橋
3人目の犠牲者が出たところで、アシュマカのシャーマ派を束ねる男は、ジェラルドを行かせることにした。
何も持たずに入口に向かうジェラルドに、彼は灯りを差し出した。
「ランタンは手を塞ぐからいらない」
「ならば俺が灯りを持って後ろから行こう」
「ここは一人ずつしか通れない道だ」
ジェラルドは自分がいいと言うまで他の者は来るなと言った。
「武装した者、豪奢に着飾った者、贅で肥え太った者、従者を連れた者、居丈高な者、勇なき者……汝、道を渡るなかれ。わかるな?洒落でも冗談でも信仰でもなく、ここは自制心のあるものが己の身一つでしか通れない道なんだ。二人以上で同時に通ろうとすれば一人も通れないぞ」
ジェラルドは火口入れと油の小瓶が欲しいと言った。
「安全な所に着いたら灯を点す。それを合図に次の者が来い」
腰より低い位置の入口にするりと入っていくジェラルドに、男はあわてて屈んで入口から奥を照らした。
ジェラルドは膝をついて潜ったときの姿勢のままにじりながら這い進んでいるらしい。
入口付近の黒い床は多少見えるが、その先は全く何も見えない。壁や天井がせまった細い通路というわけではないようだ。ジェラルドの白っぽい服だけが闇の中にうっすらと見えていたが、それもランタンの明かりが届く狭い範囲から外れていった。
ひんやりした風が吹き上がっている。
中はかなり広い空間のように思える。
「来るなよ。思っていたよりもぎりぎりだ」
暗い穴からジェラルドの声がした。緊張しているのか堅い声音だ。通路が狭いわけではないのなら何がぎりぎりだというのだろう。
「おい」
男が不安になって声をかけたとき、男の背後、この神殿遺跡の入口の方角から怒号とも悲鳴ともつかぬ叫び声が聞こえた。
「なんだ?!」
男は配下の者のうち、脚の速い者2名に様子を見に行かせた。
また絶叫が聞こえて、待つほどのこともなく、一人が息を切らせて駆け戻ってきた。
「灰色背斑熊が!」
「バカな!もう一頭だと?!」
「さっきの番か?」
「凶暴で怒り狂ってこちらに来ます」
騒然とした配下の者達に男は急いで指示を出した。
「右座総員、”護盾”を準備!左座、抜刀”炎咎”付与……」
言い終わる前に灰色背斑熊が、唸りながら部屋に飛び込んできた。先程、屠ったものより大きい。
灰色背斑熊はこの種の獣には珍しく、番で子供を育てることがある。迷路の目印に使った仔熊の親である可能性が高かった。
殺伐が始まった。
部屋はそれほど狭いわけではないが、大型獣と距離を取って戦闘ができるほど大きくはない。神威魔術の呪文を唱える暇も与えられなかった男達は、仔熊の血臭で狂乱した獣の前に、為す術もなく次々とやられた。
このままでは死ぬ。
男はジェラルドが入っていった狭い入口に目を走らせた。あの大きさなら灰色背斑熊は入れない。
とっさに曲刀を捨てて入口に潜り込んだ。
中は暗い。
男はジェラルドがしていたように、正面に向かってにじりながら這い進んでいった。
「(橋?)」
付いた手の感触から、すぐ先で床が途切れているのがわかった。正面に幅の狭い板が突き出しているようだ。まるで崖から伸びた橋だが、渡り板の端はこちら側の床の上に乗っかっているわけではない。上から触っただけでは、どうやって固定されているのかよくわからなかった。
「(だがこれを渡るので間違いないだろう)」
最後に見たときジェラルドはこの方向に消えていった。背後からの騒乱の響きからして、迷っている暇はない。
男は四つ這いの姿勢のまま、肩幅よりも狭い板の橋を渡り始めた。
橋はそれほど安定したものではないらしい。軋むわけではないが進むときに僅かに揺れる気がする。
暗闇で先のわからない細い橋を這い進んで行くと、否応なく不安が掻き立てられた。
頭上でなにか大きなものが動いている気配がする。先に進むほど揺れが大きくなってくる気もする。
自分の荒い呼吸音と激しい動悸で周囲の音が遠くなった耳に、背後からの獣の咆哮と人の断末魔が遠く響く。
「主席殿!」
後ろから男に続こうと配下の者が入って来る気配があった。
「どこですか?!」
「来るな!」
後ろから来た者が橋を踏んだ振動で、男のいる場所が大きく揺れた。
男はゾッとした。
これは”橋”ではない。ただせり出しているだけの板だ。この先は固定されていない。
「ここは一人ずつしか通れない!」
武装した者、豪奢に着飾った者、贅で肥え太った者、従者を連れた者……ジェラルドが言っていたのは身分や心根の話ではない。すべて”体重”の問題だ。
では、居丈高な者とは?
