亡霊
その男はまたたく間に、チンピラ5人を叩きのめした。
マイアは肩掛けカバンを抱えたまま、半口開けて、目の前の怪人を見上げた。
男は異様な風貌だった。
つばの広い真っ黒な帽子を深く被り、真冬でもないのにボロ布を首に幾重にも巻いて、口元まで覆っていた。
顔が醜いというわけではない。むしろ顔は全然見えなかった。
帽子とマフラーの間から覗く男の目元から鼻にかけては、仮面で覆われていた。鼻筋を境に片側が白く、もう片側が黒いその仮面は、飾り気がなく、突き出した鼻の部分は人の鼻というより鳥の嘴のようだった。
「……怪我はないな」
「あ、はい!ありがとうございます」
マイアは、怪人からボソリと発せられたのが当たり前の人語であると気づいて、慌てて礼を言った。
「あの、あの!私、今日からここに働きに来たんです。なんか馬車がついて、降りてって言われて、私、寝ちゃってたから、気がついたらみんないなくて、急いで降りたけど遅れちゃって、そしたらこの人たちが外にいて、それで、なんかすごく怒ってて?ええーっと、動くなとか、こっち来いとか色々言われて引っ張られて……あー、それで……」
見上げると首が痛いぐらい背の高い怪人は、その背丈ほどの長さの木の棒を片手に持ったまま、黙ってマイアを見下ろしていたが、急についっと脇を見た。
マイアがつられてそちらを見ると、脇の建物から人が出てくるところだった。
「何だてめぇは!!」
「”牛の目”の新手か?流れモンか?」
「ヤル気か?ゴラァ!」
ナリはそれなりだが、人相も言動もガラが悪いことおびただしい。
「……人を雇っていると聞いた」
「残念だな。雇ってんのはヒトだ」
「芝居小屋か見世物小屋から逃げてきたヤロウに、用はねーよ」
「そこの女を置いてさっさと帰んな」
通りの先の建物からも男達が出てきた。こちらは人相風体トータルでガラが悪い。
「おんどれぁ、何もんじゃ!」
「けったいなカッコしくさって!!」
「うちのもんに、何してくれとんじゃ」
”牛の目”のデバランの子分を合計8人、メンカリナンの賭博場の用心棒を3人ぶちのめした後、謎の怪人は、メンカリナンの賭博場の用心棒として雇われた。
この奇っ怪な流れ者が来て、”牛の目”一党はメンカリナンのところの女達にちょっかいが出せなくなった。早朝に水場に洗濯に出たときでも、宵に酒場や賭博場で働いているときでも、チンピラが女に絡みに行くと、どこからかこいつが現れるようになったからだ。どんな腕っぷし自慢も、この怪人に3歩と近づく前に、その長い杖で足を払われて、つまみ出された。
抗争はメンカリナンの一人勝ちになるかと思われた。
「が、そうは問屋が卸さねぇ。この野郎は、見かけだけじゃなくて中身も相当変人だったんだ」
「何があったんだ?」
「この怪人。雇われるときに、うちの店と女共を守れと言われたらしいんだがな……なんと、肝心の客にまで睨みをきかせちまいやがったんだ」
商隊長は含み笑いをしながら、身振り手振りを交えて、面白おかしく話を続けた。
女が嫌がっているようなら、客が金を出そうがなんだろうが、構わず首根っこをつまんでポイ。
雇い主が文句を言えば、”牛の目”の手の者かと思ったと答える。実際に嫌がらせのために送り込まれてくる奴もいるので、強く咎めるわけにもいかず、メンカリナン側にとっては、なんとも頭の痛いことになった。
悪酔いして暴れる客も、博打でしくじってキレる客も、みんなまとめて問答無用で叩き出し、一切の報復を許さないという呆れた剛の者だったので、敵も身内も常連も一見も、全員内心でムカッ腹を立てながら、怪人のテリトリーでは大人しくさせられた。
