五里霧中な夜明け前
霧が立ち込めていた。
夜明け間近の裏通りに人通りはなく、ただ霧に濡れた石造りの壁と石畳が黒ぐろと静かにその区画を切り取っていた。
「ちっ」
苛立った舌打ちは目の前の男の口から出たものだったのか、己の焦燥か。
川畑は動かない身体と、ぼんやりした五感に腹を立てながら、状況の確認に努めた。
単純に暗いのもあるが、魔力を含んだ霧が立ち込めているせいで視界が悪い。すぐ目の前にいる人影の人相風体すらよくわからない有り様だ。
だがこれが、悪意ある敵なのは間違いない。霧を割くように相手が突き出した手から走った紫電が弾ける。川畑は、己にまとわりつく呪属性の術式が発動し始めるのを感じた。
「(うわぁ、時空監査局の奴ら、術がかかった瞬間にエージェントの意識を引っこ抜いて、術が効果を発動するギリギリのタイミングで、入れ替わりに俺を放り込みやがったのか)」
ひでえことしやがる。
このタイミングでは、魔法に抵抗もできない。せめてもと術式の解析を試みるが、入った偽体の元々の構造を把握する前に、かけられた魔術による体構造の変性が始まってしまう。
オマエはケモノだ。
術による暗示が精神面にダイレクトに効く。
偽体を対象にして術が発動しているので、精神構造の中枢にモロに干渉が入ってくる。
変われ、オマエはケモノだ。
破壊を司る魔獣。闇の生き物。
その身を変え、真の姿を取り戻せ。
「(ああー、なるほどぉー)」
川畑は、強力な魔術で、己の身体が強制的に変性させられていくのを感じながら、ここに来る前に帽子の男がした質問の意図を察した。この魔術は、術の対象になった者が、自身が想像した恐ろしい魔獣の姿に変身してしまう術らしい。しかも、対象者が明確に"魔獣"を想像できないと、本人の恐怖が生み出すイメージが連鎖的に実体化する嫌な判定になっている。
普通、突然こんな目に会って、オマエは魔獣になれ、と言われたからといって、詳細な魔獣の肉体の設定をイメージできる酔狂な者はいない。十中八九、恐怖の妄想が暴走して周囲に災難を振りまく迷惑仕様だ。
「(だから、事前に話題に出して、連想の幅を絞ってきていたのか)」
巨大化NGというのもごもっとも。
それならそれで事情を説明してくれたほうが楽なのにと思いつつ、しょせんはあいつはあいつだから……と、川畑は帽子の男の残念さには、寛容でいてやることにした。
「(さて、そういうことなら、ここはひとまず"変身"自体は手取り早く完了させるか)」
なりたい魔獣のイメージは万全だ。
むしろ呪いに協力する勢いで身体を作り変え始めた川畑の心の内に、なおも急かすように、呪いの声が響く。
獣よ、破壊の化身となれ!
「(はいはい、わかってるって)」
鋭い爪が生え、毛に覆われて、獣の前足になっていく手を、川畑は眼前の"敵"にぬっと伸ばした。牙が伸びて口角が裂けていく口から、人の声を失う寸前の言葉が漏れる。
「まずはオマエヲ……」
全部言い終わる前に、恐怖に駆られた相手から放たれた術が直撃した。
時間限定の無力化と弱体化らしい。抵抗しようとしたが、発動中の術に重ねられたせいで、変な通り方をした。
「(変身中の攻撃は反則だろう〜)」
人語にならない叫びは霧に吸われ、魔獣と化した川畑は闇に沈んだ。




