黒霊
汚れてヒビの入った漆喰の壁も、黒い木の柱や梁も、くすんだランプシェードのせいで、赤みがかった薄明かりに沈んでいた。
その場にいる全員の視線は、部屋の中央にいる真っ黒な”亡霊”に注がれていた。
静まり返った部屋に、”亡霊”が杖をつく重々しい音が響いた。
頭を抱えて床に伏せたまま、恐怖とショックで声が出ないマイアの脇を、黒いマントの裾がかすめていく。
ゆっくりと歩を進める”亡霊”の、足音はない。
「化け物め!」
デバランは立て続けに引き金を引いた。至近距離で放たれた弾丸は、黒いマントに穴を穿ち揺らしたが、怪人本人を止めることはできなかった。
デバランの間近に来たところで、フードを深く被ってうつむいていた怪人が真っすぐに顔を上げた。
フードの下からあらわになったその仮面のない頭部は……目鼻もなにもなく、つるりとしていた。
「ぎゃああああ!」
「ひぃぃぃっ」
デバランの部下は皆、腰を抜かして、這うように逃げ出した。
黒革の手袋をはめた手が突き出され、デバランの銃を持つ手を掴んだ。
デバランは、破れたマントや服の間からのぞく”亡霊”の肌が真っ黒で、微かに鱗のような凹凸があるのを見てゾッとした。これは正真正銘の化け物だ。
「悪霊め。俺を地獄に同行させる気か」
「……地獄へは自分で行け」
突き放され、数歩ヨロケて後ずさる。
”亡霊”は目のない顔をただこちらに向けている。
デバランは信じられないものを見るように”亡霊”を見返した。
「俺を……殺さないのか?」
「これ以上俺に干渉するな。以後、悔い改めろ。カタギには手を出すな」
”亡霊”は、戒律を言い渡すように、それだけ告げた。
「は……ははははは……」
デバランは魂が抜けたような顔で乾いた笑い声を上げた。
「そいつを守れば見逃すってか?」
そんなこと……
一発の弾丸がデバランを撃ち抜いた。
「許して……たまる…か」
「キサマっ」
デバランは、自分を撃った相手……床に転がっていた偽”亡霊”を撃ち返した。
「地獄で……待……」
偽”亡霊”だった男は、落ちていた銃を無理に手を伸ばして拾った姿勢のまま事切れた。
デバランもまた、青ざめてがくりと膝をついた。
黙って彼らを見下ろす”亡霊”の顔には、なんの表情もなかった。
「結局、たった一夜にして、カンデの町のゴロツキ共は、みーんな”黒い亡霊”にやられちまったのさ」
旅回りの一座用の仮ごしらえの舞台で、商隊長は盛りに盛った話をそう結んだ。固唾を呑んで聞き入っていた聴衆の最前列にいた小僧は恐る恐る商隊長に尋ねた。
「その”黒い亡霊”って、討伐されたのか?」
闇に溶け込み、足元の影から突然現れて背後に立つだの、鋭い鉤爪のある黒い腕が大人の腕2本分以上も伸びて、逃げまどう男達を切り裂いただの、この口がよく回るおっちゃんの語る”黒い亡霊”は、トンデモなく恐ろしい怪物で、聞いているだけでちびりそうだった。そんな得体のしれない化け物が徘徊していると思うと、夜にはばかりに行くのも怖い。
「さぁなあ。でも”黒い亡霊”を見たやつは呪われて、誰一人生き残ることはできないらしいぞぉ~」
「わぁ~~!やめろよぉ〜」
「おいおい、ガキをからかうなよ」
「見たやつが生き残れないのに、なんで話が伝わってるんだよ」
「いやいや、誰もその場ですぐ死ぬとは言ってないから」
「なんだよ。人間いつかは死ぬってオチかよ。ひでぇな」
「それよりカンデの地主はこのあとどうなりそうなんだ?」
「そうだ、そういう肝心のところを話せよ」
悪霊話に興味のない商人達に、やいのやいのと責められて、商隊長は自分も又聞きだから詳しくは知らないと前置きしながら、地主の長男がかろうじて無事だったらしいからなんとかなるだろうと逃げた。
「こらこら、いつまでも油を売ってないで、いい加減に仕事に戻れ」
溜まっていた丁稚や下働きの人足達の雇い主がやってきて、その場をお開きにした。
商隊長は、ドサ回りの芝居一座の座長から、今の話をうちの出し物に仕立ててもいいかと声をかけられたりしていた。
「タイトルは”黒霊”なんてどうだ。もちろん礼金は出すよ」
興奮気味に声高にまくし立てている座長を遠目に見ながら、ジンは川畑のそばでニヤニヤした。
「ブラックファントムだとさ」
「くそダサいから止めてほしい」
「脚本か演出に協力しに行ってやるか?あの豪快なホラ吹きのブチ上げた荒唐無稽な話を、もう一段盛ってやるのも面白そうだ」
さっきの話にもう一段盛ったら、事実なんて、ほとんど残らないだろう。
「娯楽活劇が流布したら、多少の本物の噂なんて紛れて吹き飛びそうだな」
「そういうこと」
ジンは座長に捕まっている商隊長のところにぶらぶら歩いていくと、商隊長さんにも仕事があるし、自分もこのあと彼と旅程の打ち合わせをしたいから、続きは今晩、どこかの飲み屋でどうかと持ちかけて、ちゃっかり座長のおごりの飲み会をセッティングしてきた。
川畑は、自分のツレのそういうところを、尊敬していいのか、呆れ返るべきなのかわからず、いつもどおりの無表情で、ただ黙って見ていた。
愛用の鎧のアンダーウェアは防弾仕様。
鉄砲持ったヤクザの本拠地に単身でカチコミに行くので、事前に服の下に着用してました。(外部装甲は目立つのでキャンセル)
頭部は卵のようにつるんとした白い内殻で、首から下は真っ黒なボディスーツ……という控えめに言って悪霊ないつものアレです。
「"ついに正体を顕したな"って言って、倒した方がいい類いの何かにすごく見える」
とプランBのときジャックが評した格好。
「暗いし、仮面もマントもつけるから、下に着てても目立たないと思ったんだけどなぁ」
バレないようにフードを深く被って俯き気味だったせいで不気味さが増量してたのは、本人の意図するところではない不幸な事故です。




