塔門
塔門の中の階段は、本当に真っ暗で狭くて急だった。時折、明かり取りに開けられた石の隙間からわずかに陽光が差し込みはしているものの、それもごく狭い範囲を照らすだけで、他の部分の闇を濃くする役にしかたっていなかった。
「(彼なら頭をぶつけそうだわ)」
アイリーンは、天井の低い狭い階段を登りながら、背が高くがっしりした男の姿を思い出した。暗がりで想像したせいで、思いがけず生々しく相手の体格が脳裏に浮かんでしまって、アイリーンはこっそり赤面した。
別のことを考えようと思いながら、彼女は薄っすらと見える天井部分がイレギュラーに出っ張っているのに気づいて、かがんで避けた。
「(……でも彼なら器用に、こういう張り出しも全部なんの苦もなく避けそうね)」
あの何もかも見通しているような、闇の中で緑色に光る眼を思い出し、ゾクリとする。抱き寄せられたときの手の感覚や胸元の熱さまでもが次々と浮かんでしまって、アイリーンは慌てた。
「(ダメだわ。私、今絶対に人様にお見せできない顔をしている)」
黙っていると、どんどん余計な妄想が湧き上がって来る。
「(暗がりって、人を少し正直にするのね)」
朝起きたら何もかも忘れていた……というか最初から何も覚えがない様子だったバカの手前、これまで何事もない顔をして過ごしてきたが、闇の中で単調に階段を上がっていると、蓋をしていたアレやコレやが一気に吹き出して、顔から火が出そうだった。
「大丈夫でございますですか、お嬢様。息が乱れているようでございますですよ。お疲れでしたら、次のコーヴで休憩いたしましょうでございます」
ガイドは時折、階段の脇に設けられている横穴のような待避所で休むよう提案してくれた。
「そうね。そうしようかしら。ジェラルド、貴方はガイドさんと一緒に、先に登って頂戴」
無理やり取り繕って応えると、先を行くジェラルドと後からくるガイドの両方から否が飛んできた。
「僕が貴女をおいていくなんてありえないよ」
「いえいえ、どうぞ旦那様はお先に。お嬢様のことは私にお任せくださいでございます」
めんどくさい。そして、鬱陶しい。
アイリーンは一気に気分が冷めた。
「ありがとう。でも、もう少し頑張れそうだわ。早く上からの景色が見たいし、あと少しだから登ってしまいましょう」
人が一人入ればいっぱいというような狭い退避場所に彼らと3人でぎゅう詰めになるなんて願い下げだった。
「あ、でも遠慮しないでいいんだよ。え?いいから早く行けって?わかっ…っ痛っっぁぁぁあ」
「不注意だと頭をぶつけますでございますよ。旦那様」
アンシュは、気取った金髪の優男が思いっきり頭をぶつけて悶絶した気配が可笑しくて、ガイドの立場ながら笑いを堪えきれなかった。
「く……てめぇ、笑いやがったな」
「いやいや、このガイドの私が旦那様を笑うだなんて、ハハハ、……っんガッ!?」
「ザマァ。僕と同じところでぶちやがった」
「痛ってぇぇ。あんた、シダール語のスラング話せんのかよ」
「奴ほどではないが、お前達が内緒話か何かのつもりで話している内容が理解できる程度にはシダール語には通じている」
「内緒話なんかしてねぇ」
「してただろう。うちの奴の隣にずーっと付きまとって、延々と話し込みやがって。おまけにアイリーン嬢にまでこなかけるたぁ、フテェ野郎だ」
「ああん?俺はあんたのフィアンセにゃぁ全然手は出してないぞ。ああいう、超奥手で真面目そうなタイプはうっかり手を出すと大事故になるから……」
「それは私なら遊びで引っ掛けても大丈夫って思ったということかしら」
「えっ?いや、その……貴女もシダール語がわかる人?」
「基礎教養は一通り嗜んでいるの……言葉もわからない小娘が、代理とはいえ大事な取引先に寄越されるわけないでしょう」
「うっわ。発音完璧じゃん」
「”でございます”を忘れてるぞ。くそガイド」
「”旦那様”、さてはてめぇ、口も性格も相当悪い野郎だな」
「僕は友人からはもっぱら”いい性格をしている”と評されているんだがな」
「それは絶対に褒めてないし、そいつがお前を友人と思っているかどうかは疑わしいぞ」
大人同士の社交上の上っ面を見えなくしてしまう闇の中で、ちょっとだけ正直になった彼らは、益体もない戯言を交わしながら、塔門の屋上まで階段を登った。
入り口の表示によれば234段あるらしい階段を登りきった先は、唐突な青空だった。
単なる四角い竪穴から顔を出すと、そこは吹きさらしの塔の最上部だった。
「テラス……どころか屋上ですらないな。これは単に塔のテッペンの飾りの脇の隙間じゃないか」
最初に上がったジェラルドは照りつける日差しに目を細めながら、恐る恐る石の狭い張り出しの上に出た。
下は目もくらむような勾配で、手摺もなにもない。足場の幅は靴1足分がぎりぎりだった。
「いい景色ね。風が気持ちいい」
続いて竪穴から顔を出したアイリーンは、ジェラルドの手を借りることなく、さっさと上がると、得に臆することもなく張り出しの上を歩いて塔の端まで行って、あたりを見回した。
「遠くまでよく見えるわ。下にいる皆は今どのあたりにいるのかしら。見えるかな?」
まったく平気な様子で下を見ているアイリーンに、男達は当初考えていた「お手をどうぞ」だの「怖いかい?支えていてあげるから安心したまえ」だのといった下心満載の言葉をかける隙を見つけられなかった。
「へ……平気なんだね。高いところ」
「足場が不安定ならともかく、これだけしっかりした石造りの塔の、しかも観光客向けの展望台ですもの。流石に平気よ」
この高さでこの幅の足場を”しっかりした展望台”呼ばわりしてスタスタ歩くのは、男でも並の者には無理だと指摘したかったが、色男二人はプライドのせいでツッコミが入れられなかった。
「時化気味の晩の帆船の帆桁って、滑るし揺れるし最悪なのよ。あれに比べたら多少高くてもこれぐらい平地と同じよ」
それはどういう経緯でした体験なのかと聞きづらい剛毅なコメントに、男二人は力なく笑うしかなかった。
「それじゃぁ、そろそろ戻ろうか」
もと来た階段を降りようと四角い竪穴を覗き込んだジェラルドは、真っ暗な穴の底に人の気配を感じた。
「おや、上がってくる方がいるようでございますね。旦那様、一歩下がって場所を譲ってください」
口調を元に戻したガイドが後から声をかけたところで、竪穴から緑色の頭布が覗いた。




