葛藤
「(どうしてこうなった)」
川畑はランプの柔らかい明かりが灯る部屋で、瀟洒な窓や扉に目を走らせた。
見たところジェラルド達の姿はない。
従者の控室というわけでもない。
気がつけば川畑は、豪華な客室でアイリーンと二人っきりだった。
川畑本人は気づいていなかったのだが、彼は翻訳さんによる基本の補正指定の再設定を失敗していた。
あまり特徴のない田舎で育った知識階級出身。極端な訛りはなし。学識はあまり高く見えない方がいい。世間知らずくらいで。悪目立ちせず、凡庸なお人好しの印象付け。美化は禁止。普段の自分そのままの地味な感じ。人種的特徴の外見的違和感は現地世界風に視覚情報を自動調整。
これが他の世界で潜入任務を行うときに川畑が翻訳さんにオーダーする基本設定だったのだが、今回、アイリーンの相手をするときにうっかり”オールキャンセル”指示を出してしまったのだ。
その後、補正無しで彼女に会うのは危険だと反省して、レギュレーションは再設定したのだが、その際、川畑は自分が他人からどう見えるかの方の指定を、いつも程詳しくしなかった。
その結果、現在の川畑は異世界人だという違和感の補正はされていたが、”目立たなくて凡庸”であることについては、さほど補正されていなかった。
つまり強力な思考可能体が一般眷属に与えるカリスマ的影響力が、ダイレクトではないもののかなりダダ漏れな状態になっていたのだ。
……下人扱いされるわけがなかった。
下船したのが5人。
あとから婦人が1人来る予定。
ジェラルドが自分の連れは、フィアンセと秘書と召使いと言い、アイリーンは自分はジェラルドのフィアンセではないと言い、自分のエスコート役として遠縁の従兄弟がいると言った。
ジェラルドがアバス老が自分の連れという認識が薄くて申告し忘れたのと、下船時に船酔いでぼーっとしていたヘルマンがアイリーンをエスコートしなかったこと、代わりに川畑がアイリーンの後ろに立って待っていたこと、などなどが重なった結果、ここの召使い達は、客人はこのような関係だと認識した。
招待客:アイリーン
その友人:ヴァイオレット
ヴァイオレットの婚約者:ジェラルド
ジェラルドの秘書:ヘルマン
ジェラルドの召使い:アバス老
そして、アイリーンのエスコート役で”遠縁の従兄弟”だと紹介されたがまったくアイリーンと似ていない川畑は、彼女と内縁関係にあるが身元を明らかにするのはまずい立場である愛人と解釈された。
シダールでは従兄弟同士が婚約するのはよくあることなので、血縁でない相手を「これは遠縁の従兄弟です」と紹介するのは、上流階級では公には言葉にしにくい関係の相手を紹介する場合の常套句だったのだ。
そのあたりの機微をよく心得た使用人は、アイリーンのオーダーを完全にその意味だと解釈した。
なにせ彼女は、ベッドは1つしか使わないから2つあっても無駄と言い切ったのだから。
かくて、川畑はアイリーンと同室にされた。
「手配ミスがあったようですね。すぐにここの人に言って正しい部屋に案内してもらいます」
シダールの貴公子ルックの川畑を呆然と眺めていたアイリーンは、彼の言葉にハッと我にかえった。
「待って!まずは落ち着きましょう。そこに座って……なんでまたあなたそんな格好に?」
よくわからないが、元の服はクリーニング中だからこれを着るようにと言われたと、川畑から顛末を説明されて、彼女は何かひどい誤解が発生していることをうっすらと察した。
「(誤解なんだけど……びっくりするぐらい似合ってるわ。物凄くしっくりくる)」
本物の美形王子様や美麗俺様皇帝を見慣れているアイリーンは少々の美男子には動じない自信があったが、不本意ながら思わず見惚れた。
むろん上質とはいえ部屋着だ。温暖なシダールの男物の室内着は、シンプルな白いアンダーと、短い立ち襟か襟なしで裾が長いゆったりした薄手の上着という簡単なものである。王国の礼服のようにボタンやモールがキラキラしているわけではない。しかし、比翼仕立てで繊細な刺繍が胸元に少し施された黒い上着は、部屋着とはいえとても上品で、控えめだが高品質で心地よさそうなところが、彼の雰囲気にジャストフィットしていた。
「(しまった。私、軍服や礼装のカッコイイのは散々見てきたけれど、このタイプは耐性がないわ)」
昔、好きだと自覚したときですら、どう見ても地味で無愛想だと感じただけだった相手が、今はやたらめったらにかっこよく見える。今朝方からの状態異常は、いったん収まったようでいて、ここに来てまた悪化していた。
「素敵ね。よく似合っているわ。少し織柄が入っているのかしら。光の加減で模様が見えるのね」
黙ってしまうと妙な雰囲気になってしまいそうな気がして、アイリーンはとっさに些細な話題を振った。
「ああ。すごくいい生地みたいなんだ。とても肌触りが良くて着心地がいい。触って驚いた」
「へぇ、どれどれ」
アイリーンは椅子に座っている相手に近づくと、覗き込んでその広い胸元に手をあてた。
「ぁ……」
確かに上着の生地はとても手触りが良かった。しかし、アイリーンはむしろその薄手の生地の下の弾力のある熱い胸筋の感触に意識を持っていかれてしまった。
「熱…い」
「風呂につかりすぎて少しのぼせているかも」
彼は、一番上の飾りボタンを外して、上着の襟元を緩めた。
アイリーンは彼の喉元から鎖骨のラインを凝視してしまった。
