油断
「(お、十徳ナイフだ)」
川畑はアイリーンに渡されたものを手の中で握り直した。
「(スイスアーミーナイフとか、ゾーリンゲンのナイフって憧れだよな)」
ここの世界ではどこのメーカーのものが有名なのかな?などとどうでもいいことを頭の隅で考えながら、川畑は列車の屋根の上を走った。
完全に意表を突く加速だったはずなのに、追跡者はぎりぎりのところで川畑の突進を躱した。
川畑は車両の端で無理やり停止し、その反動を逃すように体を捻って、長い脚で追跡者に回し蹴りをお見舞いした。
追跡者は飛び退いて、それすらも躱した。
ガコンと追跡者が屋根に着地した重い靴音が響く。……普通の靴底ではない感じの音だ。
川畑は闇に目を凝らした。
彼の動きが止まった途端、反撃の蹴りが飛んできた。足場が悪い上に、車両の端ぎりぎりなので避けにくい。
なにか補強されているらしい重い靴の蹴りがわずかにかすった。
避けきれなかったことで、次の動きが制限された川畑の挙動を読むように、次の蹴りが来る。この性格の悪い連続攻撃には覚えがあった。
「ジン……」
「よう」
突き、払い、蹴りの合間に、親しい友人相手のような軽い挨拶が返ってくる。いなした蹴り足が屋根を擦ってジャリンと鳴る。
「うるさい靴だな。何履いてんだ」
「そういうお前はそんだけ動いて足音しねぇっておかしいだろ」
「足音立てると下の人に迷惑だろう」
「この時間に食堂車に人はいねぇよ」
攻撃ごとに体を入れ換えながら、互いに端に追い込められるのを嫌って、車両中央に移動する。
「なんでここにいる」
「そりゃ、こっちのセリフだ」
正中線沿いの急所を狙うと見せかけて、いやらしく関節や脇腹にあててくる。パワーもスピードも川畑のが上だが、格闘戦の組み立て方は相手の方が上手だ。
「って、こんだけやってヒットなしかよ」
川畑が凌ぐので精一杯な怒涛のラッシュの後で、相手は苦笑気味にこぼした。
「バケモンめ……お前、何者だ?俺の知ってる男の姿に化けるたぁ趣味の悪い魔物だぜ」
「俺は……俺だ」
川畑はこの男に魔物扱いされたことに傷つき、傷ついたことを認めたくなくて殴りかかった。
大振りの雑なパンチはあっさり避けられて、拳は食堂車の煙突を圧し折っただけだった。
「おいおい、マジかよ」
軽口と同時にこめかみに飛んできた蹴りを、川畑は握っていたツールナイフで受けた。
硬い金属音が鳴る。靴には金属片が仕込んであるようだ。
「殺意の高い蹴りだな」
「そんな口答えする時点で、俺の知ってるあいつじゃねぇから、殺しても構わないんだが、その姿のやつを殺すのは気が滅入るぜ。……見逃してやるから引かねぇか?」
陸橋が終わり、スパイラルループを登りきった列車が加速する。変わった揺れと加速に体を合わせる一瞬に、相手は川畑から飛び退いて2等客車に向かって走り出した。
「(やられた)」
おしゃべりに気を取られた迂闊な自分をなじりながら、川畑は男の後を追った。
山肌に沿って、先程よりは緩い勾配の斜面を少し登った列車は速度を落とした。
前を行く男の背に手が届きそうになったタイミングで、汽笛が鳴った。
そして汽笛に紛れて銃声も……。
「アイリーン、こっちだ」
2等客車でジェラルドが手招きした。
アイリーンはひらりと2等客車に飛び移った。
「無事で良かった。ヴァイオレット達があちらで待っている」
2等客車の屋根は平らで、端には低いながらも手摺がついていた。シダールで客が屋根に乗ることを想定しているのかもしれない。
「追手は彼が止めてくれている。急ぎましょう」
二人は客車1車両分走ったところで屋根を降りた。連結部でヴァイオレット達が待っていた。
「この先で列車が一時停車する。その隙に降車するから」
アイリーンは栞に書かれていた線を思い出した。試し書きに見せかけて、実はかなり正確な縮尺の路線図だった線は、軽く左右にカーブした後、ぐるりと円を描いてから、一度急に斜め後方にはみ出して鋭いジグザクになっていた。確か降車予定地点を示すインクのシミはそのあたりについていたはずだ。
「スイッチバックがあるの?」
「給水停車があるそうです。登り勾配が続くから、停車後の助走のために加速線の引込があるようですわ」
うちは女性陣の会話に専門用語が多いなぁと思いながら、ジェラルドは彼女達を急かした。
「停車時間は長いが、もたもたしていると追手にも鉄道の乗員にも気づかれて騒がれる。十分に速度が落ちたら飛び降りるから、そのつもりでいてくれるかい」
怖いなら僕の手を握って……と続けているジェラルドを無視して、アイリーンは食堂車の方を気にした。
「彼がまだ来ないわ」
「ブレイクなら大丈夫だ。合流地点も打ち合わせてある」
たしかに彼のことを自分が心配しても仕方がないだろう。でも、それにしても追手1人が相手にしては遅すぎるとアイリーンは思った。
列車の速度が落ちた。
「さぁ、もうすぐ降りるぞ」
「怖いです。手を握ってください」
ジェラルドは真顔で声の主の青ざめた顔を見返した。
「ヘルマン、お前は自力で跳べ」
「ううう、やっぱりそうですか」
闇を割くように汽笛が響いた。
ハッと顔を上げたジェラルドの隣で銃声が響いた。




