虚構
商隊が泊まっているのは、他の家と同じように、スレート葺きの屋根で、石を積み上げた素朴な外壁の建物だった。しころ屋根のずんぐりした張り出し棟が目印で、1階は家畜や馬車のためのスペース。人が住むのは、幅の狭い街路から外階段を上がった2階から上だった。
商隊のついでの客に割り当てられたのは、その所々が蔦に覆われた張り出し棟の屋根裏部屋で、窓は小さかったが、他所の家より1、2階分高いせいで、見晴らしはよかった。
と言っても、日が暮れた今は、夜空と月ぐらいしか見えず、周囲のスレート屋根の粘土質の黒っぽい石の薄板は、月光を鈍く反射するだけで、すっかり闇に沈んでいた。
「だからな、嬢ちゃん。風呂の習慣なんて、地方や職業でバラバラなんだ」
ジン……表向きは商人のコルソン氏……は、肘掛けのある椅子に座って、立てた指を振りながらそう説いた。
「家の壁だって、ここは近くで採れた石を積んだ造りだが、他所ではレンガや漆喰だったり木だったり色々だろうが」
肘掛けのない予備の椅子にちょこんと腰掛けたマイアは、「はい」と「はぁ」の間のような、あまり理解できたとは言い難い感じの返事を返した。
「つまりだ……」
南方の国で気温が高いシダールでは、北方の各国でよりも水浴が好まれる。
聖なる川や、寺院が管理する泉での沐浴が、宗教的に尊い行為だと思わてているためでもある。また、公共の浴場も普及していて、日常的に水浴や温浴ができる環境も整っている。
北方でも、鉱山労働者や蒸気機関の釜炊きなどは、仕事明けに全身を湯で洗う習慣がある。鼻や耳の穴まで真っ黒になる仕事なうえに、職場で湯沸かしを用意しやすい条件が揃っているからだ。
王国や皇国の上水道の整備が進んでいる街では、中産階級でも水道管の支管を自宅に引き、洗濯室や厨房の隅に湯沸かしを用意して、昼間のオーブンの残火で湯を沸かすところだってある。こういう家庭ではバスタブに湯を張って入ることもある。
「こいつは、俺の仕事の都合でシダールも周ったし、鉱山や工場に立ち寄る機会も多かったからな。すっかり水浴や温浴のクセがついちまったんだ」
彼は、部屋の隅のベッドに腰掛けている甥っ子のほうを軽く顎で指して、肩をすくめた。
「商売人で人と交渉するなら身ぎれいにしろってのが、俺の姉でこいつの母親の口癖みたいなもんでさ」
そのせいでやたらに清潔好きに育っちまったのもあると、彼は嘆息した。
「おかげで姉貴がいなくても、この甥っ子に、やれ顔を洗えだの髭を剃れだの散々口うるさく言われて閉口してる」
「なるほど……」
知らない国や見たこともない場所の話を目を丸くして聴いていたマイアは、この二人の姉で母親な女性の話が出たことで、急に色々なことが現実味を帯びたらしく、腑に落ちたという顔で肯いた。
「嬢ちゃんの見た流れモンの用心棒が何者かは知らないが、うちのコイツみたいな水の浴び方してたってんなら、蒸気機関の工場の下働きでもしていた経験があるんじゃないか?」
そこでふと言葉を切ると、彼はもったいぶった口調で、「あるいは……」と面白そうにマイアの方に身を乗り出した。
「吸血鬼に血を吸われて、生きる屍になった怪物だったかもしれないぞぉ〜」
「うぇええええっ?!なんです、それ!」
「吸血鬼ってのは、暗くて深ーい森の奥の城に棲む恐ろしーい化け物で、人の生き血を啜るんだ」
「ヒィィィぃ」
「生きながらに血を吸われた哀れな犠牲者は、死ぬこともできずに血も涙もない恐ろしい怪物になって、吸血鬼の指図どおりに彷徨って殺伐を繰り返す」
「いやぁぁ」
悲鳴は上げているものの、マイアの目はキラキラしている。”怖い話”の語り手にとっては、一番嬉しいお客さんだ。ジンは雰囲気満点に調子を上げた。