男性の手と顔以外の肌すらほとんど見たことがない育ちの彼女に、最上級スパで磨きたてられたばかりの彼からふわりと立ち上る熱気と香りは、インパクトが強すぎた。
「いい風呂だったよ。あなたはもう入った?」
「いえ、私は簡単に済ませたから」
家主への挨拶やら、同じように招かれている叔父の取引先各位との軽い社交上のあれこれやらで忙しく、彼女がこの部屋に来たのは、つい先程だ。
「それはもったいない。あれは是非体験したほうがいい」
湯船に花がたくさん浮いていたし、香りの良いオイルでマッサージしてもらえるんだと、川畑は女受けしそうなポイントを並べて、ここのスパを絶賛した。
アイリーンは、花びらの浮かぶ湯に浸かる彼や、香油を素肌に垂らされる彼のヴィジュアルを想像してしまって、頭がクラクラした。
「それは……凄い…わね。では、また機会があれば……」
「どうした?ひょっとして体調が悪いのか?」
「いいえ。なんでもないわ。ただ、少し疲れただけよ。今日は色々あったから」
「そうだな。気が利かなくて悪かった」
彼は立ち上がって彼女の手を取った。
「もう休むといい。寝室はあちらの扉かな」
思った通り隣の部屋は寝室で、ベッドがあった。天蓋付きのキングサイズのベッドが1つだった。
初恋の彼に手を引かれて、暗いベッドルームにいざなわれるという現状に、アイリーンは心臓が口から出そうな気分になった。
「(大丈夫!なにもない。意識しているのは私だけ。彼はきっとまたなんとも思っていない……はず……だよね?)」
そっと相手の顔を見上げてアイリーンは息を呑んだ。
暗がりで彼女をベッドに座らせた彼の目は、微かに緑色に光っていて、どこかトロリとしていた。
「アイリーン。髪を解いていい?」
「あ……はい。ど、どうぞ」
うつむいた首筋に触れる彼の手が熱い。背筋がゾクゾクして、腰の後ろまで痺れた。
「あの……暗くない?明かり点けたほうが手元が見えるでしょう」
「……そうだね」
離れた気配に、アイリーンはホッとした。
「着替えをお持ちしました。お嬢様」
隣の部屋から戻ってきた彼の手には、ランプと彼女の夜着があった。
「ありがとう。そこにおいて」
ベッドサイドの背の低い棚にランプを置いた彼は、その棚に置いてあった小瓶を手に取った。
「なあに?」
「何だろう」
彼は、夜着をベッドに置いてから、小瓶を開けて中身の香りを確認した。
「ああ、これはいい。オイルマッサージのときに使っていたのと同じオイルみたいだ」
彼は振り向くと、目を細めてなんともたちの悪い笑みを浮かべた。
「いかがですか?お嬢様。本場の本格派をさっき体験してきたところなので、新しい技を色々仕入れていますよ」
アイリーンは耳まで赤くなった。
空回り気味に高速回転した彼女の頭脳は、現在進行系で非常にヤバい誤解を生む状況が積み重なっていることを察した。
「(ついでに、このままだと私自身がこの状況に流されそう)」
せっかくここまでお膳立てされた状況になったのだから、勢いでこのままその誤解に乗っかってしまってもいいのではないかという欲望の囁きで頭がガンガンした。
とはいえ。
「今はいいわ。ありがとう」
アイリーンは着替えを手にとって、令嬢らしく貞淑に微笑んだ。
この”ありがとう”は”下がってよろしい”の意味だと、召使いなら全員が理解する言い方をあえてした。
「失礼致しました」
彼女がした線引きを完全に理解した様子で、彼は恭しく一礼した。
「あちらで控えておりますので、御用の向きがありましたらいつでも何なりとお申し付けください」
彼が部屋を出て扉が閉まったところで、アイリーンはへなへなとベッドに崩れ落ちた。
「(いかん。つい、欲に流されるところだった)」
どうせならマッサージだけではなくて、髪も洗わせて……などと口走る前に追い出してもらえて良かったと、川畑は胸をなでおろした。
翻訳さんのレギュレーション補正が効いているせいか、直視できる程度にはなっているが、それでも彼女は可愛い。特に髪を下ろすといい。
一度、正確な状態を把握しているため、感覚補正があっても実際はこうだろうと推測できてしまうのもいけない。
「(気をつけないと)」
彼女はいいところのお嬢様で、自分は召使いというか奴隷身分の下僕という今のロールを踏み外してはならないと、川畑はあらためて自分に言い聞かせた。
「(召使いだから……着替え、手伝ったほうが良かったのだろうか)」
彼女のドレスを脱がせるところを想像して、川畑は「それはやらなくて正解」と思った。
「(さて、どうするかな)」
ジェラルドのところへ戻るのが良いのだろうが、ここで控えているからいつでも呼んでいいと、先程アイリーンに言ってしまった。勝手にいなくなるのは良くないだろう。
川畑は久々に本を読むことにした。
その頃のノリコさん……
「川畑くんに”大丈夫?”なんてメッセージ送っちゃったけど、よく考えたら川畑くんはいつでも大丈夫な人なんだから、意味なかったよね。……変に思われちゃったかな」
連絡が取れるのは嬉しいが、レスポンスが悪い上に、一度に短文しか送れないので、かえってもどかしい。
ノリコはうらめしげに手帳のページを睨んだ。すっかり1日に何度も返信を確認する癖がついてしまっているのが恥ずかしい。
「あ!来た!!」
返信;”たぶん”
「大丈夫かどうか自信がないって、どういうこと?!」
叫んでも手帳は川畑の現状を教えてはくれなかった。(幸いなことに……)




