猫は無罪
うにゃん
黒い仔猫はいかにも無害そうにころりと転がった。
事前に与えられた情報では、呪いの魔獣ということだったが、とてもそうは見えない。
「チミちゃん、かわいいでしょ」
公爵令嬢エリザベートは子供らしい小さな手で無邪気に仔猫をこねるように撫でた。
仔猫は小さな身体のわりにはやや太めの脚をジタバタさせて、控えめな抵抗をした。
みゅうみゅう
バランスの悪い格好で抱え上げられた仔猫は、哀れを誘う声で弱々しく鳴いた。
「(こ……これが、川畑くん)」
時空監査局の指令を受け、侍女の役でこの世界に派遣されたノリコは、目の前の奇跡に息を呑んだ。
「(かわいい〜っ!!)」
あの! 大きくて、大人な落ち着きと余裕があって、優しいけどちょっとぶっきらぼうなところがある川畑(※ノリコ主観)が、こんな無力な仔猫に!!
「ティも抱っこする?」
今回のミッションの保護観察対象でノリコの主人にあたる令嬢は、黒い仔猫をノリコに差し出した。
これは断れない。
ノリコは恐る恐る両手を差し出して仔猫を受け取った。
柔らかい。軽い。頼りない。
川畑に触った時には絶対に出てこないであろう感想が脳裏に浮かんで感動する。これは現実かと手の中の生き物をじっと見つめると、つぶらな瞳と目が合った。
かつて川畑の目がつぶらだったことなど一度たりともないが、気恥ずかしそうにプイっと視線を逸らせるそのタイミングが完全に川畑だった。
「はうっ」
ノリコは声にならない叫びを上げて、思わず仔猫を抱きしめた。かわいい。ナニコレかわいい。
ノリコが抱きしめても撫でても頬ずりしても、仔猫は無抵抗で、ただ「ぅに……ゃ……」と微かな鳴き声を漏らすだけだった。
§§§
なんだコイツ。
新しくやってきた侍女の手の中でクニャクニャになっている魔獣は、どう見ても様子がおかしかった。
そもそも、彼女が突然やってきた時にいきなり”縮んだ”のがすでにおかしいのだが、以後の態度がこれまでとはかけ離れすぎている。
姿は俺が拾った時よりはやや大きい。それでもこちらに来る前、俺の家で飼っていた頃の名前通りちんまいチミだ。最近のあのふてぶてしいデカい魔獣の面影は跡形もない。あえて言うなら毛の色と巻きひげ付きの三角形の耳ぐらいだが、それもどことなく様子が違う。
黒光りしていた体毛は、ややふんわりして柔らかいシルエットを形作っているし、巻きひげも心なしか巻きが緩く、妖しく振動するというよりプルプル震えるという感じの動き方をしている。……そして、態度があからさまに甘えくさっている。
俺が相手の時には、渋々撫でさせてやっている、不本意だがかまってやるという不満感が見え見れだったし、子供が相手の時ですら仕方がないから付き合って面倒見てやろうという上から目線が透けて見えた。
しかし、今は違う。
トロンっととろけた目付きでうっとりと全身を彼女に任せ、呆れるぐらい幸せそうにしている。反抗心どころか警戒心すら一欠片もないだらしない有り様だ。
なんだかイラッとしたので、俺はティーラと名乗った侍女のところに行って、横からチミをつまみ上げた。
「これは俺が拾った素性のよくわからない獣だから、あまり触らないほうがいい。引っかいたり噛みついたりされるかもしれない」
チミはジタバタもがいた。子供が「チミは引っかいたり噛んだりしないよ」と言うと「そうだそうだ」と言わんばかりにみゅうみゅう鳴いて抗議する。
こいつめ。
「今は仕事の邪魔になるから表に出しておこう」
俺はチミの首根っこをつまんだまま外に連れ出した。
戸を開けてポイっと投げ捨てると、チミは空中で身体を器用に捻って、綺麗に着地した。
『何をする、乱暴だぞ』
生意気に口答えしてくる声は、体格に見合わない低く野太い声だ。どうやらコイツは口や喉で音を出して喋っているわけではないらしい。全くもって胡散臭い魔物だ。
「お前こそどういうつもりだ」
『この姿か? ちょっとした気遣いだ。猛獣がいると騒がれるよりいいだろう』