怪人は昼間は概ね元礼拝堂の鐘楼だった塔の上に座って、あたりを見下ろしており、夜は店の階段の隅でうずくまっていたり、賭博場の壁にもたれていたりした。でかい図体をしているのにそうして物陰にいるとまるで気配がなく、そのくせ騒ぎが起きそうになるとどこからともなく現れるので、”亡霊”のようだと怖れられた。
「ひゃあ、いい風ですね」
鐘楼に登ってきたウエイトレス見習いのマイアは、”亡霊”の隣に座った。厨房からせしめてきた小ぶりな果物を取り出すと、前掛けで磨いてから、かぶりつく。
「ねぇ、トリさんはどっから来たんですか」
「トリ……俺か?」
「私は結構ボンヤリな方ですけど、流石にいもしない鳥に話しかけたりしません。そのお面、トリですよね」
尖った鷲鼻が突き出した白黒の仮面をつけた怪人は、首を傾げてから、ためらいがちに肯いた。
「だから、トリさんです。違うなら名前教えて下さい」
「名前……」
怪人は周囲をぐるりと見渡した。
荒涼とした風景には、花の彩りも、その葉や枝ぶりで名のわかるような木々もない。
怪人は困ったようにうつむいて、自分が毎日ねぐらにしている塔に視線を落とした。
「……ルーク」
「え?」
ボロ布の奥の低い呟きは、マイアには塔の上の風音で聞きとりにくかったようだ。
「トリでいい」
「じゃあ、みんなにはあなたはトリさんって呼ぶように言っておきます。いつもお世話になってる人を”亡霊”だの”怪物”だのって呼ぶのは失礼ですからね!あ、半分食べます?」
「……いや、いらない」
マイアはあまり甘そうではない果実をカリカリかじりながら、足をぶらぶらさせた。
「ほんと、感謝してるんです。私、女中奉公だって義叔母さんに騙されて身売り同然できましたからね。女給の仕事だけじゃないこともやらされるんだろうなって、ここについた途端、思いましたもん」
「そういうのは強制されて商売でやるもんじゃない」
怪人は風貌に似合わぬ甘っちょろいことを言った。
「エヘヘ、おかげさまでこんな店にいるのに、いまだに女給仕事だけで働かせていただいております」
マイアは深々と礼をした。
「と言っても雑用はたっぷりなんですけどね。さてと、戻って掃除しなきゃ」
彼女は立ち上がって、伸びをした。
「そっちのお仕事もする覚悟ができたら、ルークさんに最初のお客さんになってもらいますね」
マイアは怪人の返事を聞かずに「忙しい、忙しい」と言いながら塔を降りていった。
本業がリゴの工場主であるメンカリナンは、自身がカンデに張り付いているわけにはいかないので、カンデの店にはアイ=ユークという部下を置いて、差配を任せていた。このアイ=ユークという男は、この界隈にしてはなかなかの洒落者で、業突張りの工場主から金をせしめて作らせた”イケてる”自分の店を、ボロをまとった”亡霊”が彷徨いて仕切っているのが、我慢ならなかった。
手を出し放題だったはずの綺麗なショーガールのオネェちゃん達にちょっかいを出そうとすると、「上がそれでは、周囲に示しがつかんぞ」と雇用主の自分にまで剣呑な殺気を飛ばしてくるのも業腹だった。
「暴力沙汰しか取り柄のない底辺のゴミのくせに生意気な」
貧乏人から搾取して儲けることしか考えていないヤギ髭の小男に取り入って、うまく焚き付け、やっとここまで計画を進めたのだ。”洒落男”と綽名された詐欺師のアイ=ユークは、自分のプラン通りに事をなすために、このイレギュラーな駒をどう使うか思案した。
なぜマフラー?
……三船は恐れ多いので卯之助をリスペクトしようと思ったが、イタリア製のマフラーは入手できないので、途中の村で手に入れたボロ布巻いています。
ちなみにこの長杖は、元農具の柄。
トータルでは、帽子と仮面のせいで中世の疫病医者みたいな不吉な見た目に仕上がっています。
そして、予定にない女の子のセリフが増えると話が伸びるの法則に従って、ここからしばらく脱線します。




