給水塔
宵闇の中に黒々と立つ給水塔を背景に、列車はゆっくりと加速線の方に下がっていった。
身を潜めていたジェラルド達は、人気のなくなった頃合いを見計らって、その場を離れた。
「どこに行くの?」
消息不明の従者を待つかどうかで、彼らは潜んでいた間に、誰も声を荒らげない静かな口論を一通り終わらせていた。全員が納得はしていなかったが、あの男なら放っておいても自力で合流できるだろうという点については、意見が一致したので、彼らは予定通り進むことにしていた。
「この先の貯木場跡地まで出る」
ジェラルドは、セントラルエクスプレスのものとは違う幅の狭い線路を指さした。
ここの給水塔はセントラルエクスプレスの線路が通る前に、森林鉄道用に造られていたものらしい。塔の反対側に森林鉄道の線路があり、その先に貯木場があるのだという。
「救援メンバーと合流するには、開けた場所が必要だからね」
アイリーンは列車の屋根にいたときに光が打ち上げられたのを思い出した。あれがその救援メンバーとやらへの合図だったのだろう。開けた場所が必要ということは、オーニソプターあたりが迎えに来てくれるのかもしれない。
「貯木場まで線路を歩いていくつもり?」
「列車は来ないよ。今は使われていないはずだ」
「あれは使えない?」
室内履きも同然の女物の靴で、線路を歩くのは少し辛い。アイリーンは放置されている保線用の手漕ぎトロッコを指さした。最低限の台車にレバーがついただけの代物だ。
「動くかどうかわからないし、目立つよ。それほど距離はないと思うし歩こう」
一同は夜陰に紛れて、そっと貯木場に向かった。
中天にかかった日が眩しい。ジンは見上げていた古びた給水塔から、視線を同行者に戻した。
「使えそうか?」
「かなり錆びてるが、なんとかなると思う」
手漕ぎトロッコのあちこちに、管理小屋で見つけてきた油差しで油を指している男は、きびきびと返事をした。
「(使える奴だなぁ)」
手の内をちょっとだけ話したら、一時協力に同意してくれたお人好しは、鉱山のとき以上に組んでいて楽だった。
「給水塔に水場があった。傷の様子見て包帯巻き直すから来い」
言われるまま、されるままにしていると顔や体を拭いてくれた挙げ句、ちょっとひしゃげた金属カップで飲用水まで汲んでくれた。
「……お貴族様になった気分だ」
嫌味だと思われたのか、相手は「右袖は自分で通せ」と言い残して、水を浴びに行ってしまった。
「俺、嫁はいらんけど。家に一人お前が欲しいかもしれん」
「家なんかあるのか」
「そういや、ねーわ」
ジンは酒も飲んでいないのに笑った。
「そういやお前、足輪とか奴隷紋ってないのなんで?」
水を浴びているところを無遠慮に見られて筋肉質な大男は顔をしかめた。
「足輪は今の旦那様がいらないと言って外した。奴隷紋というのはあの染料で肌に描くやつか?」
「そうそう。奴隷やってたなら胸とか首とかに描かれただろう」
「それも今の旦那様に買われてからつけられていない」
「と言っても、まだ半年も経っていないんだろう?あれは一度かかれるとなかなか落ちなくて、薄くはなっても跡は残るはずだぞ」
奴隷が正規の手続きをせずに逃亡しても、すぐにバレるようになっているし、正規の手続きをしても奴隷であった過去は簡単には消せないようになっている。
それなのに、この男の首も胸元もつるつるでそれらしい跡はどこにもなかった。普通とは違う位置についているのかと探したが、どこにもない。
「こら、触んな……俺の場合、体質が合わないせいか、染まりにくくてな」
風呂に入ったら落ちたと言われて、ジンは開いた口が塞がらなかった。
「お前の体、なんで出来てるの?」
「さぁ?代謝がいいんじゃないか?」
「特異体質にも程があるだろう」
「突くな。摘むな。引っ張るな」
嫌がるところを調子に乗っていじって遊ぼうとしたジンは、頭を引っ叩かれてうずくまった。
「悪いね。漕がせちゃって」
台車の前にだらしなく座り込んだジンは、まったく悪いと思っていなさそうな調子で、ひらひらと右手を振った。
「いやー、体が万全なら手伝うのもやぶさかじゃないんだが」
「死にかけた怪我人は大人しくしてろ」
無愛想な男は、軋むレバーを上下させながら、オンボロトロッコを一人で漕いでくれた。
うねうねと曲がる森林鉄道のレールをトロッコはガタピシ進んだ。
「ちょっと面白そうだなと思って、乗ってみたけど、長いことやるもんでもないな」
飽きたと言いながらも、レバーを漕ぐ手を止めないあたりは律儀だ。
「降りて走ったほうが早そうな気がしてきた」
「おいおい、重症患者を走らせる気か」
「もうほとんどなんともないだろう」
「いやいや、さっきからトロッコの振動が傷に響いて、ツライツライ」
笑いながら言うせいでまったく信憑性がない。
負った傷を考えれば、本来ならそんな軽口を言えるような体調ではないはずなので、よほど薬が効いたか、元々がタフなのだろう。
「オッサン担いで走るより、トロッコの方が楽しいかな」
「担がれてこんな山道延々と運ばれるのに比べれば、トロッコのがマシだなぁ。山の北西まで出る気なんだろう?」
「線路が無事なら湖水地方の東南あたりまで行けるはずだ」
ジンは頭の中で地図を思い出してみた。
「ウンザリするな」
「さっきの給水塔のところまで戻るなら、降ろすぞ」
「やだよ。あそこに戻ったって、乗車駅じゃないから汽車には乗れないし」
「こっそり無賃乗車ぐらいはやるだろう」
「できるけど、やっても皇国に入ってからが面倒だからやんね」
「皇国軍籍なんじゃないのか」
「それがな。あそこの班には、移動のドサクサに紛れて軍令と身分証誤魔化して割り込んだだけだから、下手に戻るとややこしいんよ」
「なんというか……もう……どうするとそんなことができるんだとしか……」
「手口教えようか?」
「覚えても使う機会が……ありそうでやだなぁ」
ぐったりした漕ぎ手が手を止めても、トロッコは下り坂をどんどん下っていった。
「どうだ。ためになる知識だろう」
「人としてダメになる知識だろう」
アンダーグラウンドなノウハウを嬉々として語ったジンは、下り坂は降りることよりも降りすぎないようにする方が大変なんだと言って笑った。
「俺やお前みたいに、世間の枠組みからはみ出しちまってる奴は特に、敷かれたレールにのっかって動いているフリをするためにはコツがいるのさ」
ただし、あまり上手に騙しすぎないほうがいい。真っ当ないい人だと本気で思われてしまうと、嘘が終わったときに辛いから。そう語ったとき、男は話相手の方を見ずに、流れていく景色を眺めていた。
「あの夜……鉱山を離れる前に、小屋には来てくれたのか?」
森林鉄道のレールは、急なカーブを描いて渓谷の縁を下っていた。
「忘れたよ」
ジンは振り向かずに、ゆらりと体を大きく傾けた。
「偽悪的なんじゃなくて、本当に悪党なんだと思っておいてやる」
下り坂のカーブに合わせて上手く体重移動をしつつ、二人は壊れそうなトロッコを軋ませて、ぎりぎり脱線しない速度で谷を渡った。




