苦境
ホテルに戻ると、チェックアウトは終わっていると怪訝な顔をされた。
「どういうことだ?」
ヘルマンは尖った声でフロントマネージャーを問い詰めた。
昼に電信が入り、先程、迎えの馬車が来て令嬢二人はここを立ったという。
「お客様のご手配だったのでは?」
電信の差出人が”リチャード・ヘルマン”の頭文字だったので、特に不審に思わなかったと、ホテルマンは証言した。秘書のヘルマンは細かい会計や馬車の手配などで、何度かサインをしていたので、ホテルの従業員は彼の名前を把握していたのだ。
「部屋の鍵を」
ヘルマンとアバスは、まだ清掃はしていないという部屋に急いだ。
「なにもない。……伝言のたぐいも見当たらないな」
部屋はがらんとしており、私物は全部引き上げられている。
「いや、待て。そこのクロゼットを」
アバスは部屋に備え付けの小クロゼットから、覚えのある気配を感じた。
あの鳥の魔除けだ。
クロゼットの中には、ヴァイオレットの帽子箱とアイリーンのポーチが置かれていた。
「ご主人様に引き続いて、お嬢様方まで行方不明とは」
アンシュの家で、ヘルマンは頭を抱えていた。
あんなことがあったのでホテルに滞在する気が起きず、そのまま部屋を引き払ったものの、他に行く宛もなくて、二人はアンシュの実家である宝石職人の家に戻ってきたのだ。
「迎えに来た馬車は相当ちゃんとしたものだったそうだから、かなり強いバックがおるようじゃぞ」
相手はシャーマの過激派だと思っておったが、奴らなら電信じゃの黒塗りの箱馬車だのは使わん気がすると、アバスは顔をしかめた。
「絶望的なことを言わないでください」
それに引き換えこちらは、最低限の手荷物すらなくて着の身着のままだとヘルマンはうなだれた。
「我が家でしたら、必要なだけ滞在していただいて結構ですよ」
生真面目な宝石職人は恩を返すチャンスだと、誠実に申し出てくれた。正直、見知らぬ土地で路頭に迷わずに済んだのは助かったが、規模のわからない敵に狙われているかもしれない身で、あまり滞在していては迷惑を掛ける。そうでなくても息子のアンシュに怪我を負わせているのだ。
「アンシュ殿の容態はいかがかな」
「おかげさまで意識を取り戻しました。大袈裟にひっくり返っただけで、傷はかすり傷程度だと医者の先生は言っていました。お騒がせして申し訳ない」
「いやいや、ご無事で何よりじゃ」
最初はいうほど軽傷ではなかったのだろうとアバスはこっそり自分の腹を擦った。店に押し入った賊に撃たれた自分の傷は、信じられないほどあっという間に治った。銃で腹を打たれて死にかけたというのに、翌日には普通に起きて歩きまわっていたのだ。昔、ドクターの患者を何人も見ていたから知っているが、人はそんなに丈夫にはできていない。
刃物で襲われてあの出血だったなら、アンシュはそんなに軽傷ではなかったのは間違いない。それなのに今はもう医者がかすり傷という程度の状態になっているというのなら、よほど応急手当がよかったに違いない。
アバスは異国の青年が持っていた風変わりな携帯薬入れを思い出した。おそらくここの息子も、あの薬入れの小さな貝殻に入った軟膏を塗られたのだろう。
「(長生きすると妙なもんに出会うこともあるが、あまり妙なもんに深入りすると長生きはできなさそうじゃな)」
アバスは諦観を含んだため息をついた。
残念ながら、ここで手を引いて黒街に帰るには、この件は奇妙で面白すぎる。
「(どうせ店はほぼ畳んだしな)」
戻ってやりたいことがあるわけでもない。
アバスは消沈した様子のヘルマンを励ました。
「なぁ、秘書の兄さん。わしらは一見ないないづくしの八方塞がりじゃが、実はこれで意外に手持ちのコマは多いかもしれんぞ」
「どういうことです?」
「その気になりゃぁ、落ち込む以外にできることはあるってことじゃよ」
「はあ……」
眼鏡の秘書はひどく頼りない返事をした。
「ほれ。しっかりせい。死ぬ気でがんばりゃ、お前さんとこのジジイでも、敵に一泡吹かすぐらいできるわい」
「死ぬ気で……ですか?」
「わしは十分長生きしたから」
「えええ」
眼鏡の秘書はひどく情けない顔をしたが、嫌とは言わなかった。
川畑を乗せた馬車は、ぐるぐると随分遠回りをして、目的地に向かった。どこに向かうか知られたくないのだろう。馬車に乗る前に目隠しをされた。
神殿の雑用係に始まって、いくつもの場所をたらい回しにされた挙げ句、彼は裁量権のある偉い人がいるらしいところに連れて行かれることになった。
川畑は、目隠しをされたまま馬車から降ろされた。そのままどこかの邸宅の奥に案内される。ご丁寧に、途中で手械をはめられ、両膝同士を短い鎖で繋がれた。狭い歩幅でなら歩けるが、走るのは無理な長さだ。どうやら客人扱いではないらしい。
肘を掴まれた状態で、川畑は狭い階段を降りた。それからさらに足音の反響する通路をかなり歩かされる。重い音のする扉が開かれて、広い場所に入った。
「随分物々しいな」
「我々は慎重にならざるを得ないのでね」
距離をおいた向かいからした応えの声は、若い男のものだ。
若いと言っても20代や30代で、自分よりは年上の大人だろうと川畑は思った。貫禄には欠けるが、若さ故の稚気や生気はない。それでも老いや年齢による衰えとは無縁な感じがした。
冷淡なほど冷静な声の相手は、川畑をここまで連れてきた者たちを下がらせた。
背後で扉が重々しく閉まり、閂がかけられる音がした。
「それでは我らの元に現れた理由を聞かせてもらおうか。二度無き者」
協力してもらえるはずの相手からこんな応対をされるということは、最初の声のかけ方を間違えたかな?と川畑はこっそり反省した。




