怪人
「歌……素敵だったわ」
「あなたが上手だから頑張ったが、あれで良かったろうか」
少し自信なさげに眉を下げる様子が、闇の中でもわかる気がする口振りだった。アイリーンはくすりと笑った。
「とても良かったわ。もっと歌ってもらいたいぐらい」
「どちらかというと俺はあなたの歌を聞くほうがいいな」
プロ顔負けの歌唱力だと川畑はアイリーンの歌を絶賛した。
「あなたが歌姫なら、俺は歌劇場の怪人の前半役を喜んでやる」
「歌劇場の怪人?」
「戯曲だよ。身寄りを亡くしてコーラスガールに身を落とした薄幸のヒロインが、歌劇場の地下に隠れ住む姿なき怪人に見初められて、陰ながら援助されて歌劇の主役に抜擢される話だ」
「いい話ね。どうして前半役限定なの?」
「後半で怪人は、ヒロインを拉致監禁して、無理やり花嫁にしようとするんだ。あれはいかん」
「あら。相思相愛じゃなかったの?」
「ぎりぎり拉致までは同意の上だったんだが……怪人は顔が残念だったんで、正体がバレたところで女の子が嫌がってだな」
「世知辛いわね。それで監禁?うーん。好きじゃない相手に監禁されて結婚を強要されるのは、たしかにかなりキツイわね」
アイリーンは実体験に基づいてしみじみとうなずいた。
「ということはアンハッピーエンド?」
「いや、ハッピーエンドだ。ヒロインは助けに来た好青年と結ばれてめでたしめでたしになる」
「えええ」
「ヒーローは幼馴染で、金持ち貴族で、金髪美形でずっと彼女を愛していたんだ」
「それはまた随分な話ねぇ……」
「正直、男の存在はファンタジーだが、ヒロインの判断は現実的だと言わざるを得ない」
「まったくだわ」
「しかし、狂人の犯罪者に監禁された女の子をちゃんと日の当たる世界に連れ帰って、真っ当な生活がおくれるようにしてあげるというのは、正しい行いなので、それをやった男が評価されるシナリオは、倫理的に正しいと思う」
「ああ、なるほど。そう評価するのね」
「俺は女の子はきちんと家まで送る主義で、拉致監禁をする狂人じゃないから後半の怪人役はやりたくないし、かといって高貴な身分の美形好青年ではないので、ヒーローもできないから、とりあえず前半役だけ怪人希望だな」
そういう自己評価に基づいているのかと、アイリーンは妙に納得した。
「姿を見せずに陰ながら援助することを希望って、変わった趣味だと思うわ」
アイリーンはかつて彼女をそうやって助けてくれたこの風変わりな男を見上げた。闇の中で薄っすらと緑色に光っている彼の目が苦笑で細められた。
「身元も不確かで、まともに帰れるところもない、きちんとした世間体のない男が女の子にできることって、それくらいだろ」
アイリーンはなんだか胸が苦しくなった。
「そんなことないわ」
彼女は彼の胸に寄りかかった。
「こうやってそばにいて話をして、抱きしめてもらえることって、女にとっては重要なのよ」
「世間の目がないところでしか触れ合えない相手は嫌だろう」
「あら。世間の目があるところでは誰が相手でもしないものでしょう」
「……ソウデスネ」
それに本当に好きになったら、相手が異形の悪魔だろうが、異界の化け物だろうが気にならないわ、と彼女は独りごちた。
「ねぇ、怪人のでもヒーローのでもいいわ。その劇に歌があるなら歌って」
「うろ覚えだし、練習していない」
「覚えているところだけでいいのよ。あなたの声が聞きたい」
「俺はむしろあなたに歌ってもらいたい方なんだが」
「教えてくれたら歌うわよ」
「……それって、俺が女パート口ずさまないと教えられないのでは?」
嫌そうな口ぶりに、アイリーンはくすくす笑った。
結局、アイリーンにヒロインのパートを歌ってもらいたい川畑の欲が勝って、二人は誰もいない庭園でうろ覚えの歌曲のサビの部分を色々歌った。
途中、アイリーンが歌詞の中のヒロインの名前の部分を自分の名前に差し替えてくれと要求したり、興が乗ってきた川畑が悪ノリしたり、若干の脱線はあったが、概ね楽しい時間だった。
「”歌え!私のために”って言いながら、超高音歌わせつづける男なのね。この怪人……」
「序盤はそうでもないんだよ。これはクライマックスで歌われるから、もう完全にやばい人なだけで」
「なんで序盤の歌ではなくてこっちを歌わせたの?」
「インパクトが強いんで、つい」
川畑は終盤で怪人がさらった乙女と劇場の地下に降りるシーンの説明をした。
「洞窟のような地底湖っぽいところを小舟で下るんだ。舟が進むのに合わせて無数のキャンドルがこんなふうに水の中から現れて……」
彼が手を伸ばすと、園亭の周囲の水中から、先端に青白い光の灯った細いキャンドルのようなものが次々と現れた。それは水晶の結晶柱のように透明な氷の結晶で、水面近くは雪のように白い花弁状の結晶がパリパリと音を立てて立ち上がっていた、
沢山の小さな明かりが星のように瞬き、噴水の水が銀色の天の川のように煌めいた。氷のキャンドルに囲まれた白亜の園亭は、星の海に浮かんでいるようだった。
アイリーンは言葉を失った。
彼は、囁くように歌曲のフレーズを口ずさんだ。
「”怪人はここにいる”……」
「……”私の心に”」
アイリーンは少し震える声で歌を返した。
「”アイリーン…君をあい……”」
彼は、顔をしかめると、伸ばしていた手をさっと振り払った。
ガラスが割れるような硬質で高い音がして、氷のキャンドルは一斉に粉々に砕けて散った。光が消えてあたりは闇に沈んだ。
「シーンは綺麗だが、やっぱり己の孤独を埋めるために、恩を売った相手に愛を乞う怪人は好きになれないな。挙げ句、手ひどく振られて、それでもその件を引き摺ったまま延々と逃亡生活を続けるとか、それはない」
深くなった闇の中でそう呟いた彼の手に、アイリーンは自分の手を重ねた。
「いつかこの話をちゃんと通しで全部観てみたいわ。たぶん、あなたの解釈は少し間違っているんじゃないかと思うの」
「そうかな」
彼の返事はひどく不安げだった。
アイリーンは、空気を変えるべく、別の話題を振ってみた。
「歌も良かったけれど、ダンスも嬉しかったわ」
「あなたと踊るのは気持ちよかった」
帽子掛けと踊るよりずっと踊りやすい。とボソリと付け足した彼の言葉をアイリーンは聞き逃さなかった。
「なぜそこで帽子掛け?」
「えーっと、その……実はちゃんと女性とダンスを踊ったことはほとんどなくて、練習はもっぱら帽子掛けが相手だったので……」
「はぁ?」
「自発的に踊って、こちらに合わせてくれる相手はやはりとても踊りやすいな……と」
彼があれほどリードが上手くなるぐらいダンスの練習に付き合った相手がいるということに、実は密かに嫉妬していたアイリーンは、あまりのバカバカしさにガックリした。
帽子掛けと踊る羽目になったのは、賢者にアステアのコピー特訓もやらされたため。
「アステアは無理」
当然、ギブアップしました。




