歓談
ホテルのバーは、木彫の壁と格子天井の重厚な雰囲気で、赤を基調にした絨毯とカーテンを始め、ファブリックは同系色で統一されていた。
川畑は頃合いを見計らって、老教授を中心に数名の紳士とヴァイオレットがいるテーブルに近付いた。
「まぁ、エリック。どうしたの?」
事前打ち合わせ通り、すんなり偽名の方で呼んでもらえて、川畑は内心で安堵した。彼女は詐欺には向いていないが、この程度の演技はうまくできるようだ。
「おじが急用で先に戻らないといけなくなったので、代わりに参りました」
「あら、ではわたくしも戻りますわ」
「いえ、気にせずゆっくりしていって欲しいとのことです」
テーブルの紳士達は、突然現れた青年を一瞥したが、川畑が「ご歓談中のところお騒がせして申し訳ありません」と一礼し、ヴァイオレットが「エリックは知人の甥なんですの」と、無難な最低限度の紹介をすると、大半は値踏みする気もない様子で視線を外した。
「ああ、君は今夜、ローゼンベルクの跳ねっ返りのお守りをしていたな」
他の教授や技術者連中よりは、人間に興味を割いているらしき男が、訳知り顔でうなずいた。
「我儘娘の癇癪の相手は大変だったろう」
「いいえ、彼女はとても素直で可愛らしいお嬢さんです。ご一緒させて頂いて楽しい方ですよ」
その場の紳士達は面白い冗談を聞いたというように笑った。
「では君は所構わず癇癪を起こして怒鳴り散らされたりはしていないわけだ」
「彼女がそのようなことを?まさか」
「ほう。ローゼンベルクのお姫様は今日は機嫌が良かったとみえる」
「先日の音楽会もにこやかに楽しんでいらっしゃいましたし、仰られるようなご様子はお見掛けしたことがありません」
「なるほど、君はよほど気に入られているようだな。よく一緒にでかけているのかい」
「よく、というほど頻繁ではないです。お会いしたときに、次の予定を決める程度なので」
紳士は青年に椅子を勧めた。
見かけない顔だが、ローゼンベルクの娘とそれなりに付き合いがあって、しくじっていない男なら、多少顔を繋いでおいて損はない。
あそこの娘は気が強くて手に負えないが、それだけに無能をそばに置いて我慢できるたちではない。
「今、ちょうど先端技術が社会に及ぼす影響について、発展と弊害の両面から討論していたところなのだよ。君の考えはどうだね」
「浅学非才の身なれば、このような諸先生方の前で語れるような知見はありませんので、どうか御勘弁願います」
背もたれが馬蹄形の革の椅子は飴色で、恰幅のいい紳士がゆったり座れるサイズだったが、大柄な新参者は居心地悪そうに座って恐縮した。
「なぁに、どんなことでもいいんだよ」
「固定観念に囚われない若い人の発想も知りたいね」
紳士達は、にこやかにハードルを上げて、新入りをなぶりにかかってきた。
「とはいえ、実社会の延長線にない空論は、ご要望ではないでしょう?」
青年は困ったような顔をした。
「たとえば個人が相互通信手段を持ち、高速交通手段が整備された社会の利便性と諸問題を今語っても益がないですし」
「電信と鉄道のことかね?目新しくもない話題だな」
「いえ、個人が常時携帯できる小型軽量の無線通信手段と、自動車や飛行機が庶民レベルに行き渡った社会です」
「たしかにそれは技術的にも経済的にも明らかに不可能な空論だ」
「はい。自分ができそうな話はそれと乙甲なものばかりなのです」
「ハッハッハ。君は随分な夢想家なんだね」
「もう少し実利に聡くなれと伯父によく怒られます」
魔法と区別がつかないほど発達した科学技術の話は空想小説のネタにはなりますが、いい大人がこういう席で真面目に論ずるには、いささか遊びがすぎますから、と申し訳無さそうに苦笑する青年は、常人と同じものを見ていないような浮世離れした不思議な雰囲気があった。
「エリックはとても独創的な視点の持ち主なんですのよ。わたくし、少しの間だけですが、彼の家庭教師をしておりましたの。彼はとても優秀で学習意欲が高い良い生徒でした」
「無理にフォローしようとしないでくださいよ。先生にそのように褒めていただけるのは嬉しいですが、落ち着きません」
年上の女先生相手にまごまごする青年の様子に、周囲の男連中は自分の若い頃にもあったむず痒いような心持ちを重ねて共感した。
「残念ながら先生の薫陶を受けられたのはほんの短い間だけだったので、物知らずなのです。この機会に色々学ばせて頂きたいと思いますので、よろしくお願いします」
青年は穏やかな笑みを浮かべた。
その後、再開した議論に彼はさほど活発には口を出さず、ヴァイオレットと一緒に至極楽しそうに聞き手にまわっていた。
それでも時折する質問や相槌が、適切かつなかなか面白いために、その場にいた紳士達はこの少し変わり者の若者を好意的に受け入れた。