「命を吸われたその体は、もはや食物を必要とせず、汗もかかず、疲労もしない。傷をつけられてもすぐに治り、普通の武器では殺すことはできない。人としての心は失われていき、完全に心が失われれば、人の喜びも知らず、人の死に心を痛めることもなく、なんの感慨もなく人を殺めて悪事をなす影の怪物に成り果てる」
「そんな!あの人はそんなんじゃなかったです!!」
「それじゃあ、成り立ての怪物だったのかもしれないなぁ。途中で吸血鬼のもとから逃げてきたんだ」
ジンは、白々しくそう言って顎をこすった。
「吸血鬼の呪いを鎮めて怪物化の進行を止めたくて、沐浴の代わりに水をかぶっていた可能性もあるぞ。お嬢ちゃんに出会ったときは、まだちょっぴり人の心が残っていたんだろう」
「ふえぇ……」
「でも、その夜、お嬢ちゃんを助けにならず者の巣窟に乗り込んで全員やっちまったってんなら、もう今頃はすっかり人間の心なんかなくなっちまってるだろうな」
怪物は人を殺せば殺すほど、人間じゃなくなって行くんだよ、と沈鬱な面持ちで語るジンは、傍から見ると子供をからかって喜んでいるおっさんそのものだったが、すっかり悲劇にのめり込んでいるマイアからはそうは見えなかった。
「ああ……それであの人は何も言わずに立ち去ったんですね」
「心をを失った自分が、お嬢ちゃんに危害を加えちゃいけないと、最後の理性で思ったのかもなぁ」
「ふわぁ……」
マイアはロマンチックな妄想に浸って、緩みきった顔でため息をついた。
「きっとそいつは今もどこかの荒野を当て所なく彷徨って……」
「いや、そんな怪物野放しのエンドってまずいだろう」
”めでたしめでたし”で完結しそうな話の展開に、思わず川畑は横からツッコミを入れた。
「ん?なんだ。怖いのか?大丈夫。だから俺たちは商隊と一緒に安全に旅をしてサッサと遠くに逃げてんだろ」
お前は身体は大きいけど、相変わらず見掛け倒しのへなちょこなんだなぁと言って、ジンは甥っ子役の川畑の頭をポンポン叩いた。
「ただの流れの無法者だか、不死の怪物だか知らねえが、どっちにしろ一介の旅行者の俺達がどうこうできる相手じゃねぇ。そういうのはお偉いさんか、賞金稼ぎにまかせて、俺達はそういうのと出会わないように静かに足早に立ち去るに限る」
ジンは口をポカンと開けたままのマイアに向き直って、「だから」と続けた。
「お願いだから、うちの間抜けなデクノボウが、その怪物に似てるだのなんだのって話はしないでくれよ。余計な噂で、官憲だの賞金稼ぎだのに追われるのは論外だし、国境警備や商売相手に痛くもない腹を探られるのは、商売人にとってはひどい迷惑だからな」
「あ、ハイ。そ、そうですね。わかりました!」
ハッとしたマイアは、背筋を伸ばして返事をした。
「まったく面倒かけやがって」
「すみません」
マイアを女性用の大部屋に帰らせたあと、ジンは川畑に買ってこさせた酒瓶のコルクを抜かせた。
「どうぞ」
「おい、よく見たらその栓抜き、俺のツールナイフじゃないか。返せ」
「え?これは俺が人から貰ったものです。盗らないでください」
「俺のだってば。なくしたと思ってたんだ。結構いい値段がしたんだぞ、それ」
「使いやすいですよ。今は俺のです」
「面倒かけた手間賃だ。返せ」
「それはそれ。これはこれです」
「ちっ、おめーってやつは図々しいにも程があるな」
「おじさんに言われたくないです」
「”おじさん”呼ばわりすれば、俺が甘い顔をするとでも思ってんじゃねぇだろうな」
「まさか」
川畑はジンのカップに酒を注いだ。
そんなに甘いことは考えてはいなかったが、こんなふうに助力してもらえて、こういうやり取りができる関係はなんとなく親類っぽくていいなとは思っていた。




