、いつも一緒なのよ」
「まあ! いけません!!」
獣と寝台で休むということによほど驚いたのか、ティーラは悲鳴をあげた。
「どうして? チミは大人しくていい子なのよ」
「でも……」
ティーラは言葉を探すように、数拍ほど逡巡してから、きっぱり言った。
「ベットにダニを持ち込んだら大変です」
チミは耳の先の巻きひげと長い尻尾をピーンと伸ばして一度硬直してから、しなしなと力なくエリザベートの腕の間から滑り落ちた。
翌朝、エリザベートが目を覚ますと、裏の納屋の横手に"お風呂"ができていた。
一晩で作った。
不潔呼ばわりは看過できない。
(なお、どうやって入るかは考えていない)




