喰えない奴
頼りない月明かりが枝葉の隙間から細い筋になって差し込んでいる夜の森を歩く。
俺の前をゆくチミの黒い姿は闇に沈んでほぼ見えない上に、なぜか足音すらほとんどしない。
山奥と違ってさほど下生えや藪もない貴族の狩猟用の森だが、それでも芝生ではないのだ。こうも静かに移動されるとついていくのも一苦労だ。
「その"澱み"というのは、夜にしか魔獣が湧かないものなのか?」
何もこんな夜更けに森歩きをしなくても昼間に来れば良いのにと尋ねてみると、チミは面倒そうに振り返って、お前はアホかと言わんばかりの眼差しでこちらを見た。闇の中で魔力光で怪しく光る魔獣の目がそういう人間臭い表情をするのはなんとも言い難い嫌さがある。
チミは肩から伸びた触手をうねらせた。月光に薄く照らされたそれはどうしようもなく魔物っぽい。
"コドモ(背の低い人型シルエット)がナク(目元を拭う仕草)からオデカケ(触手の先の毛房を二股にして歩くように交互に前後に動かしながらぐるりと一回り)はネカシツケテ(お休み中ポーズ+ポンポンと優しくあやす手振り)から"
「わかるけど、わかりにくい!」
[要隠密行動]
文句を言ったら、ハンドサインで叱られた。出発前に覚えさせられたいくつかのパターンのうちの一つだが、それは「うるさい黙れ」の意味で使うサインではないだろう。
と思ったら、意外に本気で警戒が必要な事態だったらしい。スッと移動して身を伏せたチミに従って、俺も手頃な物陰に身を潜めて低く身構える。
チミの気配が闇に溶け込んで消える。魔物め。嫌になるくらいの隠密技術だ。闇夜でもかろうじて輪郭を見分けられる程度に放射されていた魔力が消えた。それなりに魔導の心得のある俺でも、そこまで完全に抑えるのは難しい。
とはいえ、飼い主の身でケダモノに負けるのは業腹なので、俺もできるだけ気配をころす。
じっとりと重い霧が森の奥から流てきた。闇を探るように目を凝らすと、低く流れてくる冷たい霧の向こうから何者かがやってくるのがわかった。
大きい。
四足獣ではない。直立した熊よりもなお大きい。
闇の中でかろうじて見分けられるシルエットは人に似ているが、人ではあり得ない。頭部は梢に隠れている。身の丈は常人の二倍ほどもありそうだ。
低い枝を掻き分けてこちらに近づいてくるその姿が、雲間から切れ切れに射す月明かりに照らし出される。
黒っぽい毛むくじゃらの巨躯。両腕は丸太のように太く、人がましい五指を備えた手には真っ赤な大鉞を握っている。そして、その頭部は……。
「(牛!?)」
農園で鋤を引く牛よりもずっと立派な角が生えた大きな牛の頭が、筋肉が巌のように盛り上がった肩の上に載っている。
牛頭人身の化け物は、フンフンと鼻を鳴らしながら周囲を見回した。
まずい。気配や魔力は抑えられるが、臭いをごまかすような策は何もしていない。
相手の獣臭い異臭は漂ってきている。この体臭の持ち主がこちらの臭いが嗅ぎ分けられるほど鼻が良いとは思えないが、自分の体臭は気にならないという奴だと困る。
牛頭の巨人が持つ大鉞は長柄の両刃斧だ。あの巨躯であれを振り回されると、間合いがむやみに広くて厄介なことこの上ない。
わずかに魔力を帯びた霧が辺りに立ち込めていく。
牛頭の巨人の姿も月明かりと魔力を散乱させる霧で見分けられなくなる。
ブモォオオオォッ!!
不意に低い雄叫びが轟き、真っ赤な大鉞が大気を切り裂いた。
咄嗟に飛び退いた目の前で、さっきまで身を隠していた倒木が真っ二つに断ち割られる。
渦巻く霧を割って、真っ黒な牛の頭部がぬっとこちらに迫った。血走った目、剥き出された歯、殺意のこもった雄叫びとともにまき散らされる涎。
俺は大鉞の二撃目が来る前に、さらに大きく飛び退いて牛巨人から距離を取ろうとした。
が、相手が速い!
倒木の破片を巻き上げながら、大鉞が振り上げられ、太い脚の大きな歩幅の一歩で間合いを詰められる。
狂ったように首を振りながら伸び上がって鉞を振りかぶった牛巨人は、次の瞬間、絶叫した。
チミだ。
何をやったかはこちらからは見えなかったが、強烈な一撃を相手の背に与えたらしい。牛巨人は己に危害を加えた存在を探して振り向いた。
今だ!
俺は敵が晒した大きな隙をついて相手の間際に踏み込み、手にした愛用の剣を振るった。
腹を断ち割られた牛頭の巨人は、己が振り上げていた大鉞の重みで、どぅと倒れた。
「なんなんだコイツは。これが森から湧くという魔獣なのか?」
チミは不機嫌そうに肯定の素振りをした。
「食材だと言っていたな。これを食う気か?」
チミは鼻面にシワを寄せて唸った。
『牛がこういう感じで来るとは思わなかった……人型魔獣はさすがに忌避感が強い』
「お前、魔獣なのにそういう倫理観はあるんだな」
『無分別な人喰い虎扱いは止めてくれ。ちゃんと知性も理性もある』
チミは俺を見あげると不満げにそう抗議した。こいつは言いたいことがある時はちゃんと流暢に人語をしゃべるらしい。
「食うと言い出されても、こんなデカブツの解体は御免だがな」
チミと俺は揃って巨体の裂けた腹部を見た。でろん……と内臓が出ている。
チミはがくりとうなだれた。
挙げ句、未練そうに獲物の周りをうろついた。しかしどうにも気に入らないらしい。
チミは曖昧な唸り声を漏らしながら、倒れた牛頭巨人の頭部を前足でつついた。
「どうする」
『これは食べない』
チミは数歩下がって、しょんぼりとうなだれた。