「気遣いであの態度か?」
『つまみ出されるようなことはしていないだろう』
「あざとく媚を売りやがって。気色の悪い」
『え……気色悪かったか……』
何やらまともにショックを受けたらしく、チミは落ち込んだ様子で、しなびた青菜のように地面に横たわった。今の小さいなりでそういう反応をされると、絶妙に可愛らしいのだが、どういう思考をしているのかは皆目見当がつかない。
「まあいい。触手の生えた凶悪な大型獣が徘徊しているよりは受け入れやすいだろうから、そのままの姿でいろ。不気味だからその声で迂闊にしゃべるなよ」
『たしかに触手は論外だが……声もダメかぁ……』
突っ伏したまま、小さな爪で地面をカリカリと力なく引っ掻いて、この世の終わりのような嘆き方をしている小動物というのは、なんとも見ていて面白かったが、俺はチミを見捨ててさっさと家に戻った。
侍女のティーラは大変気の利く娘で、特に指示しなくても、この家にあった子供の身の回り品を整理してくれていた。おまけに着るものなども追加で持ってきてくれていたらしい。当初は一日二日のはずの滞在が長引いていて着替えやちょっとした小物が欲しい状態だったのでありがたかった。
「男の子みたいな飾りっ気のない服はたまに着る分には楽しくても、ずっとそれだけで何日も同じだとちょっとつまらなかったでしょう。ドレスはさすがに持ってくるのが無理でしたが、こちらはタフタのフリルがかわいいですよ。夜着や下着もちゃんとレースのある肌触りのよいものをご用意しました」
彼女が持ち込んだ大きなカバンの中身を覗き込んで、俺は不思議に思った。
「おいおい、それじゃまるっきり女物のドロワーズじゃないか。いくらこの子がかわいらしい子だからといってそれは……」
「お嬢様の下着を見ないでください」
「お嬢様?」
「えっ?」
子供と侍女は二人揃って、俺を奇異なものを見る目付きで見たあと、コソコソと二人で内緒話を交わした。
「どういう放置のしかたをすれば、二人きりで何日も一緒に住んでおいて、いまだに性別がわからないなんてことが起こるんですか」
俺はここに来てからの生活を思い返してみた。
そういえば子供は常に完璧に身支度が整えられた状態で割り当てた部屋から出てきていた。……チミに連れられて。
着替えや洗濯も一切合切、魔獣がいつの間にか完璧にこなしていたとは流石に言えず、俺は口ごもるしかなかった。
その後、自己紹介はもちろん、子供に名前もろくに教えていないとバレて、俺の評価は徹底的に下がった。
「どうして二人とも”チミ”は名前で呼ぶのに、お互いの名前はろくすっぽ知らないんですか!? おかしいでしょう」
「いや、素性を隠してお忍びで潜伏している最中なわけだから名乗り合うのは……」
「偽名でも通り名でも愛称でもいいでしょう。何かあったとき名前を呼ぶという基本的な救援要請ができない状況を放置のは、リスクを増大させるだけなので看過できません」
ほっそりして可憐な見た目の侍女の詰め寄る理詰めの圧はチミ並みだった。
「ア……アルでいい」
「お嬢様、こちらの護衛はアルと申すそうです。アル殿、こちらはシシィお嬢様です」
「ティーラ。私の名前はシシィじゃないわ」
「こちらのアル殿は、本当の名前は名乗らないほうが良いとお考えのようですので、お嬢様も仮の名前を使いましょう。よろしいですね」
「素敵ね。なんだかお芝居のようでワクワクするわ」
「お嬢様が笑顔になってくださって、ティはうれしいです」
「ティが来てくれてよかった! ありがとう、ティ」
俺はそーっと部屋を出て、外の薪割り場に行った。
薪割り台の丸太に腰掛けると、チミが短い足でテトテト歩いてきて、ひょいと膝に乗った。
「慰めてくれるのか」
『何を寝言を言っている。薪割りと水汲みは終わっているから、さっさと畑にいけ』
俺は神への祈り方ってどうだったかな? とこめかみを揉んだ。
悪魔のような黒猫
ただし無罪




