書体のサンプリングに難あり
その獣は美しかった。
黒くしなやかなボディは成人男性よりも一回り大きい。悠々と寝そべる様は泰然としていて、ふてぶてしかった。
黒い”豹”。
実物を見たことはないが、それを見て浮かんだのはその名だった。王国に生息する動物ではない。王室書庫の博物記か何かで見たのだろうか。
だが、異郷の獣だとしても、明らかにそいつはおかしかった。
その太い前足の付け根、ちょうど肩口のところからは、革鞭のような触手がニュルリと伸びていた。触手の先は獅子の尾のように毛房になっているのだが、これがどうやらただの毛ではないらしい。
黒い獣はその繊毛でブラシを握って、子供の髪を梳かしていた。
「チミ。ご本を読んでいるんだからお邪魔はメッ」
獣にもたれて本を読んでいる子供は、まるでソファーに座るように大きな獣の身体にすっぽり収まっている。呆れたことに、獣はもう一本の触手で、書見台よろしく子供が持つには少し大きくて重い本を支えていた。
「(いや、なんで当たり前みたいに子守しているんだ)」
どう考えても魔物で、明らかに討伐対象なのだが、剣に手をかけようとすると、獣は何もおかしくないとゴリ押するように威圧してきた。挙げ句に子供にくっついて、あれこれ世話をしているのだ。子供は子供で初手から「わあ! チミ、キレイ。かっこいい」と、それが"チミ"であることを一欠片も疑わずに受け入れていた。
「(どうすればいいんだ、一体)」
平和すぎる異常事態につい流されてしまったが、大切な預りものの貴族の子が、得体のしれない魔物に人質に取られているも同然というのは大問題である。
今のところ害はなさそうだが、いつどうなるかしれないので目を離すのも怖い。
それはそれとしてあの本は? と確認したところで、ひゅっと喉が鳴った。
魔導書だ。
解呪の参考にと魔術師の塔から借りてきた一級資料である。取り扱いには細心の注意が必要で、手荷物に丁寧に梱包してしまっていたはずの品だ。図版が多く装丁は美しいが、子供が読むものでも、獣が扱って良いものでもない。
「ねえ、次はこれやって、チミ」
無邪気に図版の一つを指差す子供に、チミはブラシを置きもせず、ヒョイっと肩越しに本を覗き込んだ。
チミの黒い三角形の耳の先から伸びている巻きひげが風もないのに震える。豆の蔓の先のようなそれが振動するのに合わせて、空中に魔力が収束する。
ポン! っと、小さな輝きが子供の目の前に灯った。
「わあっ、きれい」
キャッキャと喜ぶ子供の前で、輝きはキラキラ回って、七色に色を変え、小さな蝶になって舞った後、捕まえようとした子供の手が触れる直前に弾けて金色の光の粉になって散った。
なんてことだ。今の一瞬で、そのページで紹介されている光魔法の基礎から応用まで一式やっている。術の重複発動。流れるような連続展開。子供に害を与えない調整。不意に動く相手にタイミングを完璧に合わせた動体の精密制御。
塔の魔術師でもこれほどの術者は少ないだろう。
愕然とする俺の前に緑色の火花が弾けた。火花は熱のない緑色の炎となって走り、空中に魔法陣用の書体で文字を描いた。
【贄を捧げよ】
おぞましさに総毛立った。これは邪悪な魔獣だ。
【街に行き贄を購え】
「お前の言う事など聞くものか!」
緑色の炎を手で払い除け、子供を救い出そうと踏み込むと、黒い魔獣は触手で子供を抱え上げ、ひらりと身をかわした。至近距離で向かい合う。漆黒の獣の頭部で目だけが先程の炎と同じ色に光る。ピンと立った耳の先の巻きひげが揺れる。
魔術か!とっさに距離を取った。
「くそっ、その子を離せ!!」
【汝に命じる】
緑色の炎が古風な文字を形作る。
【街に行き以下の贄を購え】
輝く文字は、魔獣と自分との間に、まるでスクロールに書かれたリストのように流れた。
【柔らかい肉】
【白いパン】
【新鮮なミルク】
【バター】
【チーズ】
【卵】
【豆】
【タマネギ】
【カブ】
【芋】
「台所の食材のお買い物リストかよ!!」
チミは、こくこくと頭を上下に振った。
魔導書の引用で作文はよくない。
※魔獣っぽい格を落とさないでほしいという川畑のリクエストを、翻訳さんが解釈した結果、ああなった。
……いくつかなぜその名詞が魔導書にあったのか謎な食材があるが聞かないで。怪しい薬作るときにバター入れたやついたのか?(笑)




