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家に帰るまでが冒険です  作者: 雲丹屋
第12章 大鴉の血は緋に輝く

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螺旋環

「就寝前に化粧室(パウダールーム)にいかせてくださいませ」

「パウダー……?ああ、便所(ラバトリー)か」

夕食後に見張りを担当していた若い兵は個室(コンパートメント)の扉を開けて通路の張り番に声をかけた。

個室内と通路に1人ずつ配置された見張りは、彼女達がラバトリーに行くときは片方がついていくため1人になる。

「お前は後だ」

「わかっているわ。一度に1人ずつなんでしょう?」

アイリーンは、お先にどうぞと言ってヴァイオレットを見送った。


若い兵の代わりに個室に入ってきた通路側の張り番は、無精髭の男だった。

「あー、やっぱ、こっちのが寝やすいわ」

入って来るなり、男は椅子にどっかと座って居眠りしやすい姿勢を探し出した。

「呆れた。あなた、寝てるか飲んでるかどちらかなのね」

「俺は健康のために休めるときには休んでおく主義なんだよ」

「その割にあまり健康そうには見えないわ」

「神様は俺に沢山の仕事を与え給うので、休んでる暇がねーんだよ」

有能な男は辛いねとうそぶいて、男は大きく欠伸をした。


アイリーンは男の戯言には付き合わずに、窓際に座って外を眺めた。

「こう暗くちゃ何も見えないだろう」

「酔っ払いの顔も見なくて済むわ」

「手厳しいこった」

列車は大きなカーブを描きながら、人家の明かりのない中を走っていた。


「昼間なら、もうじきいい景色が見えるはずなんだが、残念だったな」

寝たのかと思っていた男が、目を閉じたままボソリとそんな話題を振ってきたので、アイリーンは窓の外を見たまま、適当に相槌をうった。

「何があるの?」

「スパイラルループだ。かなりの傾斜を一気に登るから景色がいい。ブロードゲージの回転半径で造られているから、めちゃめちゃでかいしな」

軌間が広いほどカーブでの左右の車輪の回転数の差は大きくなる。この路線は線路の幅が広いために、急カーブは安定して走行できないことから、大きな半径の螺旋を描く軌道で、勾配を登るらしい。

「小さな鉄橋を2つ続けて越えた先だ。ほとんど見えないだろうが、バカバカしくでかい陸橋をくぐったらそこから上り勾配のループに入る」

「……そう」

アイリーンは素っ気なく応えると、窓枠に置きっぱなしになっていた栞を挟んで、椅子の上の小冊子をポーチにしまった。

「なんにせよ暗くて何も見えないわ」

彼女は立ち上がって、作り付けの小テーブルに置いてある薄荷水の瓶を手に取った。

「これ、飲んでないのね。あなたの分よ」

「チェイサーがいるほど強い酒は、仕事中には飲まないことにしているんだ。欲しければどうぞ」

「いただくわ」

アイリーンは瓶を手に、扉の脇の壁にある栓抜き金具のところに行った。

金具に瓶の口をあてようとしたが、もたもたしているうちに、列車が大きな音を上げながら鉄橋に差し掛かって揺れだしたために、上手くいかなかった。

「意外に難しいわ。ねぇ、栓抜きを貸してちょうだい。持ってたでしょう?」

「美しいお嬢さんの頼みなら喜んで、って言って差し出せばいいのかな」

無精髭の男は、ポケットから妙な形の金具が1つにまとめられた折りたたみナイフのような代物を取り出した。男がいくつかある金具の1つを柄にあたる部分から引き出すと、それは栓抜きっぽい形状をしていた。

「ほら、瓶を貸しな。開けてやる」

「いいわ。自分で開けるから」

アイリーンは男のナイフもどきに手を伸ばした。

「いや、これは……」

流石に渡すのはまずいと思ったのか、男が身を乗り出して椅子から腰を浮かせたとき、列車は2つ目の鉄橋を渡り始めてまた揺れた。

アイリーンはナイフもどきを持つ男の手を捻って、尖った先を男の腹に向けて一気に押し込んだ。

「おっと!」

とっさに腰を引いて、腕に力を入れた男の頭を、アイリーンは躊躇なく瓶でぶん殴った。




リズミカルな鉄橋の振動音が終わり、再び軽く軋みながら大きく弧を描いて列車が走る。その特級車両の薄暗い通路で、コンパートメントの扉が静かに開いた。

「(誰もいなさそう……ね)」

素早く通路に出たアイリーンは、扉を閉めて、鍵穴にヘアピンを変な角度で無理やり突き刺した。

「(これですぐには出られないでしょ)」

彼女は足早にその場を立ち去った。


車両の端の扉を開けると夜風が吹き込んだ。できるだけ音をたてないように気をつけながら、アイリーンはそっと連結部に出た。

「そこまで」

突然、真横から低い声でそう警告されて、アイリーンはびくりと体を震わせた。

「静かに」

とっさに逃げる間もなかった。相手は彼女を抱き込むように片腕で抱き寄せ、彼女の口元を手でふさいだ。

アイリーンは間近にある相手の顔を睨みつけた。

今の自分の格好が、ほぼ誘拐犯なことに気づいて、川畑はバツが悪そうな顔をした。




「ヴァイオレットさんは化粧室で旦那様が助けた」

川畑はアイリーンを抱えて、隣の車両の屋根に登ると、極力落とした声で状況を説明した。

「(耳元で囁やき続けるの、止してほしいわ)」

風が強いし大声は出せないから、そうしないといけないのはわかるけど、と思いながら、アイリーンは半分抱え込まれた状態で大人しく歩を進めた。

そんな状況ではないことはわかっていても、背筋から腰にかけてがゾワゾワして内容に集中できない。

社交的に許される接触面積を完全にオーバーしていたが、通常、社交で走行中の列車の屋根の上を歩くことはないので、これはやむを得ないのだと、アイリーンは己に言い聞かせた。


列車はスパイラルループを徐々に登ってあたりの木々よりも高いところまで来た。

「ちょっとの間、目を閉じてて」

突然、そう言われて、わけがわからないままアイリーンは大男の胸元に顔を押し付けられた。

ものすごく恥ずかしかったが、彼女は声を上げるのを堪えて、指示通りに目を閉じた。

閉じたまぶたの向こうで、強い光が光ったのを感じた。

「もういいぞ」

顔を上げると、小さな光点が上空に消えていくところだった。

「なにあれ」

「信号弾。迎えを呼んだ」


彼はアイリーンの手を引いて、2等客車の方に向かって、車両の屋根の上を再び歩き出した。

「旦那様達と合流しよう。足元気をつけて」

シダールの列車は、屋根の上にまで客が乗るのが常なので、屋根が平らな車両が多かったが、セントラルエクスプレスの特等や一等の車両の屋根は、人が上に乗ることを考慮していない作りだった。




「アイリーン、一人で行けるか?」

食堂車のところで、彼は立ち止まってアイリーンを引き寄せると、そう囁いた。

アイリーンはハッとして、後ろを振り返った。

誰かが屋根に登ってくるところだった。

「逃げましょう」

「旦那様を頼む」

わかったなんて言いたくなかったが、時間のないときに無駄にゴネる無能になるのはもっと嫌だった。アイリーンは黙って彼の手に”戦利品”を押し付けると、2等車両に向かって走り出した。


列車はスパイラルループの後半部分である長大な陸橋を登りつつあった。

自分で脱出できちゃう女、アイリーン


扉脇の栓抜きでもたもたしていたのは、不器用だからではなく、通路に人気がないことを確認してから、鉄橋のタイミングを調整していただけです。

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