「おいていかないでください」
背後から来る者が走ろうとでもしたのか橋が大きく揺れた。
「待て、頭を上げるな!」
ゴッ……と鈍い音がして、橋を揺らしていた重みが消えた。
なにかが頭上で動いている。生き物ではなく硬く静かで無機質だが殺意の高いなにかだ。
”この神殿を造ったやつは底意地が悪くて作法には煩い”というジェラルドの言葉が思い出された。
「(そうだ……奴はどこに行った)」
この先に誰かいるのなら、その者の動きで橋が揺れるはずだがそんな様子はない。
「(このすぐ先に安全な場所があるはずだ)」
ジェラルドも落ちて死んだという可能性は頭から締め出して、男は震える手足を無理やり動かして這い進んだ。
実際にはさほど時間も経っていないし、たいした距離も進めていないのだろうが、男は自分が永遠にこの暗闇を這い進まなくてはいけない運命に落ちた気がした。
次第に下って行く気がする”橋”を進むと、不意にその狭い板の感触が途切れた。
「(先がない?!)」
ツルリと滑らかに磨かれた板の先端がただ虚空に突き出している。
愕然とした男の足元がガクンと下がった。
「ひっ」
腹這いになって板を抱え込むようにして、ずり落ちそうな体を支える。前方が下がった板の上で、男は頭から奈落に落ちていく恐怖に襲われた。
「い、嫌だ。助けてくれ」
思わず口から漏れた声に、応えがあった。
「上だ」
はっと顔を上げる。声は前方の少し上の方からした。とっさに天啓かと思ったが、先に行ったジェラルドだろうと、すぐに思い至った。
「どこだ?」
「そのすぐ前だ。手を伸ばせば届く」
「前……」
男は板の前方に手を伸ばした。
「嘘だ。何もないぞ!」
「かなり下がっているのか?立ち上がれ。飛びつけば届く」
「騙す気か?そんなことができるか」
こんな闇に向かって踏み出すなどできない。それに上には恐ろしい何かがあったはずだ。
「待て。もう少しで火が点く」
男は前方上方を凝視したが何も見えなかった。
「嘘だ!悪魔め、俺をはめたな!!」
また板が揺れて、もう一段下がった。
「あああああ……」
見上げた先に小さな明かりが灯った。
もしも明るいところで冷静に見たならば、彼我の距離はたいしたものではないとわかっただろう。だが今の男には、それは遥かな高みに思われた。
「ここまで来い」
ほのかに揺れる橙色の明かりに照らされた美貌の青年は、天界に座すもののようにも見えた。
男は這いつくばったまま、届くはずのない手を虚しく伸ばした。
金色の髪の青年は、灯火を掲げたまま、ただじっと男を見下ろしていた。
その青い目は、炎を映して妖しく光って見えた。
「悪魔め!貴様などには騙されんぞ」
男が身を引こうとしたとき、こわばっていた手が板の端で滑った。
「疑う者、惑う者、傲慢なる者よ。汝に死を与えん……か」
ここの設計者は本当に性格が悪い。
静かになった闇を見下ろして、ジェラルドはため息をついた。




