恋歌
好きな相手が、自分を他の男に渡さないために頑張ってくれて、しかもカッコよく勝って、自分をダンスに誘ってくれる……。
「(最高だわ)」
アイリーンは、自分はお花畑な乙女思考には縁がないタイプだという自己評価を、いささか改めねばならないと思いながら、緩みつづける頭と脳を無理やりプライドで保持した。保持できていたはずだった。
しかし、柄でもない恋の歌を歌っているうちに、そのタガはどんどん緩んできて、握っている手は熱いし、足元はふわふわするし、視野は狭窄するし、人としてダメな状態になっていくのが、自分でよくわかった。
相手に合わせて揺れているだけで、なぜか足は軽やかにステップを踏み、繋いだ手を引かれたり、腰に添えられた手で少し押されたりするたびに、身体は面白いようにクルクル回った。
身体に力がかかるタイミングを絶妙にコントロールされているのだろう。
大きく仰け反った姿勢から、手を引かれて反動で前にぐっと踏み込んだ後に、両手でリフトされながら振り回されて、そのまま高く放り上げられたアイリーンは、かなり無茶な挙動をさせられているにも関わらず、夢見心地だった。
「(空を飛べそう)」
一歩間違えたら”ドスン”だの”ぐふぅ”だのみっともないことになりそうな着地は、まるで浮揚力がかかったかのようにソフトだった。
彼の力強い腕に抱きとめられたところで、アイリーンは虚勢を張るのを止めた。
全部お任せしますので、もうどうとでもしてください。
トロンとした目で見上げれば、予想以上に近い位置に彼の顔があった。
背に回されていた彼の腕に力がこもって、思わず詰めた息が、吐息になって漏れた。
曲調が変わった。
「歌って」と声に出さずに告げた。
彼と視線が絡んだ。
空気の質が変わった気がした。
「(摂り込まれる)」
彼から発せられる圧倒的な力が、アイリーンを呑み込み支配した。
旋律に合わせて低音の張りのある声が、先程アイリーンが歌ったのと対になる歌詞を朗々と歌った。
恋しかったあなたにあえて嬉しい。何を見てもあなたとともにいるだけで輝いて見える。でも花も月も星もあなたの輝きにはかなわない。何よりもあなたが愛おしい……というような内容だ。
通俗かつ凡庸な歌だが、今の乙女脳のアイリーンには致命的だった。
ただの歌詞だとか、この男がそんなことを自分相手に思うわけがないとか、そういう予防線的良識は、明後日の方向にすっ飛んで、彼女はただただうっとりと愛のこもった(ように聞こえる)歌に身を委ねた。
巡り会えた奇跡を言祝ぎ、永遠を共に生きようと誓い、愛し合う二人は必ず幸せになれると結ぶ、結婚式としてはたいそうおめでたい縁起のいい歌詞を二人は声を合わせて歌った。
川畑は、事前検証で主旋律とハモる低音部の旋律を確認済みだったため、二人の歌声は美しく調和し絡み合って、聴衆を魅了した。
真正面で重低音の直撃を受けたアイリーンは、体の芯から魂ごと揺さぶられるほどのインパクトを受けて、完全にやられた。互いに愛を告げる言葉が、和音になって溶け合い響き合って全身を包むというのは、恋愛経験の乏しい彼女にはなかなか凶悪な体験だった。
至福……。
歌い終えたアイリーンは、万雷の歓呼を浴びながら、パートナーとともに優雅に一礼した。
アイリーンは、そこで初めて観衆の視線の多くが自分にではなく、パートナーに向けられていることに気がついた。
そうだろう。そうだろう。彼のカッコよさにいまさら気がついたか、愚民どもめ。彼は何でもできて強くて超凄いんだぞ。あがめ奉り平伏すが良い!!
……という気持ちと、それはそれとしてこれは私が見つけた掘り出し物なので、盗っちゃだめ!という気持ちが同時に湧いて彼女は彼の腕にギュッとしがみついた。
「疲れただろう。少し休もうか」
ちょうど銅鑼が鳴らされて、中入りの休憩となった。新郎新婦はここで退席し、あとは本当の無礼講での徹夜踊りが続くらしい。
ここで抜けないと、エンドレスになるのは目に見えている。
川畑は、肩に掛けていた金のリングを、ここの使用人が差し出す盆の上に返した。
「人の少ない静かなところに行こう」
妙に目を熱のこもった周囲の視線に居心地の悪さを感じて、川畑はアイリーンを連れてさっさと大庭園をあとにした。
昼間散歩したときに訪れた庭園は、明かりが消えていて人気がなかった。婚礼の行事が終わったあと、まだ片付けが終わっていないようだ。
「ここで休ませてもらおう」
川畑はアイリーンの手を引いて、水路に沿って正方形の四分庭園の中央に向かった。昼間と違って、中央の池には小さな橋が架けられ、白大理石の園亭に大ぶりの椅子が置かれていた。星明りの元、白い園亭だけが闇の中に浮かんでいるようだった。
「足元、不安か」
橋の手前で少し躊躇したアイリーンを川畑は抱き上げた。彼はそのまま噴水の間を通って園亭に渡り、椅子に座った。
「いい景色だ」
彼は中庭をぐるりと見渡してそういった。アイリーンには花の香が濃い闇にしか見えなかったが、彼には闇を通して周囲が見えているようだった。
「(他に何も見えなくても、あなたとこうしていられるだけで幸せだわ)」
アイリーンはまだ少しフワフワしている頭で、こっそりそう思った。
噴水の水音が涼しげで、夜風が心地よかった。




